さて、本ブログも、なんだかんだで、第八回目を迎えました。
前回、ノストラダムスとは我々のアダムのことである、という意味のやや詳しいご説明を致しましたが、いかがでありましたでしょうか?
僕は、そこで「復活」について少し触れましたが、こういう話を書くと、一種の宗教アレルギーをお持ちの方は、つまらないことを書くな、であるとか、うそをつくな、とお思いになられたかもしれませんが、それは無理のないことです。
よく、宗教は良くない、であるとか、いやアヘンだ、とか、世間の人はいろいろとおっしゃいますが、本来、「宗教」という言葉の持つ意味を厳格に使うならば、そういう発言はするべきではないでしょう。
宗の教え、つまりは主な教え、要の教え、大切な教え、というのが、宗教という言葉の持つ本来の意味であると僕は考えていますが、それを、良くない、とは言えないでしょう。
大切な教えは大切ではない、というような、まるでゴルギアスのようなレトリックは、ソクラテスの知恵によって吹き飛ばすべきです。
ソクラテスは、よく言葉の字義、言語の成り立ち等を説明しますが、この「宗」という字は、
「天の下、各家々に示されたもの」
であるということを考えると、それをよく検討もせずに、良くない、であるとか、嘘であるとか、欺瞞であるとか言うのは、学のある人の取るべき態度ではないでしょう。
プラトンは、ティマイオスの口を通して、「無学は魂の病気である」と言いましたが、その病気の存在を、自分の病を、まったく無視するような態度は、結局のところ、その自分が、その病によって、死に至ることを誘発するでしょう。
それにしも、偽宗教、似非坊主の、なんと多いことでしょう!
偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。
マタイによる福音書 7-15
この聖句にあるように、これだけを見ても、今は、まさに、終わりの時なのだな、と分かると思うのですが、この偽預言者たち、宗教とは名ばかりの嘘の教え、これらの欺瞞を見抜けない者が、無学な者と呼ばれるのです。
愚か者は、ローマ兵に騙される。
そこで、僕は言っておきますが、
本当の宗教、大切な教え、アドナイ(主)の教えに耳を傾けましょう。
主とは、勿論、恐るべき不滅の創造主であり、またはその長子、救世主イエスのことでありますが、今こそ、その教訓を生かす時です。
何故ならば、まもなく、「終わりの終わり」が来るのですから。
そこで、ノストラダムスについてですが、彼の預言集をまじめに読めば、そこに永遠の主の教え、真理、真実、つまりは預言が書かれてあるということが、本当の聖書の学徒にはすぐ分かるはずだと僕は思うのですが、このブログの読者の方々は、いかにお考えでしょうか。
すべて、読んでいない人が、読んだ人に向かって、ああだこうだ、思い上がった発言を連発するのです。
それに注意しなくてはなりません。
ノストラダムスは、その預言集の序文の中で、こうも言っています。
「重要な作家であるプルタルコスがリュクルゴスの一生を物語ったように」
*以下の画像(1568年ブノワ・リゴー出版・ノストラダムスの預言集の序文)赤線部分をご参照。
この言葉の意味がお分かりになりますでしょうか?
ノストラダムスは、「私の預言はプルタルコスがリュクルゴスの一生を語ったように、そのように編纂された」という意味のことを言っているのですが、世に溢れる自称「ノストラダムスの解読者」もしくは「その解説者」たちの中で、誰がこの問題の重要性について語ったでしょうか?
自分の知る限り、今の世に、この世に、一人もいません。
ノストラダムスは、他にも、「私の計算は異邦人のウァローや、エウセビオスとも違う」という意味のことも言っていますが、リュクルゴスの件も含めて、このことについても詳しく触れた人がほとんどいなかったのが、今までの人類の悲しい歴史ではなかったでしょうか?
皆、仕事に忙しく、生活に疲れているのだ。
そこで、僕は、ほとんど絶望的な状況の中、この問題を一人悶々と考えてきたのですが、結局のところ、人は、自分の育てた実を食べ、それによって未来を生きるしかない、ということであり、終わりの時に臨んで、真理を学ぶ姿勢をまったく持たないという人が、もしいるとしたならば、その人の終わりは、まったく悲惨なものになるであろうことは、容易に推察されることです。
最後まで、金銭を追い求め、富を望み、快楽に生きて、そして、まさしく死んで、地獄に落ちるのではないでしょうか?
快楽とは、目に映る美しいものをいつまでも見ていたい、耳に聞こえる心地よい音を永遠に感じていたい、五感をとことんまで満足させたい、心をどこまでも太らせたい、という、もっともっとの遊戯のことです。
それこそが、コスモス、この世であり、眼耳鼻舌身意であり、6個の意識であり、その対象と器官であり、十ハ界であり、被造物であり、666であり、人の思いなすあらゆるものの名称であり、アダム(人)が名付けたものであり、存在もしくは非存在でり、ここにいつまでも居続けたい、という死亡遊戯です。
そこに、神の国、あの世は、ありません。
この世にいつまでもいたい、と生き続けている人々は、あの世をまったく考慮しなかった罰として、結局のところ、死の棘を味わうでしょう。
それが、宗教(大切な教え)をないがしろにする人々の持つ運命だ、と僕は思います。
しかしながら、自分は、ノストラダムスが書き残した「良い知らせ」を理解した者には、別の運命が待っているのである、ということも信じてやみません。
それが、そのことが、リュクルゴスの制定した国制とも関わると思うのですが、それは、
「市民の間に貧乏人も富者もいない、最高目的の実現」(プルタルコス著ソロン)
であって、プラトンが第八書簡で示した、
「このことは賢くて立派な人だったリュクルゴスが事実をもって示したように、できること」
という言葉の数々のことだと思います。
来るべき世は、現在の世の終局とともに開始される。
アウグスティヌス著 神の国
さて、硬い話が続きました。
こういった話に、多くの人がついて来れないことは、実生活で、嫌というほど経験済なので、もうこれくらいにしたいと思います。
少年老いやすく、学成り難し。
言うものは知らず、知るものは言わず。
知れないことを知れ(維摩経・文殊菩薩)。
最後に、これらの言葉を皆さんに送って、この投稿を終えたいと思います。
では、また来週の木曜日にお会いしましょう。
それまで、お元気で。