香椎宮 クスノキ参道誕生のお話!
6月の上旬、「二の鳥居」をくぐり、香椎川に架かる太鼓橋を渡り終えた直ぐ左側に石碑が立った。
石碑 (↓の場所)
↓ 「弁財天社」の手前になる。
↓ 「碑」そのものは新しくはない。 右から「参道記念碑」と刻まれている。 「参」の文字を「茶」と読んで、「茶道」関係の碑だと勘違いされた方も少なからずおれれたけど・・・確かに書体が読み辛い。
「参道記念碑」って何のことだろう?
「参道記念=貞明皇后」と答えられた方は「香椎検定2級合格」です(笑) ・・・「香椎検定」などは存在しませんが、我々香椎住民の勉強会として面白いかもしれませんね。
さて、「香椎宮参道(勅使道)」は貞明皇后(大正天皇妃)の行啓記念に整備されたので、「二の鳥居」の向かいの境内にある「行啓記念碑」の横に建てられていたのです。
↓ 「貞明皇后 行啓記念碑」の場所は➡の方向。
↓ 「貞明皇后 行啓記念碑」
貞明皇后は大正11年(1922年)3月21日、香椎宮を参拝されました。 皇后は裕仁皇太子(昭和天皇)の欧州親善訪問の航海安全を、使者を通じて香椎宮に祈願していました。 6ヶ月の訪問を無事終えての皇太子の帰国を喜ばれ、自ら香椎宮に御礼の行啓をされたのです。 過去に皇后が福岡を訪れたことはないので、大変なことでした。
この行啓については、詳しくブログで投稿しています。
■ ブログ香椎浪漫 ➡ 「貞明皇后と香椎宮」
貞明皇后行啓の記念事業として、福岡県が予算を組み「参道=勅使道」の整備が決定し工事が進められた。 大正15年2月11日の紀元節に、参道の整備事業が完了した。 そして、この年の12月25日、大正天皇がご崩御され、昭和元年となる。 後年の昭和13年、行啓記念碑の横に「参道記念碑」が建てられたのです。
平成の時代になると、この「参道記念碑」のことは忘れ去られ、何の碑なのか語られることも少なくなっていた。 ↓ 3年前の写真。 前方に西鉄バスの「香椎宮しょうぶ園前」バス停が見える。
ところが今年に入って、「市道 香椎4800号線」の工事が始まった。 碑が立っていた場所は道路工事の一部に重なることから、「参道記念碑」のみが「弁財天社」の近く(●印)に移動したのだった。
■ 香椎浪漫ブログ → 「市道香椎4800号線」
「香椎宮しょうぶ園前」バス停の周り (7月17日撮影)
↓ 地図上で確認したい。
↑ ④が西鉄バス「しょうぶ園前」バス停。 ①が「貞明皇后行啓記念碑」で、道路工事中の●印の場所に「参道記念碑」が立っていた。 移動後は●印の場所だ。
現在の「香椎宮参道=勅使道」は、「クスノキ参道」とも呼ばれ親しまれている。 クスノキ(樟)は、新芽と落ち葉の入れ替えが同時に進むので(6月頃)、サクラ並木やケヤキ並木のように冬の枯れ枝だけの時期が無い。 つまり一年中が緑のトンネルになっている。 しかも樟脳の成分が降り注ぎ、森林浴によるセラピー効果によって気分も良い。 今では香椎住民の心の拠り所でもあるので、クスノキが無い参道は考えられないのである。 このクスノキ並木はどの様にして誕生したのか? 行啓記念による参道整備事業の最も大きなイベントが、最終日(大正15年2月11日)に行われた165本のクスノキの一斉植栽だった。
↓ 今までは目に触れる機会が少なかった「参道記念碑」に、植栽に関する出来事が刻まれている。 読みにくい部分もあるが、内容を紹介したい。
漢字とカタカナによる当時の文章は、現在の我々には少々読み辛い部分が多い。 加えて、最初の部分は文字が汚れていて良く解らないが・・・貞明皇后の香椎宮行啓が特別だったことが刻まれているようだ。 続けて、「行啓記念として参道の大改修が決まると、福岡県は県費・金参萬円を支出し、これを助成した。 共に、県下の在郷軍人会及び男女青年団によって、参道の両側に樟樹の植栽を奉仕せしむ」とある。
この日の事は翌日の新聞で報道されており、内容を過去のブログでも投稿しているので重複するが少し触れたい。
