香椎宮の聖なる結界!

 

香椎宮の休憩所前の三の鳥居を通って、石段を上ると楼門(ろうもん)です。 香椎に住む我々にとっては、香椎宮の本殿、綾杉と同じようにシンボル的存在の建物です。

 

                  

が映える時期や節分祭の「お多福面」など親しみも感じています。

 

             

       

しかし楼門は鳥居と同様に、一般領域と神域とに分ける結界(けっかい)としての大きな役割を持っていますので、本来は「親しみ」とかを感じてはいけないのかもしれません。

 

神道の神社には、古代より「鳥居」と言う門があるのに、なぜ大掛かりな神門(山門=楼門)を造ったのでしょうか。 楼門の建築様式からも解るように、これは仏教の影響を受けています。 

仏教が渡来してきた頃、寺院の門は南門(南大門)を正門としていました。 鎌倉時代ごろから、寺院に「山号」が付けられるようになります。 栄西が創建した日本最初の禅寺・博多区の聖福寺(しょうふくじ)の山号は安国山です。ですから、正式には安国山聖福寺と呼びます。 山号が一般的になったことから、寺院の正門(南大門)は山門と呼ばれるようになり・・・寺院の規模、また建築様式の多様化によって、1階建ての小さな門から2階建ての楼門のような巨大な山門も生まれてきたのです。

 

神仏習合によって、神社のなかのお寺に仏教山門が造られるようになった・・・このあたりが、神社境内における山門(楼門)の始まりではないでしょうか?  鳥居よりも構造が複雑で大きいことから、清浄領域の最後の境として本殿と鳥居の間に建てられたのです。 

 

楼門とは・・・簡単に説明すると、山門の中でも、2階建てで1階部分の屋根がなく高欄が配されている門・・・そして寺院建築の名残として、三間一戸が一般的です。 寺院だと両側の間に、外敵や邪悪な者を防ぐ仁王様が立ちます。 神社の場合は警護員として随身像が置かれるのですが、香椎宮楼門の両側間には誰も居ません。 まあ、神功皇后応神天皇が祭神ですから、警護員がいなくとも無断で侵入して来る者は居ません・・・。

 

1階と2階とも屋根がある楼門は、現在は別のカテゴリーとして「二重門(にじゅうもん)」と呼ばれています。 「二重門」は山門のなかでの最高格式となり、先ほど紹介した栄西創建の安国山聖福寺の山門がそうです。

 

               聖福寺の山門(二重門)   

 

九州内で最も見応えのある楼門と言えば・・・筥崎宮楼門です。 

               筥崎宮の楼門

 

敵国降伏」の扁額を掲げ、どっしりと立つ楼門は、博多の町を敵から護り続けた英雄の姿を感じるのです。  あまりにも見事な構えなので、筥崎宮の主体的な建物(本殿)と勘違いされている人が多いですね。 直ぐ後ろに拝殿と本殿があるのですが、楼門に圧倒されて目立ちません。 筥崎宮楼門は、俗に言う「日本三大楼門」の一つです。 あとの二つは阿蘇神社(熊本県)と鹿島神宮(茨木県)です。

 

香椎宮に戻ります。 筥崎宮と異なって香椎宮の楼門は本殿との距離がありますから、神威(パワー)を感じるエリアが広いです。 途中にある「綾杉」もそうですが、「神聖なるたたずまい」と言う意味では、香椎宮には特別な「」が流れています。

                           

               

さて、香椎宮の楼門は明治36年(1903年)に建てられました。 天正14年(1586年)、薩摩の島津軍が侵攻して来た時に香椎宮が炎上していますから・・・再建された・・・と書かれているのですが、炎上以前の楼門については、記録がないのです。 香椎宮が炎上した時に、歴史を記した書物も燃えてしまったようだ。 

 

果たして島津軍の侵攻以前に楼門はあったのだろうか?  江戸時代に香椎宮を描いた2枚の絵図があります。

         寛政5年(1793年)筑前国続風土記附録

 

         文政4年(1821年)筑前名所図会

 

どちらの絵図にも本殿や綾杉は確認出来ます。 が休憩所前の三の鳥居です。 三の鳥居の後ろに楼門は描かれていません。 室町時代後期(島津軍侵攻以前)の絵図が無いので、楼門があったのかどうかは分かりません。 

うっちゃんは思うのです・・・島津軍によって炎上した香椎宮では、本殿の他に鳥居も再建されています・・・もしも、炎上前に楼門があったのならば、黒田のお殿様は江戸時代に楼門も再建している筈だ・・・。

 

ここからは100%うっちゃんの仮設です。 明治政府は日本を神の国として、天皇を頂点とする神道国家の成立を目指していました。 ナショナリズムを想起させるために、朝鮮半島出征を成功させた神功皇后武内宿禰の紙幣を発行するなど、二人を利用しました。 明治28年(1895年)、日清戦争に勝利して、ドンドン行け行けの時代です。 そんななか、香椎宮の立派な楼門が建てられた(再建?)のが明治36年・・・日露戦争が始まる明治37年の前年です。 天皇の勅使が参向される勅祭社全国に16社。 

              楼門扉に刻まれた菊の御紋

 

勅祭社の内の1社・香椎宮の威厳を高め、国威発揚のために巨大な楼門を建立した・・・。先の2枚の絵図のなかで印で記した場所に「護国寺」が描かれています。現在の「そば不老庵」と「香椎会館」辺りです。 明治初期の神仏離合で取り壊されています・・・その護国寺に山門があったのですが、それを大きな神門楼門として再建した、とも言えます・・・どうでしょう。

 

でも浪漫のない仮設ですね。 ここだけの話にしましょう。 桜の花の前で参拝者を迎え、お多福の面を通る幸せな参拝者を迎える・・・そんな参拝者を邪悪なものからお護りするために存在する楼門です。 通る時に感謝を忘れないように・・・。

 

 境内で幸福マークを探されている参拝者のために・・・この楼門にありますよ!

 

       

         

ハートマークがいっぱい! でも、これはハートではなく、仏教美術で使われれる「猪目模様(いのめもよう)と言う魔除けの模様です。 いや~これも浪漫がないな~。 やっぱり、これは幸せのハート模様です。         

 

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