30.清少納言の名言「遠くて近きもの」 | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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30.清少納言の名言「遠くて近きもの」

ようやく四月、
今年は桜の開花も早く、筆者の住む京都では(4月4日現在で)すでに散り始めていますが、陽気も良くなり何か新しいことに挑戦したくなる季節です。。

この時期にいつも思い出すのが、平安時代を代表する文学『枕草子』の冒頭の一節です。

「春は あけぼの。
 やうやう白くなり行く山ぎは、少し明かりて、
 紫だちたる雲の細くたなびきたる」


【現代語訳】
「春はあけぼの、夜明けが良い。
 だんだん白くなってく山際がちょっと明るくなって、
 紫っぽくなった雲が細くたなびく」


学校の古文の授業でも出てきますので、皆さんご存知で覚えている方も多いと思います。
今回は、清少納言の名言を紹介したいと思います。

「遠くて近きもの 
 極楽。舟の道。人の仲」

            枕草子 第167段

【訳】

「遠くて近いもの
 極楽
 舟の旅路
 男女の仲」


現代語訳が必要ありませんね(笑)。

少しだけ筆者なりの解説をします。
「極楽」は今よりも仏教が身近にあった平安貴族の心境で考えてみます。
「極楽」は彼らにとって死後の理想郷ですが、そのことをイメージはできても、
果たして極楽に往生できるか。迷いや疑問は多くの人につきものだったと思います。

清少納言は、「阿弥陀仏の本願に基づいて、その浄土に往生できるという僧侶の教えを信じて、一心に観仏、念仏すれば、 死後すんなりと極楽に往生できますよ」
すなわち、強く信じて行えば救われると言いたかったのではないでしょうか。

舟の旅は、平安時代の貴族の娘は普通は経験のないものでしょうが、
清少納言は父について舟旅を経験しています。
到着する港が見えても、なかなかたどり着かず、一見遠いように見えますが、舟の旅は徒歩と違って自分で身体を動かさずとも目的地まで運んでくれます。

遠いように思ってたけど、近かったよ!というのは実感でしょう。

遠くて近きは男女の仲とは、男性と女性は遠く離れているように見えて、意外と結びつきやすいものであるということでしょうか。
このあたりの男女の機微を解説する資格も経験も筆者にはありませんが、一般的な話をします。

赤の他人どうしが親しくなるのはどのような場合でしょうか。
何か共通のコトを経験するとか、話のきっかけとなる趣味が同じとか共通の知人がいるとか二人が繋がりを意識した瞬間に、遥かに遠くに感じたはずの『距離』が一気に近づくことは誰にでも経験があると思います。

そのきっかけを活かすも殺すも、その人次第ですが。

いずれにしても、男女の仲は遠いように見えて近いものという言葉も何となく納得できる人生の公理でしょう。

この一見何の関係もない三つの言葉を、うまく一つにまとめて語るところが、作者の清少納言の
真骨頂だと思います。

『枕草子』は千年以上前に書かれたエッセイですが今でもそのまま通じそうです。
人生の機微を、修飾語を削り取った必要最小限の言葉で、表現しています。
それでいて読む人が成る程と納得させる知的な面白さ、優雅さも失っていません。
さすが、『源氏物語』と並び称される平安文学の傑作で作者の力量や性格をも良く現していますね。

清少納言の生涯





[清少納言]wikipediaから引用

 

清少納言は、その本名も生没年もはっきりわかりません。
966年(康保三年)のころ生まれて1025年(万寿二年)のころ没したと推測されています。

父は清原元輔は『後撰和歌集』の撰者の一人で、梨壺の五人と称された歌人です。
清原氏には和歌や漢学に造詣の深い者も多数いました。また、父の友人には源順、
大中臣能宣ら漢詩文や和歌に精通した一流人物が多く、元輔の末娘はこれらの人々に愛され、利発な少女として育ったようです。