96年前の大正15年(1926年)2月11日午前11時、香椎宮前の広場(現駐車場)に県下から1,000人近くの人々が樟樹の苗木(3m以下と指定されていたらしい)を大八車に積んで集まってきた。 柴田県知事の挨拶の後、鐘を合図に参道(勅使道)の両側に等間隔で樟樹が植えられていった。
↓ その時の様子が翌日の新聞に載っている。
この時の小さな樟樹の苗木が、96年を経て現在のクスノキ並木に育ったのだ。
話が逸れるが、浪漫を追い求める「香椎浪漫」の管理人である僕は、写真の樟樹の苗木が現在のどのクスノキに育ったかを特定したい、と思ったのです。 写っている情景から想像をたくましくすれば、いろんな事が分かってくる。
↓ 結果、僕が90%以上間違いないと特定したのが「NANの木」の前のクスノキです。
暇な人間やねーと思われるかも知れないが、これが「浪漫」です。 どのように想像をたくましくしたかは、いつの日にかブログで紹介したい。
その日、香椎宮に集まって来たのは、県下の市・郡・町・村の皆さんでした。 現在のクスノキの一本一本に県下各地域の人々の「心」が宿っている。
↓ 香椎宮の資料室には、植栽した165の地域名と団体名が記された「クスノキ植栽図」が残されている。
「クスノキ植栽図」 (香椎宮所蔵)
↓ 植栽直後の写真がある。 鹿児島本線踏切近くの「一の鳥居」は大正8年(1919年)に建立されたもので現在に同じ。 参道の両側に添木で固定された幼いクスノキが確認できる。 昭和元年当時、奥の両側に建て物は何も無い。
↓ 鹿児島本線踏切に近い参道の南西側の丘から撮っている。 昭和初期頃と思われる。
↑ 鳥居の北東側は明石邸(現在はマンション)。 左から国鉄鹿児島本線、右から博多湾鉄道宇美線(現JR香椎線)の線路が香椎駅に向かっている。 参道のクスノキの樹高は5~6mに育っている。
↓ 写真右側から朝日の影が伸びていること、そして左側に坂が見えるので、香椎線踏切と鹿児島本線踏切の間付近から博多湾方向を撮ったものだと思われる。
↑ 参道両側のクスノキの樹高がかなり伸びているが、昭和の終戦直後あたりだろうか?
石碑の文字の中で、次のように読める箇所があった。
「参道入り口の最右には勅使・長谷信道氏のお手植えを乞い、同左端には知事・柴田善三郎自ら之を植う」
↑ 鹿児島本線踏切から始まる参道の右側(●印)のクスノキは長谷勅使、左側(●印)のクスノキは柴田県知事のお手植えによる。
この石碑は昭和13年(1938年)3月21日に建てられ、碑文は官幣大社香椎宮宮司 緒方稜威雄氏が書いたことが最後に刻まれている。
戦後、GHQが神社の「社格」を廃止するまでは、香椎宮は最高社格の「官幣大社」だったんです。 「官幣大社」と言う威厳を、クスノキが増幅させたことを伝える文言も石碑の中に見える。
「植栽以来十有余年、繁茂した樟樹は社頭に一層の森嚴を加え、賽者をして自ら襟を正さしめた」
現在の香椎宮は厳粛の中にあっても、親しみやすさを感じてもらうことも大切にしているように思える。 クスノキ参道から本殿まで、参拝者が心から気持ち良く安らいでもらえれば、貞明皇后も喜んでくれるでしょう。
行啓記念の事業によって、現在のクスノキ参道があることを考えると、もっともっと貞明皇后に感謝しなければと思う。
大正11年(1922年)3月21日、貞明皇后 しょうぶ池の太鼓橋を渡られる (香椎宮所蔵)
↑ 先導している人物は国鉄香椎駅16代駅長・星野行雄氏。
↓ 大好きなクスノキ並木を、ウィンドウズ(パソコン)のペイントを使って描いた絵です。
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*「貞明皇后と香椎宮」
*「香椎参道 クスノキ並木」
● 昭和の写真はH/P「香椎タウンストーリー」よりお借りしています。
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