ちょっとね
シャイな所がある私でね
人に声かけるとか苦手でね
だからヘタすると「あの人は他人に興味ないから」と思われたり
もっとヘタすると「高飛車だから」とか思われたりする

誤解やん。。。

単に私は人に愛されたり好かれたりする事に戸惑ってしまう
誰かが私に良い感情を抱いてくれているとポジティブにビックリする

でもそんなに内気で受け身でいると世界が広がらない
自分に自信を持とうと思ってるだけじゃ足りない
行動に移さなければどうしようもない

だから
ちょっと前に出会ったとても感じの良い人に「お時間のある時にウチにおスシを食べに(日本人ですもの!!)ランチに来ませんか」と誘ってみたら
「それは素敵!明日にでも行くわよ!」という返信が来た

嬉しいな♪
勇気を出した甲斐あった!

これからもこうして少しづつ自分で切り開いていきたい

(どこのティーンネージャーひきこもりの言ってる事だろうと。。自分で書いてて思った。。。
いやさ、この前のブログで、南アで友達作るの大変、とか書いたからさ。。 → その記事 
がんばらんと、とか思ってさぁ)



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悩みがあったり
苦しんだり
悲しんだり
不満をもったり
不安や怖れを感じる事は
ネガティブな事 では無いと思う
ポジティブな出来事ではないけれど
生きてるなら絶対に起こる単なる不調和で
不可抗力だし当たり前

ネガティブな事が起こっているから即座にイコール不幸せ、ではないんだ

確かにネガティブな対応というのはあると思う
人の気を引くためにイタイ自分を演出するとか
人から良く思われたい見栄のためにイタイ所全部隠すとか。。。
でも悩み苦しみ痛み悲しみ不安を否定して目を向けない事は
実際ポジティブでも前向き思考でもない
(あ、日本語では素晴らしいフレーズがあったよ、「臭いものに蓋」。うん、言い得て妙!)

本当のポジティブっていうのは
心が痛くなったり悩んだりする事も
真っ正面から受け入れて
健全に対処する事を指すんだと思う
人はみんな違うから、それぞれの健全さも対処方法も違うし
言うは易し行うは難しだとも思う

誰だって否定したいときも
嫌なもの見たくないときも
保身に忙しくなっちゃうときも
見栄はりたいときも
あるから


自分もまぁいろいろある。
小さな悩みもちょこちょこあるし
将来に対する不安もあるし
一生抱えて行くかもしれない悲しみがあって、
それがいずれ後悔になってしまわないかという恐怖を持ってたりもする

そしてついこの間まで自分はそんなことを感じてはいけない人間で
自分の人生は満たされ幸せでないと
人の役に立たないと思っていた所があった
いつもポジティブでないとブログも書けない。。と思ってたときもあった

でも
それって違う
違うんだな

今ある”いろいろ”が自分に見合った「試練」で、
そこから何か大切な事に気付いて学ぶ事が大切なんだな。

笑えない時期があっても
幸せは心のウチから来るものと言葉で知ってるのに実践できなくても
「私の人生って悩みも苦しみもなくていつも楽しくてラクなの」と心底言えなくても
ちょっとしばらくは前向きになれなくても頑張る気力が見つからなくても

それでいいんだ、と

そんな時が人生であってもいいんだ、と

それが「リアル」っていうもんじゃん、と

それでいつかもっと大人になった時
人の痛みを思いやれる心が育ってて
同時にその人の痛みや闇に引きずり込まれないような強さをもててるなら

その時のための今でいいじゃん、と。

若いときの苦労は金を出してもしろ、という。
そして今日が人生で一番若い日。
じゃぁ明日のための今日の苦労、別にあってもいいんじゃないか。。
と、思えるようになってきた今日この頃



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さすがに40年近く生きていればとても良い友達が世界あちこち何人かいる
でもそれはこうして40年近く。。と大きな流れの中で見た時の話であって
時々においてどっさりと良い友達がいたという訳じゃなかった
(20代の遊びまくったころの遊び友達は また違うし)
子供の頃から大概一匹オオカミ状態だった気もする
そしてその時々で「あなたは誰?友達になろうよ」って言ってくれた人がいたんだっけ
そしてそれはすごく嬉しい事なんだ。



