日本一の縄割り奉行(黒田官兵衛)と石工集団(穴太衆)!

福岡城の石垣 ① 官兵衛と左助」の続きです。

                       

                         福岡城 下ノ橋御門の石垣

 

福岡城の築城に当たって、縄張りを担当したのは黒田官兵衛如水と初代藩主の黒田長政の親子。 そして、普請奉行を務めたのが野口左助一成(のぐちさすけかずなり)。 左助は官兵衛から優秀な石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」を預かっていた。 穴太衆(あのうしゅう)は全国の主な城郭の石垣積みに係わっているとされているが、その実態は明らかになっていない。 ただ、黒田家が早くから「穴太衆(あのうしゅう)」を召し抱えていたのは間違いないだろう。 今回は、その 穴太衆(あのうしゅう)について、浪漫(仮説)を拡げたいと思う。    

 

660年、倭国(日本)の同盟国である朝鮮半島の百済(くだら)は、新羅(中国)に攻められ滅びる。 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=天智天皇)は百済の復興を望み、663年に海人阿曇族の水軍などによる大軍を編成し朝鮮半島に出兵させた。 

                     白村江の戦い  (H/P 「世界から日本を守ろう」から転用)  

しかし、白村江の戦いに於いて日本軍は新羅・唐の連合軍に大敗し、百済の復興はならなかった。 残った倭国の水軍船は、残兵と共に多くの百済の人々を救助して那の津(博多)に戻って来た。 救助され倭国に着いた百済人のなかには、大陸の文化を学んだ多くの職人の集団がいた。

 

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、新羅の連合軍が倭国(日本)本土にも攻めてくる脅威を抱え、防衛体制を整えた。  大宰府を前線基地として博多湾側に水城を築き、大野城基肄で護りを固めた。 

                                                         大宰府 防衛体制          

 

この大野城基肄の築城にあたっては、百済から避難して来た石工(いしく)集団が石積みの技術指導をしたとされている。 

                         大野城址  百間石垣

                             基肄城址

 

瀬戸内海の防衛城である長門城屋嶋城などの築城にも、百済系石工集団が絡んだ。  中大兄皇子は瀬戸内海からの攻撃に備え、667年に都を飛鳥から近江の大津)に移した。 大津宮の造営にも百済の石工集団が集められ尽力した。

 

百済系の石工集団は、大津宮)の完成後、北方の地(穴太=あのう )に移り住み帰化した。  奈良時代末期、中国から帰国した最澄が、比叡山延暦寺の建立を始める。  比叡山の麓にある穴太の里に居住していた百済系石工集団は、登山道や井戸内部の石積み、伽藍の基礎石垣などの造成に従事した。  

大津宮)、穴太=あのう ()、安土城)、佐和山城)、黒田村(●)

 

その後も、延暦寺の石仏や五輪塔などの石材切り出しや加工作業を通して、彼らは石工技術力を高めていった。 近江国の地元豪族から砦の石築地の造成を頼まれることも多くなった。 時が経ち、室町時代末期天下一を目指す織田信長は数々の戦に勝利し、当時の交通の要所である近江に信長らしい独創的な「安土城」()を築く。 縄張り奉行は家臣の羽柴(豊臣)秀吉で、総普請奉行には同じく家臣で佐和山城)の城主を務めていた丹羽長秀(にわながひで)が命じられた。 秀吉が縄張り(設計)した城の石垣は、今までにない規模だった。 丹羽長秀佐和山城)の改修にも係わっていた穴太(あのう)に住む石工集団の技術を高く評価していたことから、彼らに安土城の石垣造りを任せた。 工事は順調に進みだした。

                         安土城 復元CG    (滋賀県近江八幡市作成)

 

播磨国の黒田官兵衛は、安土城築城開始の前年には羽柴秀吉の家来となっていた。 秀吉を通して織田信長に謁見し、名刀「圧切長谷部(おしきりはせべ)」を授かっている。  

                    圧切長谷部(おしきりはせべ)  国宝・福岡市博物館所蔵

官兵衛は秀吉に連れられて、工事中の安土城を訪れた。 官兵衛は積み上げられていく石垣に見とれ、特に強度に拘った石積みの技術に目を見張った。 

                        黒田官兵衛如水 (崇福寺所蔵)

官兵衛丹羽長秀に、「この石工たちは何処の者か」と訊ねた。 長秀は近江の穴太(あのう)に住む石工集団について、官兵衛に詳しく説明した。 工事の休憩時間に、官兵衛は石工集団の棟梁に会った。  石積み技術について何世代にも渡って探求してきた話の他に、棟梁は興味深い話を続けた。 「石積みの作業は時間がかかる。 何ヶ所の現場を自分一人で担うことは出来ない。 石の組み立てに於いて、自分と同じ感性で仕事を命じられる、そして、信頼出来る人材を育てることが大切だ」 

この話に官兵衛は尊敬に近い感銘を受けた。 まさに「人は石垣、人は城」の言葉に通じる。

 

                        安土城址の石垣 (H/P「城人」よりお借りしました)

 

福岡の地名は、官兵衛が住んでいた備前国福岡村に因るが、室町時代初期までは近江国伊香郡黒田村(●)が本拠地だった。  そんな話になると、棟梁は同じ近江国なので良く知っている、と話した。 棟梁も官兵衛がただならぬ武将であると見抜いていて、その晩も酒を飲みながら二人の会話は遅くまで続いた。

 

官兵衛は棟梁が育てた二人の優秀な石工職人を召し抱え、その二人を家来の野口左助一成(のぐちさすけかずなり)に預けた。 野口左助については「福岡城の石垣 ① 官兵衛と左助」で触れた。

 

                            野口左助一成

 

左助官兵衛が城造りについて、特に目を付けて指導して来た家来だった。 穴太(あのう)の棟梁が言っていた言葉・・・「自分と同じ感性で仕事が出来る人材を育てる」・・・官兵衛はそれを託せる人材として、左助に二人の石工職人を預けた。 二人は更に多くの石工人材を育て、彼らは同胞の大名の素に散って行った。 やがて、彼らは「穴太衆(あのうしゅう)」と全国区で呼ばれるようになる。

 

黒田官兵衛と野口左助の信頼関係、野口左助穴太衆の信頼関係・・・「よい上司からは、よい部下が育つ」。 黒田家が日本一の城造り名人と言われるようになったのは、人材を大切にする黒田家とすれば当然の成り行きだった。 安土城大阪城の築城は「天下普請」で・・・多くの戦国大名が参加していた。 以後、高い石垣を持つ城造りが盛んになり、穴太衆(あのうしゅう)の石積み技術は全国から求められるようになった。

 

福岡城の石垣 ③ (石垣散策)」に続く。

 

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