見よ、主は火と共に来られる。
主の戦車はつむじ風のように来る。
怒りと共に憤りを
叱咤と共に炎を送られる。
主は必ず火をもって裁きに臨まれ
剣をもってすべて肉なる者を裁かれる。
イザヤ書 66-15
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。
イザヤ書 7-14
さて、前回、僕は、「次回、いよいよ、マルスの支配とは、それはすなわちインマヌエル、火、血、鉄、剣、赤、アダム、そしてエル・ギボール『力ある神』のことである、との小論を展開したいと思います」と書きましたが、上の二つのイザヤ書の引用が、このことを端的に説明していると思うのですが、読者の方々は、どうお考えになられるでしょうか?
勿論、これだけでは何のことだか分からない、とお思いになられる方が大半だと思いますが、まずマルス(Mars)と聞くと、たいていの方は、ローマ神話の軍神マルスや、天体の火星のことを思い浮かべると思いますが、ノストラダムスは、彼の預言集の冒頭(セザールへの手紙)で、「Car encores que la planette de Mars paracheue son siecle」と書いており、これを読めば、「惑星のマルス」ではなく、「マルスの惑星」なんだな、とご理解いただけると思いますが、どうでしょうか。
つまり、ノストラダムスの「マルス」とは、ローマ人たちが「ある種の神的な力」として「マルス」と呼んだ、その「力」、そのものを指しているのであって、単に「惑星のマルス」、つまりは「火星」を指しているだけではない、ということです。
それは、「火」(火の星)そのものや、同じく、その「力」の影響下にある、「血、鉄、剣、赤、アダム」のことも指しているのであって、これらは同一の概念であり、例えば、「アダム」ならば、「♂」というサインを通じて、それが植物や動物の「雄」を指しているだけではなく、時には「人間の男」と「火星」を同時に表すこともあることは誰にでもすぐに分かることだと思いますが、その火星は、「赤く」見え、それは表面が「赤さび(酸化鉄)」に覆われているからでありますが、そして赤い「血」には、「鉄」が多分に含まれ、それはさびのもとである酸素を「鉄」(ヘモグロビン)が運んでいるからでありますが、「剣」は「鉄」そのものであり、それは「権力」「力」の象徴でもあり、上の聖書の引用にもありますように、「エル・ギボール」、すなわち「力ある神」の印象なのです。
こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
創世記 3-24
これらが、このユニバースに存在し、同一の「力」によって、動かされ、生成、消滅を繰り返し、変成、変化している現状を、「正しく見る」のが人間の本来のあるべき姿なのだと思いますが(正見)、ノストラダムスは、その「エネルギー」を「マルス」と呼んでいるのであって、これはまったく「神的な力」であり、つまりは「エル・ギボール」なのである、ということです。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。
イザヤ書 9-5
上の引用の中の言葉「力ある神」のヘブライ語が、「エル・ギボール」なのですが(エル=神、ギボール=力」)、この「力」のことを、ギリシア人は、「デュナミス(δύναμις)」と呼んでおり、アリストテレスは、この「デュナミス」から「エネルゲイア(ἐνέργεια)」が生じるとしていますが、「エネルゲイア」は、ご存じの通り日本語の「エネルギー」の語源となった言葉であり、一般の人々は単純に「運動エネルギー」であるとか、「熱エネルギー」と簡単に呼んでいますが、その意味するところは実は奥深く、プラトンは、その著書「パイドン」で、
善にして適正な(結合)する力こそが事物を結びつけ統合しているということを、彼らは考えてもみないのだ。
と、表面的な「運動」や「熱」だけを見て、それらの事物を結びつける「善なる力」を考慮しない者たちを批判していますが、ノストラダムスは、そのことのために、「惑星のマルス」ではなく、「マルスの惑星」としたのであって、ここに、この預言の「神的な力」があるのです。
この「神的な力」は、天体を動かしていますが、そして動かす主体は、アリストテレスによれば「不動の動者」であって、聖書では「力の神」である創造主ですが、その「力」について、福音記者のマタイは、以下のように記しています。
その苦難の日々の後、たちまち
太陽は暗くなり、
月は光を放たず、
星は空から落ち、
天体は揺り動かされる。
そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。
マタイによる福音書 24-29
上の「天体は揺り動かされる」の箇所を、原典のコイネー・ギリシア語(共通のギリシア語)では、「天の力(複数形のδυνάμεις)は揺り動かされる」としており、本来ならば、ここは、「天の諸力は揺り動かされる」とした方が、より分かりやすいと思いますが、「天の諸力」とは、つまりは「天体」のことを言っているのですから、新共同訳の「天体は揺り動かされる」でも全然かまわないと思いますが、つまりは、ここで自分は、「力」を問題にしているのであって、上の引用の「人の子が大いなる力と栄光を帯びて」の箇所の「力」は、「δυνάμεως」であり、これらが、今まで自分が述べて来た「マルスの力」と同等なのだ、ということです。