アメリカは最初
高校の2年間ド田舎で過ごした
行って半年ぐらいですっごい仲良い友達のグループができた
あとはほとんど誰とも話さなかった
私は唯一の外国人で、しかも違う人種
(アメリカなのに、白人しかいなかったぐらいのド田舎)
「違う私」には誰もどうやって話しかけたらよいのか解らなかったみたいで
シャイな私も話しかける事はしなかった

でも卒業文集のアンケートの「一番忘れられないクラスメート」に私の名が挙がってた

はじめて「え。。。私の存在って気にしてもらってたんだ??」と思った時だった。
卒業間近で

去年の夏卒業20周年同窓会があった
さすがに遠くていけなかったけど
当時話をする事もなかったクラスメートと、いまなら普通に話できるだろうなと思った
英語も流暢だしね

人の事を知る努力をして、
自分の事を知ってもらう努力を
すれば良かったという後悔があったりする



そして時は移り
場所も移り

現在南アフリカ

。。。で、同じような事が起こってるかもしれない

。。。そして同じ事をしている自分がいるかもしれない

白人でも黒人でもない私は
「なんか違う」ので距離を置かれてる気がするから
自分でも人から距離を置いて
「友達できない」と受け身でいるかもしれない状態(実は怖くて認められない)

でも受け身でいてもしょうがないかも。。。
シャイでいるのも
「違う」って思われてるからって気後れするのも
高校生のころから変わってない自分も
。。。な。。なんだかなぁ。。。ダメだよなぁ。。。。



「なんかあの人違う。。。」と思ったらその人には大概近づかない

どこにいても「違う」、私。
日本人でも日本人じゃなくて
外国にいたら外国人で
居心地の悪さと行き場の無さを抱えて生きてきた
檻の中の動物みるような目で見られる事にはいつまで経っても慣れない



期待に応えてもらえない事も
拒否されるかもしれない事も
怖い
(イイ大人なのに何言ってんだろう。。。言葉にしちゃうと時として陳腐だね、感情や思いってのは)


でも

変わんなきゃいけないのは自分なんだよね
周囲じゃなくてさ

友達がいない、ってことが問題じゃなくて
自分だけのちっさい世界で生きているのがダメなんだと思う

もうちょっと
自分に自信持ってみよう、とかも思う

それよりまずは勇気、かな



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私の住んでいる所は電流のながれる有刺鉄線が張り巡らされた壁に囲まれた安全な居住地区
敷地内には池があって週末には魚釣りをする家族の姿も見られる
広い公園にはサッカー場、プール、テニスコートがあり自由に使え、ちょっとしたレストランもあり
管理オフィスは住民のために様々なイベントを開催する

いくつかの大きなショッピングセンターが近にあるから不足感はそれほどない
エンタメもなかなか充実していてお芝居、ミュージカル、映画、コンサートなども欧米でのヒットがやってくる

基本的に足りてないものはないはず

多分
外国生活を夢見る人には羨ましい程の環境なのだろうと思う

ここで「でもね」と言ってしまうと
贅沢だと反論する人もいるだろうけれど

でも言ってしまおう

「でもね」。

生きるって、
安全で
物資があるっていうだけじゃないじゃない

行動範囲だとか
自由を持つ権利っていうのも含まれてもいいじゃない


私が住んでいるのはアフリカ(のはず)だけれども
暮らしている社会は
白人メインで
言語は英語で
入手する物資はアメリカかヨーロッパの文化のもので

私の生活の中で純アフリカ的要素はほとんどない

どこに住んでいるのか解らなくなって
息が詰まりそうになる時が ある

*****
今日
こちらで唯一の友達(黒人)がヨハネスブルグの違う文化を見せてくれると
ローカルのタクシー(というかミニバス)で
白人はほとんど足を踏み入れないダウンタウン地域に連れて行ってくれた

南アに3年住んで
始めて「大自然」とはちがう、人間社会としてのアフリカに触れたと感じた

ごみごみしたバザール
私の住んでいる社会(地域。。。ではなく、社会というところに注目)と比べると1/4の物価
読むことも理解する事も出来ない様々な言語
見渡す限りの黒い肌の人々

