〇26.2 ゲーテの命式を読み解く | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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「正しく実行すれば、夢はかなう」をモットーに東洋易学、四柱推命(神機推命)、風水などの秘伝を公開し、自分の夢を実現するとか、悩みの解消に役立つ運命好転化技法を紹介します。

新年明けましておめでとうございます。
2021年正月、世界中がまだまだコロナ禍で大変な時期が続いていますが、ワクチンの開発と接種の開始など明るい兆しも見えてきました。

新型コロナウイルスに負けないよう、手洗い・うがい・マスクの着用と、三密を回避して、困難にめげずに勇気を持ってこの厳しい時期を乗り切っていきたいものです。

2021年の最初のテーマは「ゲーテの命式を読み解く」です。

ゲーテの命式を読み解く

ヨハン・ヴォルクガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)は、1749年8月28日に、父ヨハン・カスパーと母エリーザベトの長男として、神聖ローマ帝国(現ドイツ連邦共和国)フランクフルトに生まれました。

ゲーテの『詩と真実』には、

「1749年8月28日、正午十二点鐘と共に私はマイン河畔のフランクフルトでこの世に生まれた。
星位は瑞相を示していた。太陽は処女宮の座に位しその最高点に立った。
木星と金星は好意を以て、水星も反感をもたずに太陽を眺め、土星と火星は
無関心の態度をとっていた」

と生まれた時の星座配置を記してあります。

筆者は、西洋星占術は基礎的な知識しかなく、ホロスコープを正確に読み解く
ことができませんので、詳しい方がいらっしゃいましたら、このゲーテの
ホロスコープを読解、ご教授いただければ幸いです。

このゲーテの生誕日時を、時差を計算して四柱を算出します。
命式をご参照ください。
 

 

[ゲーテの命式]

 

己巳 年
壬申 月
壬戌 日
庚戌 時

の生まれとなります。

月令は旺相で、身旺の生まれとなります。
五行を集計しますと、木気がなく、火気が1、土気が3、金気が2、日主を含む水気が2となります。
この人は、月支元命が偏印の偏印格の人です。

 


[ゲーテの肖像画] Wikipediaから引用


この偏印は人気星で、芸術家や職人・芸能関係、アスリートなどの職業に向いているといわれます。
また、独創性に富むアイデアマンで他人と同じことをやりたがらない偏屈者という一面もあります。
偏印は別名倒食ともいい、食と健康の源である食神を傷める性情があるので、一部の推命家から凶星として忌み嫌う方もいますが、決して凶の作用だけでない優れた性情も有する通変星です。

ましてゲーテの場合は命式に食神を有していませんので、偏印の良い面を十二分に発揮できる命式といえます。
年柱の正官-宝財の組み合わせは非常に良い意味合いが強く、この人が裕福な家庭の長子として生をうけ、幸運の星の下に生まれることを現しています。
両親の愛情を十二分に受け、非常に大切に育てられたことでしょう。

また、ゲーテ本人も才能に恵まれ、学問もスポーツも優秀な幼年期を送ると考えられます。
この宝財は六親の父親を現わし、父親の影響をたいへん強く受けることを暗示しています。

問題は、月柱に現れる比肩です。この星は自我、独立独歩、自らの道を自らが歩むという意味合いがあり、宝財とはあまり相性が良くありません。ゲーテが長じるに伴い、父親からの干渉を嫌い自分の生きる道を進もうとして、父親と衝突したり、葛藤を生み出すもとになりそうです。

この命式の特徴として、合や刑冲害といった関係が少ないことが上げられます。非常に実直で裏表のない性格といえそうです。
また、女性に対して興味がありすぐにちょっかいをかけますが、はっきり言って女性にはあまりもてません。
失恋を繰り返すとこが多いのではないでしょうか。

