30.1 マハトマ・ガンディーの名言「非暴力は人間に与えられた最も偉大な力である」 | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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30.1.マハトマ・ガンディーの名言

「非暴力は人間に与えられた最も偉大な力である」

「非暴力は人間に与えられた最も偉大な力である。
 それは、人間が発明した最強の破壊兵器よりも強い力を持つ。


”Non-violence is the greatest force
 at the disposal of mankind.


 It is mightier than the mightiest weapon of
 destruction devised by the ingenuity of man.”



2021年2月1日に、この十年間、民主化と経済開放を積極的に行ってきた、「アジアの最後のフロンティア」とまで呼ばれたミャンマーで、軍事政権によるクーデターが起きました。
まもなく三か月になろうとしています。

このミャンマーの情勢は日を追うごとに混乱、混迷を深めています。
以前のように民主化を要求する国民に対し、銃口を向けて殺戮をする軍の暴力と蛮行は信じられないレベルまでエスカレートしています。
すでに千人近くの罪のない国民が亡くなっています。

筆者としても早くこの国軍の暴力と蛮行が収まり、話し合いによる解決への道が開かれることを望む次第です。

絶大な権力と軍事力を持った相手に対して、今も民主化向けた取り組みを行う人たちに、かつて同じような状況の中で、非暴力と不服従の市民の運動を展開により、自らの権利と自由を勝ち取ったアジアの偉大なる先人である「マハトマ・ガンディー」の名言を捧げます。

この言葉は、説明をする必要もないほど平易で、ガンディーの実体験をそのまま述べていると思います。
彼はこうも述べています。

「私は失望するといつも思う。
 歴史を見れば、真実と愛は常に勝利を収めた。
 暴君や残忍な為政者もいた。
 一時は彼らは無敵にさえ見える。
 だが、結局は亡びている。
 それを思う」



では、この人はどのような人生を歩んで、この名言にたどりつくようになったのか、彼の生まれから青、壮年時代を振り返ってみたいと思います。

マハトマ・ガンディーの青年時代

マハトマ・ガンディーは1869年(日本の明治二年)にイギリス領インド帝国、現在のグジャラート州でヴァイシャ(庶民階級)の家の末っ子として生まれます。
家は比較的裕福でした。
小学校の成績は悪く、融通もきかない性格だったといわれています。
敬虔なヒンドゥー教徒だった両親の影響もあって、彼もヒンドゥーの教えに忠実でしたが、
若い時は素行も悪く、戒律で禁じられている肉食もしていました。

その後、12歳でハイスクールに入学します。
13歳の時にはインドの幼児婚の慣習により同い年で生涯の妻となる
カストゥルバと結婚します。
高校での成績はそこそこ良かったようです。

1887年、ガンディーは18歳の時に、宗主国イギリスの首都ロンドンに留学し、インナー・テンプル法曹院に入学し弁護士になるための勉強をするようになります。
これからは大学で、それも西洋の大学で学問を習い、母国を近代化するのだという
強い意気込みで、親戚や、カースト会議の反対を押し切っての単身での渡海でした。


[若き日のガンディー]wikipediaから引用

 

この留学時代に、ヒンドゥー教の聖典「バガヴァット・ギーター」を読んだことで、彼は自らの行動を改め、規律正しい生活を送るようになります。
英語を通じてインドの伝統を学ぶようになったわけです。

このイギリス留学が、法律家として専門知識を身につけると共に、外国の文化の中に身をおくことで、自分の母国インドの歴史や伝統に目覚めるという点で、彼の人生を決定付ける時期だったといえそうです。

同時期、日本からの多くの留学生が西洋の文化に触れて、日本人のアイデンティティを自覚するのと同じような体験をしたのでしょう。

三年後に弁護士の資格を得たガンディーは、勇躍インドに戻りますが、仕事はうまくいきませんでした。
母国で求められる人材は、ヒンドゥ法やイスラム法に精通した植民地人として、イギリス人をサポートしてくれる者で、英国で弁護士になったインド人は要らないというわけです。
イギリス帰りで、プライドが高いガンディーはボスと言い合いばかりをしてしまいます。