*****

南アでは黒人を「人をみたら泥棒と思え」的態度で扱う
確かに、プアな黒人はプアな白人よりも多いから
そう言われても仕方ない人もいる
その方法には称賛はできないけれど彼らのモットーは「ある所からもらう」「無い人にあげる」だから

でも
世界でも最も危険と言われるヨハネスのダウンタウンを体験してみて思った
白人が怖くて足を踏み入れない地域は
決して安全とは言えないけれど
絶対危険ということもない
スリはあちこちにいるみたいだけれど、強盗殺人がそこらへんで起こっている訳じゃない
堂々と普通に気を付けていれば大丈夫
(でも私は明らかに外国人で、ローカルタクシー乗る手順さえ解んないぐらいだから一人では行かないよ)

白人と裕福層はローカルタクシーなんて乗らずどこ行くにも車転がしていくから
そりゃ注意ひいちゃう
「良い車乗ってんじゃん。そんだけ持ってんならちょっとおすそ分けしてよ」と、ガラの悪い事になる
持ってるもの見せびらかしたら、どこでだって目を付けられる
それは世界中の犯罪に共通することじゃない?



黒人だから犯罪者という考えはなんて悲しいんだと真剣に思った



黒人人口80%
そこから隔離されて
”安全に””守られた””上流階級”の”白人社会”で

人のこと
社会のこと
生活の違い
何も解らず
知らず
怖い、危ないとしか思っていなかった
そんな黒人と黒人社会への偏見だけの中で生活してきて
それが当たり前だと思っていた自分に

ショックを受けた本日。


国のほとんどの在り方を”ミザルキカザルイワザル”的に対処する社会にいたら
安全でも物資が整ってても
生活の範囲が狭くて狭くて
そりゃ息が詰まる

どうりで今の人生、自由が欠けていると感じていた。。と思った


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誰かが悪くて
周囲が悪くて
社会が悪くて
過去が悪くて
。。。と、思う事はラク

自分自身の選択と生き方の結果なんだと受け入れるより
「今」を生きるより
きっとラク

自分で責任を取るという事はとてつもなく難しい
だから
誰かの所為に出来るなら人生はラク

でも本当にそれで生きる事が
簡単になるのかな
納得いけるのかな


人の所為にする事は
自分をわざと被害者にして
自分の価値を下げる事

自分を大切にして正当に評価して
尊厳を持ってあげないと
自分が可哀相

そう
言っても

分かっていても

人の所為にしてしまう心


心が弱っている時に正論なんて言われても受け入れられなかったりもっと傷ついたりしてしまう


人って
難しい




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たとえば
子供が食卓で「これ食べたくない~」「これ好きじゃない~」といって食事を終わらせようとしない時
周囲にいる大人が
「世の中にはね、食べたくても食べれない子供がいるんだ」とか「どこどこの貧しい国では食べるものが無くて死んでしまう子供が沢山いるんだ」
とかの理由で子供に食べさせようとする
ある種の論理が存在すると思う

”ある種の論理”と表現したのはつまり
ヘリクツだと思うから
(今どきそんな事を子供に言う人がいるかどうかは知らないけれど。。戦争直後世代の私の親は言ってた)

食べ物を無駄にする事はいけない
子供がきちんと食べて成長する事は素晴らしい
食べたくても食べれない子供がいる、それは悲しい
食べ物が無くて死んでしまう子供もいる、それだってとっても悲しい


でも、それがなんで「だから、そのかわりにあんたが食べなさい。食べなきゃダメ」という論理になるのかが解らない(。。理解出来た事が無かった)