そして、注意してほしいのは、「人の子の徴が天に現れる」の箇所の「人の子」の「人」は、原典ではコイネー・ギリシア語の「άνθρώπου」を使っていますが、ヘブライ語では、普通「人」のことを「イーシュ」と呼ぶことが多く、それはアダムが考えた単語でありますが、そのことは次の箇所が由来となっており、
人(アダム)は言った。
これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イーシュ)から取られたものだから。
創世記 2-23
また、創世記の次の箇所、例のバベルの塔を人間たちが建設した箇所では、「人の子ら」のことを「ベネー・ハアダム」としており(ベネーは、子を意味するベンの複数形)、
主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。
創世記 11-5
「人の子ら(ベネー・ハアダム)」、これは「ベネー(子たち)」に、冠詞の「ハ」をつけた「アダム(人)」であって、つまりは、「マタイによる福音書」に話を戻しますと、「天に現れる人の子の徴」とは、「アダムの子の徴」であって、それは、「♂」であって、つまりは「マルス」なのである、ということです。
人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
マタイによる福音書 16-27
そう、「マルスの支配」とは、「アダムの支配」であり、「♂」の支配であって、それが、「その前後、幸福な支配、統治をするのである」というのが、ノストラダムスの1999年の預言の最終的な結論なのです。
そして、そもそも、「ノストラダムス(Nostadamus)」とは、ラテン語で、「Nostra Adamus」であり、これは「我々のアダム」「Nostr'Adamus」という意味であり、そのことについては、過去記事で詳しくご説明しましたが(投稿番号7、ノストラダムスとは、我々のアダムという意味、をご参照)、ここで簡単にその趣旨を再びご説明しますと、ノストラダムスは預言集の冒頭(セザールへの手紙)で、自分の息子に呼びかける際に、その名前を「CESAR NOSTRADAME」(1555年初版のアルビ版等)と書きましたが、ここで「NOSTRADAMUS」の語尾が「E」になっていることにご注目していただき、それは「語尾が-usで終る第二種転尾の男性名詞は、呼格単数で-eの語尾を取る」というラテン語の原則から、ノストラダムスはそう書いたのであって、つまりは、「我々の貴婦人」(女性名詞)を意味する本名の「Nostredame」から「Nostadamus」に名前を変えたのは、ラテン語で人類の始祖の「アダム」を意味する「Adamus」に注目してほしかったからなのだ、ということなのです。
「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
コリントの信徒への手紙一 15-41
ご理解いただけましたでしょうか、「ミシェル・ノストラダムス」「我々のアダムのミカエル」の深淵な知恵が。
そうなると、残りは、「インマヌエル」と「エル・ギボール(力ある神)」の関係になりますが、「インマヌエル」のヘブライ語は、「イマーヌ・エル」であり、「アイン、メム」の「イマー」で「共に」、「ヌン、ヴァヴ」の「ヌー」で「私たち」、「アレフ、ラメッド」の「エル」で「神」となり、つまりは「私たちと共におられる神」を意味しますが、そのことを預言者イザヤは、実に感嘆すべき言葉で預言しました。
諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。
遠い国々よ、共に耳を傾けよ。
武装せよ、だが、おののけ。
武装せよ、だが、おののけ。
戦略を練るがよい、だが、挫折する。
決定するがよい、だが、実現することはない。
神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。
イザヤ書 8-9
この「インマヌエル」のことを、「真の救世主であられるイエス・キリスト」のことなのだ、と信じているのが、我々、クリスチャンであり、これを否定しているのが、現イスラエルの大部分の人々をはじめとする、無知な一般大衆ですが、この預言が実現したあかつきには、すべての真実が明るみに出、その者たちは恥じ入ることになるでしょう。
見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。
ヨハネの黙示録 16-15
僕は、これまでの記事で、ノストラダムスの最も有名で、しかも最も権威ある預言、すなわち第十章七十二節の預言について、以下の様に日本語に訳しましたが、
一九九九年七月
天から恐るべき偉大な王が来られる
アンゴルモアの大王を復活させる
前後マルスは幸福に支配する
これについては、いくつかの自分の過去の記事の中に、分散的に解釈を挿入しましたが(投稿番号30、ノストラダムスの恐るべき大王と七月、等々)、ここで、それらの言説を簡単にまとめますと、その意味するところは、以下のようになります。
イエス・キリストの十字架から、月が太陽の周りを1999周、その後、地球の周りを7周した月、天から恐るべき偉大な王であられる創造主が来られ、ミシェル・ノストラダムス氏を復活させ、その前後、イエス・キリストは、幸福な支配をなされる
ということになります。
いかがでしょうか?
