□26.1.ゲーテの名言「勇気を失ったら、生きている値打ちがない」 | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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□26.1.ゲーテの名言「勇気を失ったら、生きている値打ちがない」


18世紀ドイツを代表する詩人、小説家、科学者にして政治家のゲーテの名言です。

「名誉を失っても、もともとなかったと思えば生きていける。
 財産をなくしたら、またつくればよい。
 しかし勇気を失ったら、生きている値打ちがない」



”Even if honor is lost, when thinking
  I didn’t have that originally, you can live.

  Even if assets are lost, it should be made again.

  But if the courage is lost, there is no living value."

(原文のドイツ語でなく、英訳ですみません)

ゲーテ(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)といえば、数々の名詩(シューベルトが歌曲『野ばら』など、ゲーテの多くの詩に曲をつけていますので、お聞きになった方も多いと思います)を作詞しています。そして小説『若きウェルテルの悩み』、詩劇『ファウスト』など文学史上に残る数々の重要な傑作をのこしています。

そういえば、作家のドクトルマンボウこと北杜夫が
「若者よ、恋をせよ。
 失恋すれば詩がかける。
 上手くいけば、もうけものだ」
と名言を遺していますが、これってまさにゲーテのことを言っているのかもしれません。
とに角この人は、若い時からよく恋をしては失恋しています。
女性にちょっかいを出すことにかけては本当に勇者というか
積極的な人ですが、何故かもてない。
恋が成就することのほとんどない人でした。
(その理由も後に命式を読み解きながら明らかにしていきます)

余談になりました。ゲーテの名言に話を戻します。

数々の名言をのこしたゲーテですが、冒頭の名言が筆者には特に印象に残っています。平易に書かれた言葉なので、特に解説の必要もないですが人間、生きていれば成功だけでなく、多くの失敗も経験します。
その時に、自分の名誉を傷つけてしまったり大切な財産を失うこともあると思います。
でもゲーテはそんなことはたいしたことでないと話してくれます。
転んでももう一度起き上がり、自分の名誉を取り戻したり、再び財産を築き上げれば良いことだと。

だけど勇気だけはどんな時でも失ってはいけない。勇気を失うことは生きる価値を
失うに等しいからだ、という訳です。

この「勇気」という感情は、人間の持つ感情の中でもおそらく最も力強い感情でしょう。
西洋では、古代ギリシアの時代から、哲人たちがどのように定義するかが命題とされてきました。
また、東洋でも「勇気」にまつわる考えは、多くの先人が記しています。
ただ単に乱暴に問題を解決する手段としての「力」の行使はいわゆる「匹夫の勇」として軽んじました。
孟子のように自分の信念に基づき正しいと思えば、「千万人と雖も我往かん」と、
勇ましい言葉を宣う人もいます。

要するに、勇気とは、困難や危険、恐怖心など人の行動や心を阻むものに、
向かっていく積極的で強い心意気
のことと言えると思います。


ゲーテがどのような人と出会い、誰の影響を受け、このように文学者、科学者、政治家として大成することができたのでしょうか。
今回はこの点に焦点を当てて触れていきたいと思います。


18世紀中頃のヨーロッパの情勢

その前にゲーテが生まれた時期のヨーロッパの時代背景を振り返ってみましょう。
18世紀中葉の欧州では、イギリス王国で産業革命が起きます。綿織物が手工業から機械工業になるなどさまざまな技術革新が起き、社会構造も変革していきます。
このことが、イギリスが他の欧州諸国に対し優位な立場を築く要因となります。

フランス王国はルイ15世の御世です。国内の政治状況は比較的平穏でしたが、対外政策としてオーストリア継承戦争(1740年~48年)、七年戦争(1756~63年)に介入します。しかし、イギリスとの植民地戦争でいずれも劣勢になり、植民地の喪失が続きます。これらの対外戦争の出費増はフランスの財政を圧迫し、やがて次のルイ16世の時代のフランス革命の遠因となっていきます。
この時代のフランス史で特筆すべきことは、フランス啓蒙主義の開花でしょう。
啓蒙思想とは、キリスト教的世界観に対して、合理的な世界観を説き人間性の解放を目指したものです。モンテスキューの三権分立論などの国家論、ヴォルテールの宗教的寛容論、ルソーの社会契約説などがその代表的なものです。

そして、ゲーテの生を受けた神聖ローマ帝国(現ドイツ連邦共和国)です。
この約百年前に起きた宗教戦争(30年戦争:1618~1648)の舞台となった神聖ローマ帝国は全土が荒廃し、経済も衰退していました。300余の中小諸国の領邦国家(ラント)に分裂してしてしまったのです。やがて1701年に、その中でも北東部に生まれたプロイセンが王国として台頭します。

フリードリヒ2世(大王)(在位1740~86年)のときには、啓蒙専制君主として上からの改革を進め、ハプスブルク家のオーストリアとオーストリア継承戦争、七年戦争の二度にわたって戦って、ドイツ最強の国家となっていきます。

 一方のオーストリアでは、ハプスブルク家の男系が絶え、女性のマリア=テレジアが継承します。それに介入したプロイセンなどとの間で1740年にオーストリア継承戦争が始まり、敗れてシュレージェンを奪われ、ついで1756年から七年戦争を戦い、その回復を目指しましたが果たせないでいました。
このように、産業革命の勃発、啓蒙主義の拡散、新興勢力の台頭という時代の大きな
変革期にゲーテは生まれたのです。

