黒田官兵衛が育てた城造りの名人

熊本地震からまる5年になる。 当時、阿蘇地域や熊本市の被害状況がニュース番組に流れて、地震の凄まじさを見せつけられた。  特にうっちゃんが声をあげて驚いたのが、熊本城の石垣が崩壊している場面だった。                                (ANNニュースより) 

 その中で、凄いと思った事象があった。 石積みの一柱が、壊れかけた城郭を必死に支えている。 この石積みは人の技術によって造られている。 「何とか、頑張りをみせてやろう」・・・そんなことを言っているようで、ホロッとする程のけな気さを感じた。

 

城郭の石垣工法で、この石積みを「算木積(さんぎづみ)」と言う。 「算木」とは、ソロバン以前に中国で使われていた計算用の小さな長方形木片のことらしい。  石垣で最も重要な部分は(隅)部である。 「算木積」はその部分を強化するために考え出された石積み技法。 長方体の石材を長辺と短辺が互い違いになるように石垣の(隅)部に積み上げていく。

 

 長方形の石(赤色)を隅石」と言う。 青色を「隅脇石」と言う。 「隅脇石」を上下の長辺の「隅石」で挟み込むことによって、(隅)部全体がバランス良く一体化して、強度が高くなるという。 そのことは、熊本城の「算木積」が立証してくれた。

              福岡城東御門の算木積

 

加藤清正が熊本を本拠地として、熊本城に入城した頃は、丘の上に砦を築いた程度の「平山城」だった。  関ヶ原の戦い後に、黒田長政と父の官兵衛如水が福岡に城を築き始めたのが慶長6年(1601年)。  秀吉没後、全国で一番の城造り名人と呼ばれていたのが黒田官兵衛如水であった。 数年後、「三の丸」の石垣が完成した頃、熊本から加藤清正が築城工事を見学に来た。 清正はその見事な石垣を見て感嘆の声を上げたそうな。 清正が見たのは完成度の高い「算木積」の石垣だった。 秀吉の家来の頃から清正の武勇を認めていた官兵衛は、熊本城を改築中の加藤清正に、算木積み職人の派遣を約束したのだろう。 その時の石積み技術が、現代まで残っていたのだと思う。

福岡城三の丸に入る「下之橋御門」の算木積石垣

     

 ここは人の出入りが一番多い場所だ。 回りの石との表面が異なっているので、江戸時代に改修されたものかもしれない。 しかし、当初のものもこれに近い完成度だったと思われる。

 

福岡黒田藩の石垣石積技術の歴史を、大阪城築城の時代まで戻してみたい。
 

 大手門一丁目にある福岡フィナンシャル本社1階に、博多人形の「黒田二十四騎」が展示されている。 

 黒田節の母里 太兵衛印)、栗山 善助後藤 又兵衛はじめ、林 太郎右衛門井上 九郎右衛門など、凄い武将達が勢揃いしている。 その中に、野口 一成(通称は左助)がいる。

                  野口 左助 一成

黒田官兵衛播磨の戦国大名・小寺家に仕え、姫路城の城代を務めていた頃、親しくしていたお寺の子供を元服後に家臣として預かった。 それが野口 一成 左助だった。 彼は多くの武功をあげた。 彼の戦法は特別にあつらえた籠手(甲手=防具)を着けた左腕で身を守りながら、右手の太刀で相手を切り倒す技だった。  当然、身体の左側に傷が多くなる・・・よって、左助と呼ばれるようになった。 この野口 左助こそが、黒田官兵衛長政親子から全幅の信頼を得ていた築城及び石垣造りの名人だった。  野口 左助は官兵衛から優秀な石工集団を預かっていた。  石工集団については、後に触れる。  

 

大阪城縄張り奉行黒田官兵衛との説が強く、間違いないと思う。 「縄張り」とは、城郭全体の設計・曲輪・城門・堀などの配置を決めることを言う。 護るための城・・・これには、逆に何回も苦労しながら城を攻め落とした者の経験と知識こそが求められる。 秀吉黒田官兵衛縄張り奉行を命じたのは、そんな見方からだろう。  

             隠居後の 黒田官兵衛如水  (崇福寺所蔵)

 

城の良し悪しは「縄張り」で決まる、と言うほど重要な役割となる。 縄張り奉行官兵衛は、天正13年(1585年)、野口 左助を長とする石工集団を大阪に派遣させ、天守閣の石垣を完成させている。 野口左助黒田官兵衛から預かった石工集団は穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる。この大阪城築城事業には「天下普請」として、各地の戦国大名からも多くの担当武将と職人達が駆り出されていた。 この事業を通じて、他の大名は野口左助穴太衆(あのうしゅう)から石積み技術を学んだのだろう。 この石積み技術が各大名に伝わり、それぞれに石工集団(越前衆尾張衆など)が育てられて行ったと思われる。 また、福岡藩野口左助と彼の石工集団は、更に高度な石積み技術・築城技術を極めて行ったのだった。 

 

 穴太衆(あのうしゅう)について触れる。 滋賀県大津比叡山の麓に、京阪電鉄穴太(あのう)がある。 その地で中世から知られていた石工集団が穴太衆(あのうしゅう)だ。 黒田官兵衛穴太衆(あのうしゅう)の係わりは後のブログで触れるが・・・黒田家は早い時期に穴太衆(あのうしゅう)を召し抱えていた。 信長秀吉から命じられ、点々と戦線を移動する際、臨時の簡便な石積み砦穴太衆(あのうしゅう)に築かせていたのだ。

 