晩年まで精力的に仕事をこなし、多くの分野で業績を残す社会に有用な人材になる可能性が高い優秀な人と看ることができそうです。
特に命式に二つある威官は英雄の星です。仕事の星です。仕事大好き人間で、黙っていても周囲からこの人に仕事の依頼が次ぎ次ぎと持ち込まれます。
また、日柱蔵干は配偶者の座です。ここに威官があることから、この人の配偶者は男勝りの傑物とも読めます。

また、年柱天干の正官も併せて看ると、若い時は、仕事や職業における変遷、迷い、一つの仕事に専念できず、いろいろと自分の可能性を試すことがありそうです。
悪くすると職業を次々と変え、定職に就かないという意味合いもありますから、注意が肝要です。
友人や仕事仲間からの助言を大切にし、それに従えば道を誤ることはなさそうです。
友人を大切にするか、しないかで成果を手に入れるか、中途半端で実りの無い人生に終わるか決まりそうです。

ゲーテの子供運は悪くありません。男子、女子の子供に恵まれそうです。
(実際には何人かの子供に夭折され、晩年には長男にも先立たれてしまいます)

健康運も悪くはありませんが、中年以降は持病には悩まされそうです。
特に腎臓や生殖器、泌尿器関係の病気に注意する必要がありそうです。

以上、ゲーテの命式をざっくりと読み解いてみました。

ゲーテのヴァイマール時代

1775年、ゲーテ26歳の時のことです。ヴァイマール公からの招請を受け、ヴァイマールに移り住みます。
この地は1552年からザクセン=ヴァイマール公国の都となり、王宮などが置かれ発展しましたが、七年戦争に巻き込まれて街は灰燼に帰しました。
国自体も小さく、荒廃していたヴァイマール公国の復興に尽力すると同時に、文化政策にも傾注しました。ゲーテは後にヴァイマル公国の宰相にまでなります。1786年まで政治家として政務に専念します。

ゲーテをこの地にもっとも強く引き付けたのはシュタイン夫人との恋愛でした。
ゲーテより7歳年上のシュタイン夫人ですが、すでに夫との仲が冷め切っていました。青年ゲーテを暖かく迎え入れます。この恋愛はゲーテがイタリア旅行を行なうまで12年続きます。

1780年の31歳の時には、フランクフルトのロッジにてフリーメイソンに入会しています。

また、生涯の友でありいわゆるドイツ古典主義の双璧を担ったシラー(ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー: Johann Christoph Friedrich von Schiller、1759-1805)は、このときゲーテに大学の教授として招聘された知識人の1人です。



[ヴァイマールのゲーテとシラーの銅像]

 

ゲーテより10歳年下のシラーは劇作家として高名ですが、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」の原詞で最もよく知られるように、詩人としても有名です。シラーの書く詩は非常に精緻でかつ優美であるといわれています。

1788年、シラーはルードルシュタットにてイタリア旅行から帰還後間もないゲーテと初めて会います。しかし、お互いに対して好印象を抱くことのないままに面会は終わります。

イタリア旅行を経て古典主義へと方向を転換しつつあったゲーテにとって、シラーは自分の克服してきた時代(疾風怒涛:シュトゥルム=ウント=ドランク)にいまだしがみついている詩人として映りました。またシラーの目には、当時のゲーテは非社交的で横柄な官僚的人物として映ったようです。

親交を深めるようになったのは6年後の1794年の植物学会で言葉を交わしたことがきっかけだとされています。
シラーはゲーテの興味をもう一度詩作にも向けた立役者で、シラーの言葉を受けてゲーテは小説『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』と叙事詩『ヘルマンとドロテーア』を完成させました。

『ファウスト』について

1774年、ゲーテ25歳前後に着手し始めた『ファウスト』は長らく手つかずの状態が続いていましたが、シラーからの言葉で執筆を再開します。
後に「シラーと出会っていなかったら『ファウスト』は完成していなかっただろう」とゲーテは語っています。
こうしてお互いに切磋琢磨しながらドイツ文学の礎を築いていきます。

文学者としてのゲーテを語るうえで欠かせない作品が『ファウスト』だと思います。(筆者は高校生の時に、手塚富雄さん訳の『ファウスト』を読んでいますが、内容はほとんど忘れています。西洋のギリシャ時代から続く伝統や歴史の知識がないと、作品を理解することが難しいかもですね)