デーテの生い立ちと青年時代

1749年に裕福な家庭の子として、神聖ローマ帝国(現ドイツ)のフランクフルトで生まれました。
ゲーテの祖父は旅館業とワインの取引により財を成しました。母方の家系は代々法律家を出しています。
兄弟には年子の妹コルネーリア、コルネーリアの後に3人子供が生まれましたが3人とも幼くして他界しています。
ゲーテの父は書物の蒐集家であり、教育にも熱心でした。
その父によって、幼少期から家庭教師を呼んでは習い事を受けると言う生活を続けていたそうです。

乗馬やダンス、美術、音楽などの習い事を受けますが、特にゲーテがその才能を発揮したのは語学で、少年時代には英語やラテン語など6ヶ国語を習得しています。そして読書に没頭する子供でした。

幼少からゲーテの詩は評判で、8歳の頃に祖父母へ宛てて書いた詩が現存しているようです。

1763年、ゲーテ14歳の時です。近所のグレートヒェンという年上の娘に初恋をするも、失恋に終わっています。

1765年、16歳で故郷を離れてれライプツィヒ大学の法学部に入学します。これは法学を学ばせて息子を出世させたいという父親の意向に従ったものです。
この時期、ゲーテはおしゃれに目覚め、詩集を編み、そして恋をします。
お相手は通っていたレストランの娘で2、3歳年上のケートヒェンです。しかし、都会的で洗練された娘と垢ぬけしないゲーテとは、交際が進むにつれて、話も相性も合わず結局この恋も破局に終わります。

それからも3年ほどライプツィヒ大学に通いましたが、その後重い病気にかかり、退学を余儀なくされます。

1768年、19歳のゲーテは故郷フランクフルトに戻り、その後1年半ほどを実家で療養することになります。
こうしてみますと、14歳から6年間は失恋や病魔に犯されるといった具合で、人生で
次ぎ次ぎと挫折を味わう苦難の時期でした。

ゲーテはこの故郷で療養をする時期に、自然科学に興味を持ちます。
実験器具を買い集めて自然科学の研究に精を出しています。彼は後に地質学から植物学、色彩学、気象学などに自然科学分野でも多くの成果を出しますが、その基礎は
この時に作られたようです。

1770年、21歳になったゲーテは、改めて勉学へ励むため父の薦めもあってフランス領シュトラースブルク大学に入学します。そして、ここで運命の出会いをします。
人生とは邂逅である」とは極めてドイツ的な含蓄のある諺ですが、
後に哲学者として名を成すヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(1744-1803)との出会いは後のゲーテの人生を決定付けます。



[若き日のゲーテの肖像]Wikipediaより引用

 

ヘルダーは当時、従来のロココ的で理性・形式を重んじる文学から脱却しようとするシュトゥルム・ウント・ドラング運動に従事していました。
すでに一流の文学評論家としても知られていました。

ヘルダーとの交流でホメロスやシェークスピアの真価、そして聖書、民謡の文学的価値についても教えられます。この時期に、ゲーテは作家・詩人としての基礎を身に着けていったのです。
またこのシュトラースブルグ大学時代に、フリーデリケ・ブリオンという女性と恋に落ちます。彼女との恋愛から「野ばら」や「五月の歌」などの呼ばれる抒情詩が生まれます。ところがゲーテは結婚を望んでいたフリーデリケとの恋愛を自ら断ち切ってしまいます。

1771年8月、22歳のゲーテは学業を終え故郷に戻ります。
そして弁護士の資格を取り、弁護士事務所を開設します。
友人、知人が顧客を回してくれたため仕事はありましたが、ゲーテは次第に仕事への興味を失います。文学活動に専念するようになるのです。

この頃は、父との葛藤に悩むことになります。息子の将来を心配する父の思いはよく
わかります。しかし、自分のやりたいことをしたいという気持ちは日毎に強くなります。

結局、父の命に従いゲーテは法学を再修得するためにヴェッツラーへとむかいます。

1772年4月にヴェッツラーに移ったゲーテは、ここでも法学には取り組まず、文学に専念します。
ここでゲーテは、舞踏会でシャルロッテ・ブッフに出会い熱烈な恋に落ちました。
ゲーテは毎晩彼女の家を訪問するようになりますが、まもなく彼女は友人と婚約中の間柄であることを知ます。彼女をあきらめきれないゲーテでしたが、彼女を奪い去ることもできず、9月にヴェッツラーを去ります。

フランクフルトに戻ったゲーテは、表向きは再び弁護士となりますが、シャルロッテのことを忘れられず苦しい日々を送っていました。
そのような時に、ヴェッツラー時代の友人がピストル自殺したという報が届きます。
原因は人妻との失恋でした。この友人の自殺とシャルロッテへの恋という2つの体験が、ゲーテに『若きウェルテルの悩み』の作品へつながります。




[若きウエルテルの悩み 挿絵]Wikipediaより引用

 

 

そして1774年、ゲーテ25歳の時に発表された『若きウェルテルの悩み』は若者を中心に爆発的に売れます。

英語、フランス語の翻訳本もでて、またたくまに大ベストセラーとなります。
主人公のファッションや話し方をまねるなど社会現象になるほどで、ドイツ国内のみならずヨーロッパ中にゲーテの名が広まりました。

ゲーテの恋多き青春時代は失恋と挫折の連続でしたが、その苦悩の体験が優れた文学作品を生み出す原動力になったようです。

この章を終わるにあたりいつものように、ゲーテの命式を記載します。



[ゲーテの命式]

 

実はゲーテも生時がわかっていますので四柱が揃った命式です。
次回はこの命式を読み解くと共に、ゲーテの中年から晩年を振り返ってみたいと思います。