これで、ご納得でしょうか?
まだ、お分かりにならない?
では、こうしましょう。
不滅の恐るべき主は、まもなく「火と剣」による厳しい裁きを開始されますが(いや、一部もう既に始まっていますが)、多くの人が、そのことを決定的に理解することができますように、最後に、その「裁きの火」について書かれた、素晴らしい聖句の数々を引用して、この記事を終わらせたいと思います。
今までに、「ノストラダムスの預言など嘘だ」であるとか、「とっくに外れた予言でしょ!」とか、「彼はデタラメを言う人間だ」とか、「そもそも宗教?」、「イエス・キリスト?」、「それって、フェイクでしょ、ダボス会議でそう言っていたよ!」とか、言っている人々は、つまりは「神を恐れない人々」は、これから自分に降りかかる「主の煌めく剣」「地獄の業火」を思って、泣きわめくがよいでしょう。
いや、それを実際に経験するまでは、最後まで分からないでしょうから、その時になって、歯ぎしりすれば、よいでしょう。貧しい者、悲しむ者、苦しみ、虐げられた人々が、安全な、幸せな「神の国」にいるのを見て。
また、特に、ノストラダムスの預言を曲解し、マルスとは、「軍神だから戦争だ」、とか、「いや、空から核爆弾が落ちて来るのだ」とか、嘘八百を並べ、ノストラダムスの名誉を著しく棄損し、彼の評判を落とし、「その預言を終わったもの」とした、数々の「自称ノストラダムスの預言の解読者たち」には、より一層、厳しい裁きが下ることでしょう。
嘘つきの最大の悪徳は、真実を見抜けなくなり、結果、人の嘘に簡単に騙されることにあると思います(何に対しても、甘く考えているのです。自分の嘘は見抜かれないだろう、と。嘘つきは、まるで子供です)。
人は、アダムの子らは、為政者に、支配者に気をつけなくてはなりません。
このブログの読者の方々は、現在進行形の巨大な嘘に、くれぐれも騙されませんように(注射、ウクライナ、イスラエル、グレートリセット)。
偽預言者が、大勢現れています。
彼ら、彼女らを、警戒してください。
そういうわけで、今回は、これにて失礼いたします。
では、来週の木曜日に、またお会いしましょう。
主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。
テサロニケの信徒への手紙二 1-8
あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。
申命記 4-24
それゆえ、主なる神はこう言われる。お前たちがみな金滓となったので、わたしはお前たちをエルサレムの真ん中に集める。銀、銅、鉄、鉛、錫が炉の中に集められ、火をつけて溶かされるように、わたしも憤りをもってお前たちを集め、火を噴きつけて溶かす。
エゼキエル書 22-19
金も銀も彼らを救い出すことはできない。
主の憤りの日に
地上はくまなく主の熱情の火に焼き尽くされる。
主は恐るべき破滅を
地上に住むすべての者に臨ませられる。
ゼファニヤ書 1-18
主は、主に従う人と逆らう者を調べ
不法を愛する者を憎み
逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り
燃える硫黄をその杯に注がれる。
詩編 11-5
すべてを消す水の中でも
不思議なことにその火はますます強くなる。
神に従う人に全宇宙が味方するからだ。
知恵の書 16-17
わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
ルカによる福音書 12-49
良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
マタイによる福音書 7-19
だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
マタイによる福音書 13-40
おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。
コリントの信徒への手紙一 3-13
それゆえ、万軍の主なる神は
太った者の中に衰弱を送り
主の栄光の下に炎を燃え上がらせ
火のように燃えさせられる。
イスラエルの光である方は火となり
聖なる方は炎となって
一日のうちに茨とおどろを焼き尽くされる。
イザヤ書 10-16
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
マタイによる福音書 25-41
実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。
ヘブライ人への手紙 12-29
罪人の仲間に加わってはならない。
神の裁きは速やかに下ることを、心に留めよ。
どこまでも謙遜であれ。
畏れを知らぬ者には、火と蛆の刑罰が下る。
シラ書(集会の書)7-16