この主人公のファウスト博士は、16世紀頃のドイツに実在した高名な医師にして錬金術師、魔術師だったそうです。生きているうちから、悪魔と手を結んで魔法に身をゆだねたという伝説ができ、文学・音楽・絵画の題材とされてきました。

もう一人の主人公ともいえるメフィストフェレス悪魔です。
水木しげるの漫画「悪魔くん」にも現れる人物で、漫画では悪魔くんと共に悪い妖怪を倒す正義の味方に描かれています。水木の作品では怖いというより、愛嬌のある人物にも見えますが、実際は剣呑な悪魔です。元々は、暗黒の帝王ルシファーに仕える悪魔世界の大物で、彼と共に神に反逆したことになっています。

メフィストフェレスはこの世におけるファウストの望みを叶える代わりに、その魂をもらう(死後は自分の支配下に置く)ことをファウストと取り交わします。


このシラーとの出会いこそが、文学者ゲーテに最も大きな影響を与えたといえるでしょう。
1805年、シラーは肺病のため若くして死去します。ゲーテはシラーの死の直前まで、文学的助言を求める手紙を送り続けています。シラーの死を知ったゲーテは「自分の存在の半分を失った」と嘆き病に伏せっています。

ゲーテの中晩年を振り返る

ゲーテは1788年に39歳の時に、23歳のクリスティアーネ・ヴルピウスと恋人関係になり、1789年には子どもも生まれましたが、身分の違いもあり籍は入れていませんでした。

しかし1806年にフランス兵がゲーテの家に侵入した際、クリスティアーネと他の兵士がゲーテを救ったことがきっかけでようやく籍を入れたのでした。

自分のことを命がけで守ってくれた女性に対して、その献身的な働きに心を打たれ正式に結婚することに決めました。
クリスティアーネは1816年に亡くなっています。

晩年のゲーテは、腎臓の病気にかかってしまいその治療をしながらの創作活動となりました。

ゲーテは作品を執筆している最中、病に襲われたり妻に先立たれたり辛い経験をたくさんしています。悔しい思いも数かぎりなく味わいましたが、その都度勇気を持って立ち向かったからこそ、後世に残るような作品を作り上げることができたのかもしれません。

1806年には『ファウスト』第一部が完成し、世に発表されます。
『ファウスト』第二部は25年後の1831年に完成しています。完成の翌年 1832年に82歳で ゲーテは亡くなっています
亡くなる時に「もっと光を!」という言葉を最後に遺して。
 

以上、ゲーテの生涯を早足で振り返ってみました。

改めて気づかされるのは、ゲーテは文学者、自然科学者、政治家といった異なる仕事を見事にこなした恋多きオールランドプレイヤーだったことです。

それを可能にしたのは、彼の持って生まれた才能だけではなく、幅広い視野と、既存の価値観にとらわれない自由な精神によるところが大きいのだと思います。

例えばゲーテは、種々の宗教哲学に触れたことで、汎神論(すべての事象は神性を持つ、自然は永遠の、必然的な、神自身でさえ何ら変更できない神的な法則に従って働いている)的な立場を取るようになりました。

学生時代からヨーロッパ諸国を遍歴し、優れた語学力を活かして各国の様々な階層の人と交流した彼にとって、国や民族や流派などのこだわりは、小さなしがらみでしかすぎなかったのでしょう。

彼の自由な精神は、「調和」を是とするものであって、フランス革命の招いた無秩序状態などとは相容れませんでした。
彼の生き方にも作品にも、それを言い切ってしまえるエネルギーと説得力が満ちています。この精神こそ、ゲーテが時代も地域もこえて愛され続けている所以でしょう。


最後にゲーテの名言をもう一度記します。

「名誉を失っても、もともとなかったと思えば生きていける。

 財産をなくしたら、またつくればよい。
 
 しかし勇気を失ったら、生きている値打ちがない」