私が言いたいのは
特に食べ物と飢餓に苦しむ子供の話ではなく

人の悩みに対する他人の反応って
そんな論理を反映している場合が多いんじゃないかな、という事

人って悩みがあるのが普通だと思う
だって向上心だか前向きなんだかわからないけど欲がある
現状を受け入れありのままの状況で穏やかでいることは素晴らしいけれど
どうしてももっともっとと思う
あれが欲しい
これが欲しい
ああしてもらいたい
こうしてもらいたい
ああなりたい
こうなりたい

。。。と、普通は思う
良くも悪くも

でも悩みを持つ人を

「あなたのような状況になろうと思ってもなれない人が沢山いるんだから」
「そんなことやろうと思っても出来ない人だっているんだから」
「ノロケや自慢にしか聞こえない」
といった「それは贅沢な悩みというものです」発言で一蹴することは
「世の中にはそれを食べられない人がいるんだから、機会のあるアンタがありがたく食べときなさい」というヘリクツと変わらない

もっとも、
そういう事を言う人達のほとんどに悪気は無い
おそらくは”ある種の論理的な”なぐさめや気遣いがあるのだろうと察する事はできる

でも
悪気がない、は
無神経ではない、ということではない

人が本当に悩んでいるのだったら
それはどんな視点からみようと贅沢な悩みじゃ無いんじゃない?

せめて自分はそんな事、なぐさめようと思っているにせよ、言わないことにした


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パウロ・コエーリョというブラジル人作家の「アルケミスト・・夢を旅した少年」は本当に素晴らしく、
簡単に読めるのに深く穏やかに心に染み入る小説だった

少年は夢を求め様々な場所を旅し困難を乗り越る。けれど求めていたものは結局は自分の故郷にあった。初心に返る事の大切さと同時に、その旅があったからこその理解と感謝、というお話(ネタバレごめん!!)

大好きな本だからいろいろな人にプレゼントしていた記憶がある
そのうちある60代の女性からの返信に
「私はもう若くないから、共感できないお話だけど、良い本なんだろうなとは思ったわ」
というなんだか気の抜けた答えが返ってきて
気がそがれた思いをしたものだった

でもそれから10年経って、彼女の言葉と気持ちが理解出来るようになった気がする

心が夢を失うという事がある。。と理解することができるようになった

私はどちらかというと前へ前へと進んできた人間だと思う
いつだってまだまだこれから、と思いながら突き進み
何があっても未来は絶対に明るいんだ!という根拠も無い希望を抱いて生きてきたと思う

絶望や落胆は人生で経験するべきだ
私だって人生のそれぞれの通過点で見合った試練にあい、絶望や落胆を経験してきたとは思う
お先真っ暗な感覚に陥った事はあるけれど、心が折れた事は無かった

けれども今、心の折れた状態を始めて経験していると思う
(説明をしだすとキリがないので割愛してしまうけれど)

先に進む事も怖くて、歩を進ませる事なぞ無駄だと信じてるあきらめの気持ちが心の中を占めている
そんな心持ちになった経験が今までなかったから
それが年をとるという事なのか、そしてそんな心持ちが今後の人生一生続くのかと不安になる

東京にいた頃の生活は良かった
全てがあって、全てにおいて自由が伴っていた
だから、そんな「過去の栄光」が忘れられない自分がいるのかもしれない

山は高く登れば登る程
降りる過程が辛くなる
だから今何にも持っていない私が経験しているのもその下り坂なのかもしれない

過去にとらわれているのか
それとも何度か経験した絶望や落胆で心が折れているのか
どちらにせよ先に進む気力を持てない心が ある

でも

それはそれで
人生の糧なのかもしれない

きっと
ずっと楽天的なまま、全てが思いどおりにいって、きらびやかに輝く人生をずっと続けていけたら(そりゃ恵まれててラクで楽しいけど)
私は人の気持ちを本当に理解する事が出来ていたのかな?
もしかして私はとてつもなく高飛車になってしまっていたのではないかな?