981年(天元四年)ころ,名家橘氏の嫡男則光と結婚をし、翌年則長を生みますがまもなく離婚します。性格の不一致が原因のようです。

そして、父元輔は990年(正暦元年)に肥後守として83歳で任地に没します。
993年(正暦四年)、清少納言27歳の頃に一条天皇の中宮定子のもとに出仕し、約10年間の女房生活を送ることになります。彼女の評判の才媛を聞きつけていた定子の父、中関白藤原道隆のたっての要望によるものです。
外向的で協調性に富み、感激性の清少納言は華やかな宮廷生活に素直にとけ込み、たちまち中宮方を代表する存在となりました。
一条朝の四納言、藤原公任・源俊賢・藤原斉信・同行成らと交流し、文才を競う快適な日々を過ごします。

しかし995年(長徳元年)道隆の死去などにより政権の座は道隆の弟道長に移り、その後に道長の娘彰子の入内もあってはなはだしく不遇な世界を体験することになります。

中宮の兄弟伊周・隆家らが左遷されると、中宮の女房たちも去就に迷いはじめます。
清少納言には、左大臣道長方に内通しているとのうわさがたち、長徳元年の夏・秋には長期の里居にこもることとなります。
清少納言が気を紛らせるために原初の『枕草子』を執筆し始めたのはこの時であろうと専門家は推察しています。

やがて中宮定子の、自分のもとに帰ってきてほしいとの愛情こもった願いに応えて帰参してからは、いままで以上に定子の良き相談相手となります。
叔父道長の圧迫や、その娘彰子と二后並び立つ窮境にも屈せず、一条天皇の愛情にこたえる定子の姿と、その定子に仕えることを誇りに思う日々を送ります。

1000年(長保二年)24歳の若さで定子が没します。
道長方が皇后の遺児たちに温かく接することを願って、もっぱら皇后定子のすばらしい人柄を賞賛し、最終的に現存本の『枕草子』を完成したのは,寛弘年間(1008ころ)といわれています。

この後、宮仕えを離れてからの清少納言に関しては、確実な史料はなく具体的なことは
はっきりわかりません。
晩年の清少納言は零落して遠国に流浪したという数々の説話が残っているようです。
一説では、月輪(つきのわ)(京都市東山区月輪町)に隠棲し、宮仕え時代と比べると寂しい生活を送ったということです。

清少納言と並び称される平安時代を代表する紫式部は、その『紫式部日記』の中で、彼女の学才を疑い、他人と異なることを好む性向を批判しています。
しかしながら『枕草子』で中宮のめでたさを賛美し、自己の観察した世界を見事なまでにで記す文章に接してみますと、必ずしもこの批判は当たっていないようにおもえてなりません。
また、赤染衛門や和泉式部ら当代一流の女流歌人とも交流し、その明るい人柄は多数の人々から敬愛された清少納言ですから、晩年の彼女の生き方はある程度自分から選択したものだと思います。
一見華やかな宮廷生活も、その裏では人々の恨みや妬み、陰謀や欲望が渦巻く人間世界
であったことでしょう。
そのような世界を離れ、京の田舎の自然の中で四季の折々を、をかしく感じながら清貧な暮しを過ごしたように思う次第です。


「秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、
 からすの寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど
 飛び急ぐさへあはれなり。

 まいて雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、
 いとをかし・・」 


【訳】
「秋は夕暮れ。夕日がさして山の端にたいへん近くなっているところに、
 からすがねぐらへ行こうとして、三羽四羽、二羽三羽などと飛び急ぐ、
 そんな様子さえもしみじみとした情趣がある。

 まして、雁などの連なって飛んでいるのが、非常に小さくみえるのは、
 たいへん趣が深い。・・・」

 
という枕草子で描かれたままの世界です。


それではもう一度清少納言の名言を味わってみてください。

「遠くて近きもの 
 極楽。舟の道。人の仲」