コロナ禍から3年、博多祇園山笠が例年の姿に戻った

コロナ9波の心配もあるなか、令和5年の博多の町は、15日の「追い山笠」に向け、熱気に包まれている。 天神から中州・川端・お櫛田さん・キャナル・博多駅と「飾り山笠」を巡って来た。

 

数年前から、人形師・中村信喬氏の作品を追いかけている。 博多人形は勿論であるが、町なかでは、彼の「パブリックアート」も楽しめるのだ。 それらの作品は、後日、本ブログで紹介したいと思う。 今年の「飾り山笠」で、中村信喬氏は二つの流(ながれ)を手掛けている。

 

 天下布武勲 (天神1丁目 表 中村信喬 作)

 天下取りの野望を表した「天下布武」とは、信長が岐阜城を制圧した後に使い始めた言葉。 この頃からの4人の重臣(柴田勝家丹羽長秀滝川一益明智光秀)を織田四天王と呼ぶ。 秀吉前田利家らは、未だ下っ端の時代だ。 秀吉が豊臣姓を名乗る前の羽柴姓は、丹羽長秀と柴田勝家の姓から一字ずつをあやかり取ったものとされている。

 

 

 長政関ケ原之勇 (中州流 表 中村信喬 作)

 

標題「長政関ケ原之勇」から、「天下分け目の戦い」と言われる「関ケ原合戦」の場面だとは分る。  慶長5年(1600年)9月、徳川家康の東軍(約8万)と石田三成らの西軍(約8万)が、現在の岐阜県関ケ原で向かい合い激戦となった。

徳川家康

 

今回は、東軍に付いた黒田如水長政親子の「関ケ原合戦」について触れてみたいと思う。 但し、上の「飾り山笠」の一場面だけでは、状況が解りづらい。 まず、黒田如水は現地「関ケ原」には居なかったからだ。 主戦場が岐阜県の関ケ原であったが、実際には全国各地で東軍・西軍に分かれ戦闘が行われていて、「関ケ原合戦」とは、総称と捉えたほうが良い。 如水は「九州の関ケ原合戦(大分の石垣原の戦い)」に参戦していたのだ。 よって、中村信喬 氏作の飾り山笠「長政関ケ原之勇」には、二つの場面が重なっている。

 

少しだけ正しておくと・・・下の方で、石田三成の重臣・島 左近(しま さこん)と黒田藩の母里 太兵衛(もり たへえ)が槍を突き合わせているが、この場面はあり得ない。 母里 太兵衛井上 九郎右衛門(いのうえ くろうえもん)も、黒田如水に従っていて、現地「関ケ原」には居なかったのだから・・・。 飾り山笠に登場している人物の中では、黒田長政島 左近だけが、実際の関ケ原に居たことになる。

 

 慶長5年(1600年)9月15日、関ケ原での両軍の布陣。

 

(地図画像はブログ『ゆるりと楽しく戦国時代』さんから一部をお借りしました)

 

 東軍の 徳川家康は桃配山に、西軍の② 石田三成は笹尾山に陣を置いている。 三成の前面を重臣の④ 島 左近が守り、家康の前は徳川家の猛将・本田忠勝が守っている。 石田三成と島 左近の正面に陣を敷いた③ 黒田長政の意気込みが見える。 戦いは、開始から6時間後には東軍勝利へ大勢が決した。 

黒田長政

 

西軍は松尾山に陣した⑤ 小早川秀秋が裏切ったことで総崩れとなったのだ。 小早川秀秋と早くから内通し、裏切りを働きかけていたのが 黒田長政であり、その調略の上手さは、父・官兵衛如水ゆずりだった。 長政は戦場でも活躍した。 開戦早々に④ 島 左近の陣に襲い掛かり、左近を討ち取り突破口を開いた。

 

黒田長政は、東軍勝利の立役者として家康から最大の評価を得、中津12万石から52万石筑前一国を与えられた。

 

 

黒田官兵衛如水の「九州の関ケ原合戦(大分の石垣原の戦い)」に触れる。

 

慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、豊臣政権内は石田三成派と徳川家康派の二つの勢力に分かれた。 三成に不満を抱いていた黒田長政官兵衛如水は、早い段階で家康に接近していた。 二つの勢力はお互いに挙兵の機会を伺っていたが、慶長5年(1600年)6月、徳川家康が動いた。 家康は会津の上杉景勝討伐を名目に、黒田長政ら家康派の大名を引き連れて東国に向かう。 三成はこの機を捉え、7月に大阪で挙兵する。 きっかけを作りたい家康の作戦であった。

 

中津城で隠居していた黒田官兵衛如水にも、戦乱勃発の情報が逐一入って来ていた。 九州内では、島津・小西・立花など、三成の西軍に就く大名が多かった。 加えて、大友義統(おおともよしむね)が西軍の毛利家から武器の援助を得て、豊後で陣を張る計画を進めていた。 大友宗麟の嫡男である大友義統は、朝鮮出兵時の不手際から秀吉の怒りを買い、領地没収の改易となっていた。 西軍に就いて、豊後での大友家再興を図ろうとしたのだ。

黒田如水

 

嫡男の黒田長政が、家康に従って多くの兵士を連れて行っているため、中津城で留守を守る如水には僅かな兵しか残っていない。 但し、生涯に亘って如水に仕えた猛将・栗山善助井上九郎右衛門母里太兵衛らがいた。 少し老いて来ていたが、如水にとっては頼もしい家臣だった。 如水は城に蓄えていた全ての金銭で、9千人の浪人をかき集め、豊後へ進軍した。 

石垣原の戦い(九州の関ケ原)

(地図画像はブログ『郷土の歴史と古城めぐり』さんからお借りしました)

 

没収されていた大友家領地には、旧家臣だった田原(たわら)家らの支城(安岐城富来城)も残っていた。 大友義統(おおともよしむね)の計画を知ると西軍の大友軍として決起し、海を渡って豊後に上陸した大友義統軍本体と合流した。 そして、東軍・細川忠興の飛び地支城となっていた木付城(きつき=江戸時代中期から杵築になる)を攻めた。

 

黒田如水は、大友軍の攻撃を受けている細川家木付城を援護すべく先発隊を出すと、自らは主力部隊を率いて国東半島の東を迂回し、富来城・安岐城を攻め落として行った。 木付城は大友軍によって一時は包囲されたが、黒田の先発隊によって豊後府内方面(現在の大分市)へ撤退させた。 木付城細川軍と黒田先発隊は如水の本体と合流すると、別府の石垣原で大友軍と交戦した。 浪人の寄せ集めであったが、井上九郎右衛門母里太兵衛らに指揮された黒田軍は強かった。 勢いに乗った黒田・細川軍は大友軍に一斉攻撃を加え、大友義統の降伏によって勝利を得た。

 

関ヶ原の合戦が慶長5年(1600年)9月15日、大分石垣原の合戦が9月13日なので、二日早い前哨戦でも東軍が勝利していた。

 

黒田如水・長政親子は中津から筑前国博多に移り、福岡城を築き始める。 

 

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