世の中どうしても理不尽な場所に身を置かなければならない人も、人生思いどおりにいってない人も、夢や希望を心の中に見いだせなくなっている人も、心の中に癒しようのない痛みを抱えて生きている人達も沢山いる

救おうとしなくてもいいと思う
でも、人生には負の状況があるということ自体に理解を示せないのはきっとダメなんだと思う
弱者の気持ち(という言い方も失礼千万ではあるけれど)。。というものを徹底的に学ばないといけないのかも
そういったもの理解する機会としての今ならば
これもアリなのかもしれない
よっぽどの試練でないと学べないというのならば、それこそ私の人徳の至らなさなのだろう




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黒髪、茶髪、金髪、どれがいちばん好き? ブログネタ:黒髪、茶髪、金髪、どれがいちばん好き? 参加中

え~、
金髪が好きと言うか
家族みんなが自毛金髪って感じなんで。。。

今回話題にあげるのは
ウチのリトルプリンス(継子・ステップサン12歳)

どんどん背が伸びて今では目線、私の方が弱冠下
始めて会った時は本当に子供で私の膝の上に乗れたぐらいなのに
今そんな事したらつぶしちゃうだろ~って笑ってる

まぶしかったほどの金髪が今ではパパと同じぐらいのダークブロンド
(金髪少年は成長すると男性ホルモンの分泌が多くなりその影響で髪の色が濃くなって茶に近いブロンドになっていくのが普通。ウチのダーリンも2~3歳の写真みるとまばゆいプラチナブロンドだった。)

半年前まで大きめの錠剤なんて飲めない~とベソかいていたのに
ふと気がつくとフツーに飲み下せるようになってる
食べ物の嗜好も変わってきたし
「僕さ、これからファッションに興味持つから」とか宣言しちゃったり

こうして大きくなっていって
一年もしないうちにティーンネージャーになってしまう

ちょっと取り残されるような寂しい気持ち、無いでもないけれど
その分一人の人間として付き合う事が出来るようになっていくんだと楽しみな気持ちも確実にある
成長って素晴らしい

自分の子供ではないけれど
ないのにも関わらず
一人の人間の成長をこんなに間近で感じられる事ができる経験ってすごい

親の心、子知らずという言葉がある(まぁ私の場合は両親がホントデキテナイ人達で解りたいとか知りたいとかは思えないんだけど。。。でも母方の親族からはものすごく可愛がれて愛された)
人の成長と変化を愛をもって見届けるというのはこういうことなのか。。。としみじみ感じる

そういう心を持てるほうが
一身に愛を受けるよりも満たされた気分になるのは独りよがりかもしれない
私を愛して見守ってくれた人達がこんな気持ちを持っていたのかと、理解出来るような気分も気のせいかもしれない

けど

有り難い

いろいろと


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「私って、誰?」
「私って、何?」
。。。と言った質問を、日本人はどのように答えるのでしょうか?

というのが今週の大学院での課題です。
「日本人は」というよりも、「あなたの国/あなたの文化においては」という事そうで、
「あなたは」ではなく「あなたの国/文化においては」というところがミソです。
自分の事ならばともかくも、国を代表してなんてさっぱり答えられません。

というわけでこのブログを読んでくださっている方々に質問です

自己認識って、どうやってしますか?
人の性格的判断をどう下しますか?
(自分の性格はこうですよ。。。という事が聞きたいのでは無く、性格というものの判断を下すための基準って、なんですか?という事が聞きたいです)

自己評価や価値をどう見いだすか。。
過去の経験に基づいたリアクション的な習慣か。。
周囲によって定められるラベル的なものか。。
そこに「自我」はあるのか。。
などなど、いろいろあると思うんですが、一般的に性格はどのような心理分析法が使用されるか、と言う事を調べています。

ご意見お伺いする事が出来たら嬉しいです。

よろしくお願いします!!


P.S. 一説では日本人は咲き誇り散る桜の花が人生を表すように「ものの哀れ」を見いだす人種で
周囲や自然は観察者として描写するのでは無く
その周囲や自然のなかにいる自分の状態をもって表現するので「我」は無い。
だから西洋で始まった心理学を完全に受け入れる事は無かった、とも言われていますけど。。。



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