前回の投稿で、この世の終わりについて少し触れましたが、そもそも「世の終わり」とは、一体どういう意味を持つ言葉でしょうか?

 

これについては、実に多くの人々が簡単に、またはうかつに、もしくはごく少数の者たちが大胆に語ってきましたが、一体全体、誰が、それらについて最も適切に、正しく、正確に語ったでしょうか?

 

僕としては、先ず聖書の言葉、そして預言者らの預言、また幾人かの教父たちの教え、そして何よりもノストラダムスの書き残した書物、これらが唯一の信頼できる情報源だと思っていますが、この世の多くの人々は、実際にはそうは考えていないようです。

 

知ったかぶり、嘘、欺瞞、思い上がり、不誠実、それらの言葉のオンパレードではないでしょうか?

 

なので、僕は、長い間の沈黙の期間に入っていたのですが、ある事がきっかけとなり、少し考えを変えて、今、こうして、文字を綴っています。

 

というのも、人類に差し迫った危機は、どうしても避けられないものと考えていますが、「予測できる矢は効果が少ない」という言葉が真実ならば、その危機を事前に察知した者にとっては、その危機は、実は別のものに変化する、という可能性があるからです。

 

しかし、こういった自分の考えを、ほとんど誰も訪れることのないこのブログに、いそいそと書いたところで、一体なんの意味があるでしょうか?

この点については、僕もいろいろと懐疑的です。

 

それでも、書いても、書かなくても、結果に違いがないとするならば、書いてもいいのではないか、と思うこともあります。

 

で、ながながとつまらない文字を羅列しましたが、ここからが本題です。

 

ノストラダムスとは、我々のアダムという意味である、とタイトルに記述しましたが、この真意がお分かりになるでしょうか?

 

実際に、単純に、ただそのままの言葉の通りなのですが、ノストラダムスについて多くを語ってきた人々は、先ず、この点、この始めの一歩にして、最後の一歩の真実をご理解しておられないようです。

 

僕は、俗にいう、「ノストラダムス本」というものは、ほとんどすべて、と言っていいくらい目を通してきたつもりですが、

 

Nostra Adamus

 

我々のアダム

 

Our Adam

 

Notre Adam 

 

などという言葉と、

 

Nostradamus

 

という単語を関連づけた発言は、ついぞ目にしたことはありません。

 

以下の画像をご覧ください。

 

 

nostradamusの語尾変化

 

 

この画像は、ミシェル・ノストラダムス氏の死後二年ほど経った1568年に、フランスのリヨンのブノワ・リゴー出版から出されたノストラダムスの預言集の序文の冒頭部分ですが、僕が引いた赤線のアンダーラインの部分にご注目ください。

 

この序文は、通称で「セザールへの手紙」と呼ばれている通り、彼の息子セザール・ノストラダムス氏へ宛てた手紙形式の、預言集の内容の説明文なのですが、この手紙の内容の詳しい解説は、いずれこのブログにおいて、おいおいご説明していくとして、その前に、この赤線のアンダーラインの部分、「ADAMVS」と「adame」の綴りの違いについて、簡単にご説明したいと思います。

 

これは、ラテン語化した、というより、ラテン語そのものなのですが、少しでもこの言語を学習した経験のある者ならば、これは、人類の始祖アダムのラテン語「Adamus」を表しているのだな、とすぐに分かるはずです。

 

何故ならば、いわゆるラテン語の「呼格」で、語尾が「-e」の形を取る単語というのは、第二種転尾(第二変化)の「-us」で終わる男性名詞しかあり得ないからです。

 

ちなみに、「V」と「U」の違いは、あってないもので、これらは「I」と「Y」の混同などと一緒で、ラテン語が俗ラテン語化、フランス語化していく過程での、一時的な現象ですので、そこをあげつらって、どうのこうの言うのは、正しい姿勢とは言えないでしょう。

 

つまりは、巷で、よく半可通の「自称ノストラダムスの予言の解読者」たちなどが言う、これは、彼の本名の「Nostredame」、「我々の貴婦人」、つまりは「聖母マリア」のラテン語化した単語なのだ、ということではないのです。

何故ならば、マリア様は、女性なのですから。

 

主格の「Nostradamus」と呼格の「Nostradame」(この文は、父が子に呼びかけているのです、君の到来は遅すぎるぞ、私の息子セザール・ノストラダムスよ、と)の二つの違いを見れば、これは男性名詞なのだな、つまりは男性の名なのだな、と分かり切ったくらい、分かることなのです、学問を大切に思う人ならば。

 

数あるラテン語の名詞の中で、「-us」で終わる男性名詞、これだけが、「主格、対格、属格、与格、奪格、呼格」と格変化するにつれて、「adamus、adamum、adami、adamo、adamo、adame」と綴られるのです。

 

なので、この語尾の変化を見るだけで、ノストラダムスは、自分は、「ノートルダム」のミシェル(ミカエル)ではなく、「我々のアダムのミカエル」なのだ、と断言しているのが分かるのです。

 

そのことを万人に理解させるために、彼は、自分の本名である、

 

Michel de Nostredame

 

の「Nostredame」を、「Nostra Adamus」に変え、最初の単語の語尾の「a」と

最後の単語の語頭の「a」をつなげて、「Nostr'adamus」とし、そして、そのアポストロフィをわざと省いて(隠して)「Nostradamus」としたのです。

 

お分かり頂けたでしょうか?

 

ノストラダムスの深淵な知恵を。

 

では、なぜ、アダムなのでしょうか?

 

それには、次の聖句を引用するのが、適切のようです。

 

 

死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないもの復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときは弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初の人アダムは命ある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。

           コリントの信徒への手紙一 15-42

 

 

ノストラダムスの一番有名な預言、10章72節に、こうありましたね?

 

 

「アンゴルモアの大王を復活させる」

 

 

そう、ノストラダムスの預言の重要なテーマとは、「復活」に関することなのです。

 

何しろ、クリスチャンだけでなく、全人類にとって「復活」ほど、重要な意味をもつテーマは、他に存在しないのですから。

 

さて、長くなりました。

 

僕は、こういった話ならば、それこそ千夜でも語ることができますが、しかし、繰り返しますが、こういう話を誰が読んでくれるでしょうか?

 

ソロモンは、言いました。

千人に一人の男がいる。

 

ならば、僕も、その千人に一人の人に語り掛けましょう。

 

この世の終わり、人類の終わりが差し迫っている、ということは、ある人々にとっては、復活の希望も接近している、ということです。

 

今、我々は、覚悟を決めるべきです。

 

勉強をせずに、その時を迎えるか、それとも、別の道を選ぶか。

それは、一人ひとり、自由に決められます。

 

では、また来週の木曜日にお会いしましょう。

それまで、お元気で。