香椎ヶ丘特別緑地保全地区の丘陵に残る帆立貝式古墳

香椎地区近辺では、名島古墳香住ヶ丘古墳、鎌田の天神森古墳など古墳時代前期の古墳が確認されていて、この三つの古墳からは、いずれも三角縁神獣鏡が出土している。 これらの古墳は高速道路や流通施設・住宅団地の造成のために十分な調査が為されず、形や規模・埋葬施設などが不明のまま消滅している。 ただ、三角縁神獣鏡が出土していることを考えると、大和政権と関係を持った地域の有力な首長の墳墓であったことは間違いないのだろう。

 

さて、香椎宮の近くに上記の古墳とほぼ同時代に築造された「舞松原古墳」があるが・・・平成7年に福岡市教育委員会の発掘調査を終え、原形が分かる姿で保存されていることをご存知だろうか。 

調査の結果、「帆立貝式(形)古墳」だとされている。 浪漫を感じる古墳だ!

帆立貝式古墳

 

古墳の種類

 「前方後円墳」の前方部分が小さくなったものではなく、「円墳」の種類に入る。

舞松原古墳」までのアクセスを記した資料が少ないので、「訪れにくい」との意見があることを聞いた。 香椎ヶ丘特別緑地保全地区の中心にある「舞松原古墳」には幾つかのルートがあるが、そのルートの道路面には駐車場がない。 そのことが「訪れにくい」につながっているのかもしれない。

 

今回は香椎宮の「二の鳥居(参道前)」から、徒歩十数分で「舞松原古墳」に着くコースを地図と写真を加えて紹介します。 香椎宮参拝後に、是非、古墳時代のこの地の上に佇んで、古代浪漫に触れて頂きたいのです。 

 

車での参拝者は香椎宮駐車場に車を置いたまま、「二の鳥居(参道前)」から出発します。 「舞松原古墳」のそのものについては、現地に到着してから説明します。

香椎宮から舞松原古墳までのルート地図 (マピオン使用)

 

 香椎宮「二の鳥居」前から出発です。

 ここからJR香椎神宮駅方向へ約250m歩く。

 

 香椎神宮駅の手前50mの香椎線人道踏切を渡る。 渡って直ぐに左折し、線路に沿って歩く。

 

 道路から駅の標識と、その先の「ほっともっと」の店が見える。 

 

 線路沿いの道が突き当たると、右折して緩い坂道を上る。 前方左の丘が「舞松原古墳」がある香椎ヶ丘特別緑地保全地区だ。 写真前方  を左折する。

 

 突き当り右側が香椎ヶ丘特別緑地保全地区舞松原古墳)への入り口となる。

 香椎ヶ丘特別緑地保全地区(舞松原古墳の杜)入り口の看板

 この看板の地図で現在地が確認出来ると、凡その位置関係は解る・・・しかし、この看板の絵図を見る限り、古墳の場所はだと思いますよね。 違います。 古墳は僕が写真上に記した×印の場所です。 は展望台ですから、間違わないように。 これは福岡市に訂正して頂く必要がありますね。

 

 木の階段による遊歩道が上に続いている。 夏は蚊が多い。 樹木が覆い茂っていて、町の中だとは思えない。 

 

この木の階段遊歩道を上り詰めるとT字路に突き当たる。

 T字路から右を見ると、少し先に展望台が見える。

展望台

ここが香椎ヶ丘特別緑地保全地区(舞松原古墳の杜)入り口の看板に記されていたの展望台だ。

展望台と言っても、茂った樹木で360度の視界は遮られている。 しかし、木々の間から北西を覗くと照葉の町と海が見えた。 入口の看板に「みどりは貴重な財産です。大切にしましょう。」と書かれてあった・・・その通りだが、展望台の目的はそこから見える景色で、人々が感動し、心が癒されることにある。 北側180度の木々を伐採すれば、香椎の町並み、香椎潟照葉の町博多湾志賀島まで広がる景色を楽しめると思う。

 

 展望台の南側に大きな栗の木があって・・・風で落ちたのだろうか、未だ青々したイガイガの栗の実が落ちていた。

 

 T字路を左に折れると、古墳までの上りの遊歩道が数十m続く。

 

  舞松原古墳に到着。 前方の土盛が円墳だと解る。 ここの標高が60mで、展望台の標高が50m。 香椎宮二の鳥居からここまで、僕の足で16分ほど・・・若い皆さんだともう少し早く着けると思う。

 古墳横に解説板が立っている。

 