弁護士の資格はあっても、法廷で弁護をするといった実務経験もありませんでした。
これでは当然、仕事もうまくこなせません。

妻子を抱え、留学費用も親族に返せず頭を抱えていたガンディーでしたが、ある人が南アフリカなら仕事があるよと助け船を出してくれました。

この当時、南アフリカには一万人を越すインド人が移民をしていました。
現地のインド人のために法律訴訟や契約などに必要な書類を作成するといった
法律の知識がある人を求めていたというわけです。

こうしてガンディーは二十代前半で、当初1年の契約で南アフリカに赴つことになります。
結局、22年間滞在することになるのですが。

1890年代の南アフリカは、白人とズールー族などの現地人、インドなどからの移民は
人種差別がひどく、奴隷のような扱いを受けていました。
後のこの国のアパルトヘイト政策でもわかる通りです。

ガンディは、弁護士の仕事をしてお金を儲けながらですが、同時にプランテーション、鉱山、農園、工場といったところで働くインド人労働者に対する過酷な差別を目の当たりにし、徐々にこの地のインド人の地位向上運動に身を投じることを決意するようになります。
インド人の社会活動、市民活動をしていくリーダーとなっていくわけです。

ところでこの南アフリカには、一口にインド系移民といってもインドのさまざまな所から集まって来た人たちです。

タミル人もいる、ベンガル人もいる、グジャラート人もいます。言語も宗教もカーストも違うのです。
ガンディーはこの人たちを一つのインディアというグループを作り上げることに力を注ぐわけです。

そのようななかで新聞を出したり、農場を作ったり、職業をなくして食べていけない人もみんなで一緒に暮らしたり、ということを始めます。カーストも宗教も関係なく暮らしましょう、そのような世界を作りましょうというのを実践していくわけです。

このガンジーのアイデアは面白いことに、母国の仏教やヒンドゥーの教えからではなく、
文通などで交流のあったロシアの文豪トルストイからきています。
何でも良いものは取り入れ、自家薬籠中として実践したわけです。

そして、南アフリカの地でインドからの移民の人たちとして一緒になりながら、どうやって自分たちの権利を、強大な大英帝国、南アフリカ政府に対抗していくのか命題の解決に至るわけです。

こうして、「サッティヤ-グラハ」(真理を実現する)と名付けられた非暴力で不服従
の市民の運動を展開していくことになるわけです。

 

この非暴力という考え方は、伝統的な母国のヒンドゥー教、ジャイナ教や仏教の教えにヒントを得たものでしょう。

ただ単に無抵抗主義ではなく、ストライキという形で立ち向かったわけです。この「サッティーヤグラハ」という運動の命名も、彼らの新聞で公募をして、その中からこれが良いと決めたそうです。サッティーヤというヒンドゥー語を用いたことで、インド人によるインド人のための運動と、ナショナリズムにも訴えた命名です。

何とも失敗や挫折の連続、回り道ばかりのガンディーの青春時代です。
しかしながら、いつのまにかガンディーは自分の生きる道を見出し、多くの仲間に支えられながら、彼らのリーダーとして立ち上がります。
この南アフリカでの時代に、ガンディーは自分自身の精神面を鍛えるために禁欲、断食、清貧な生活といった精励、努力を重ねています。
そのことで仲間から絶大な尊敬と信頼を得るようになった次第です。

そして、その目標の実現に向けて歩み出すガンディーでした。
この文章の終わりにあたり、マハトマ・ガンディーの命式を示します。


[マハトマ・ガンディーの命式]

 

次回はガンディーの命式を読み解いて、インドの独立に邁進する
後半生に触れたいと思います。

 

今回も最後までお読みいただき有難うございました。