大阪城の普請も落ち着いた天正15年(1587年)、秀吉官兵衛豊前国の6郡を与えた。 官兵衛は6郡の中心となる中津に築城を開始した。 山国川の河口を天然の堀として設計している。 後に築く福岡城草ヶ江を外堀(現在の大濠公園)とした。 官兵衛が得意とする設計だ。 中津城は黒田家にとって、初めての持ち城だ。 野口左助穴太衆(あのうしゅう)は大いに張り切った。  ただ、秀吉の家来である官兵衛には突然の命令も多い。 あちらこちらと用事を処理する間に、築城は途中で休止しながら遅れた。 

                中津城石垣

そうこうしている間に、関ケ原合戦となり、黒田家福岡へ国替えになった。 中津へは小倉から細川家が移って来た。 中津城は増築が繰り返されて行く。   写真の石垣斜線の右側は黒田家の石垣、左側が移転して来た細川家の追加普請になる。 黒田家の石積みは「穴太積(あのうづみ)」と呼ばれる。 上部の石積みがしっかりしている。 また、初期の「算木積み」が見られ、全体が力学的なバランスを保っている。  野口左助穴太衆(あのうしゅう)の技が確認できる。


中津城築城が未だ途中の天正19年(1591年)、黒田官兵衛秀吉から、朝鮮半島侵攻の前線基地・唐津名護屋城縄張り奉行も命じられている。 そして普請奉行4人のうちの一人が息子の長政だった。 この時点で黒田親子は、豊臣政権内において最も優秀な城造り名人と認められていたことが解る。  

                 豊臣秀吉

 

黒田親子は城郭設計の感性が際立って高かった・・加えて、家来の武将の中にも、野口左助など黒田親子と肩を並べるほどの城造り名人が育っていた。  黒田軍団には、もう一人城造りの名人がいる。 福島正則から、酒飲み合戦で槍(日本号)を呑み獲った母里友信(通称は太兵衛)だ。 黒田二十四騎博多人形の中の印。 黒田節で有名だが、黒田軍団の中でも大将を務めるほどの勇将として知られている。 母里太兵衛も石垣の石積み知識が高かった。  母里 太兵衛野口左助は若い頃からの親友だった。 この頃、太兵衛の妹が左助に嫁いでいて、二人は義兄弟となっている。

                 母里 太兵衛 友信

 

文禄元年(1592年)春、名護屋城が完成。 秀吉の命により、日本軍は名護屋城から朝鮮半島への出兵を開始した。 一番隊は小西行長を総大将とする1万8千の軍勢・・・、二番隊は加藤清正の2万2千・・・三番隊は中津黒田長政の1万1千・・・九番隊の細川忠興まで、延べ15万の大軍が次々と対馬海峡を渡った。  母里 太兵衛野口 左助黒田 長政に従って朝鮮半島へ渡った。 「文禄の役(韓国では壬辰倭乱)」が始まった。

 

釜山に上陸した小西行長軍は直ぐに進撃を開始。 加藤清正軍は半島の東側を北に進む。 進軍の一方、主たる大名は半島南部の支配、及び補給基地の確保のために、慶尚南道(蔚山・釜山近辺)の海岸沿いに日本式の倭城を築き始めた。 

                 慶尚南道の倭城

 

釜山に上陸した小西行長軍は、直ぐに釜山倭城を築いた。  数年前、野球の「U-18 ワールドカップ」が開催された機張(キジャン)は名が知られている。 ここに機張倭城を築いたのが黒田長政だった。 

     機張黒田倭城跡     (H/P 城めぐりチャンネルさんよりお借りしてます)

朝鮮半島は石材は豊富だ。 野口左助穴太衆(あのうしゅう)は突貫工事で機張倭城築城に取り掛かった。 母里 太兵衛は総大将である長政の側を離れられないので、 築城の工程を確認すると先に進んだ。  釜山上陸から20日後には、小西行長軍と黒田長政軍は合流して漢城(ソウル)を攻め落とした。  中国の明軍が参戦すると、休戦も含め一進一退・・・慶長3年(1598年)、秀吉の没後、朝鮮半島から撤兵が始まり、倭城は役目を終えた。  大阪城築城の際の「天下普請」によって、各大名に石垣造りの技術が伝わったことが幸いしたのかもしれない。 慶尚南道の海岸には30を超える倭城が築かれたが、現在でも半数近くの倭城跡が確認できる。  工期の問題から全体的に石垣造りが荒いが、それは仕方ない。

 

秀吉死後の慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが始まる。 黒田官兵衛は既に中津で隠居していた。 勝利した徳川東軍に就いた長政は、家康からその働きを認められ、中津から福岡52万石の大大名に伸し上がった。  隠居した官兵衛ではあったが、元気に福岡城の縄張りを行った。  長政は築城の総大将である普請奉行野口左助に命じた。 肥後熊本から加藤清正が訪ねて来たのがこの頃だ。 左助と彼に所属する穴太衆(あのうしゅう)は、「算木積」を完璧な技術として完成させていた。  官兵衛は慶長9年(1604年)、滞在中の京都で没した。 築城途中だったが、出来上がったばかりの御鷹屋敷(三の丸に建てた官兵衛の隠居屋敷 印)で僅かな余生を過ごしたのだろうと思う。

 

       福岡城 御鷹屋敷の場所   (福岡教育委員会作成図転用)

 

福岡城の築城が終盤になった慶長11年(1606年)、江戸城拡張の天下普請が命じられた。 江戸城はそれまで太田道灌が築いた平山城だったのだ。 本丸・天守台を持つ石垣城郭の増改築が始まり、各藩から築城の名人と職人たちが派遣された。  黒田長政野口左助母里太兵衛穴太衆(あのうしゅう)を送り込んだ。 江戸城天守台の石垣は福岡藩が担当したのだ。 徳川家野口左助母里太兵衛穴太衆(あのうしゅう)の石積み技術が認められた。 

 

福岡城の石垣 ②  穴太衆(あのうしゅう)」に続く。

 

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