平成7年に福岡市教育委員会によって発掘調査が行われている。 説明板には調査結果の概要が書かれている。

 上の絵図で説明版が立っている場所が確認出来ますか?  全長37m、円丘の径29.5m、高さは4.5mで、帆立貝の形をした帆立貝式古墳。  古墳図の中に長方形の線が幾つも見えますがトレンチ跡です。 トレンチとは戦争映画に出てくる塹壕ですが、考古学では発掘溝と呼ばれています。 部分的にトレンチを掘り、概要を調査・把握します。 

 

初めは前方部分が小さい前方後円墳との見方もあったようだが、結果的に円墳造出(つくりだし)が付いた帆立貝式古墳と判明した。

 

造出(つくりだし)」とは古墳に突出した部分のことで、このブログ(香椎浪漫)の中では「東光寺剣塚古墳」の時にこの言葉が出た。

東光寺剣塚古墳

 の部分が造出(つくりだし)」で、死者の霊を祀る祭壇であったと見られている。 舞松原古墳の場合、この「造出(つくりだし)」部分が壊れていて形や様子が確認出来ない。  よって僕たち素人では、説明が無ければ「円墳」としか見えない。

 

↓ 発掘調査時の写真。 「造出(つくりだし)」部分の調査の為に掘られたトレンチ。

 

 円墳頂部の内部主体は木棺直葬で、鉄製の鍬先,刀子が出土している。

 

名島古墳香住ヶ丘古墳、鎌田の天神森古墳は、いずれも前方後円墳で、三角縁神獣鏡が出土しているが、この舞松原古墳からは出ていない。 盗掘されたと考えられるが・・・規模からして、被葬者は地域の有力な首長であることは間違いない。 

 

舞松原古墳の被葬者は名島古墳香住ヶ丘古墳天神森古墳のそれよりももっと大きな権力をもっていた人物とも考えられる。 僕がそう思った理由は古墳が位置する高さだ。 宮崎市の生目古墳(いきめこふん)は標高25mの台地に築かれている。 それは平地の誰もが見上げる位置にあり、権力者であればあるほど威厳を見せつける為だと説明を受けた。 

 

福岡市で最大の前方後円墳である西区の「丸隈山古墳」、博多区の「那珂八幡古墳」も小高い丘の上に築かれている。 人々に見上げさせて、権力の象徴を演出しているように思える。  

 青葉公園から望む香椎ヶ丘特別緑地保全地区の丘。 

 写真の部分に舞松原古墳がある。 四世紀後半にワープしてみよう。 住宅も無く、丘を覆う樹木も無い。 四方の下から見上げる古墳は権力の象徴に間違いない。

 

この香椎の首長が活躍したのが 四世紀後半(300年代後半)。 僕(香椎うっちゃん)のブログでは、「神功皇后伝説」の始まりを369年としている。 朝鮮半島加羅国に任那日本府を置いた年にしたのだ。 神功皇后でなくとも、倭国が朝鮮半島に出兵したのがこの頃であることは間違いない。 372年、百済国王から倭国に友好の証として「七支刀」が贈られている。

七支刀 (奈良県石上神社 国宝)

 

朝鮮半島に於ける任那日本府は、倭国の軍事・外交・貿易の拠点だった。 四世紀後半(300年代後半)、倭国の拠点は奴国だった博多湾沿いの港だった。 舞松原古墳に眠る香椎の首長も大和政権の命を受け、朝鮮半島に対する軍事・外交・貿易の業務に携わった地域豪族だったのだろう。 

 

和白から香椎付近は糟屋郡だったので、西谷 正 先生(九州大名誉教授)の説によると、魏志倭人伝の「不弥国(ふみこく)」となる。 僕は「不弥国」は遠賀川流域だと考えていて、和白から香椎エリアは糟屋郡・那珂郡・席田郡・御笠郡に続く奴国の一部だと思っている。 従って、和白・香住ヶ丘・香椎・名島の沿岸部に築かれた古墳時代前期古墳については、阿曇族首長との関連も考えられるのではないかと浪漫を膨らませている。

 

そんな事を考えながら古墳を一周した。

側面

 

 正面の「造出(つくりだし)」部分だが、形を辿ることは出来ない。

 

古墳説明板から時計回りで歩くと、途中に香椎ヶ丘特別緑地保全地区での「野鳥」と「樹木」の自然観察用の説明板も立っている。

 

 

秋になり涼しくなって、蚊もいなくなれば、子供を連れての散策もお奨めしたい。 地図・説明板にも書かれているが、古墳までの遊歩道は何本かのルートがある。 何処にでも抜けられるが、最寄りの駅・バス停までが大変だ。 このブログのルートが一番分かり易く利用しやすい。 

 

 香椎うっちゃんのブログ → 「宮崎県 西都原古墳群

 

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