神功皇后伝説(第一話)大和から香椎へ
 
神功皇后伝説 はじめにを、必ず先に覗いて下さい。
 
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● 時は西暦368年、大和朝廷は邪馬台国連合を引き継ぐ九州北部の諸豪族とは同盟を結び、支配下に置いていました。 ただ、九州中南部を勢力圏としていた熊襲(くまそ)だけが朝廷に反抗していました。
 
● 14代仲哀天皇は自ら大和朝廷軍を率いて熊襲征伐に向かいます。 仲哀天皇は背が高くガッチリした体格で、凛々しく男らしい顔立ちです。 仲哀天皇の父親は倭健命(やまとたけるのみこと)です。 倭健命も16歳で熊襲征伐に出掛け、大きな戦積を残しています。 仲哀天皇は父親に負けない働きを挙げるべき、密かに闘志を燃やしています。
 
● 仲哀天皇は神功皇后が「神の声(御神託)」を占える、などの神事能力を持っていること、また、九州遠征が長期になるかもしれないので同行させることにしました。 両陛下の良き相談相手である大臣の武内宿禰(たけうちすくね)も軍師としてお供します。 また、朝廷で代々祭祀を執り行う中臣家の長である中臣烏賊津(なかとみいかつ)も将軍としてお供します。
 
● 仲哀天皇が51歳、神功皇后は31歳のときです。 皇后は本名を息長足姫(おきながたらしひめ)と言い、24歳の時に仲哀天皇の妃として嫁ぎました。 聡明で美人。 父親は娘のあまりの美しさに、「本当に俺の子か?」と喜んでいたようです。 何故か、魚釣りが大好きだと記録に残っています。
 
● 仲哀天皇には先に側室がいて、成人した皇子もいます。 神功皇后は正室として、この7年のあいだ子供を授からないことを大変気にしています。
 
● 仲哀天皇と中臣鳥賊津(なかとみいかつ)は大和の兵を従え、船で瀬戸内海を南下します。 皇后と武内宿禰(たけうちすくね)は敦賀の気比宮(けひのみや)に立ち寄り、出雲の国で兵を徴集して日本海側から南下しました。 下関穴戸の豊浦宮(とようらのみや)で天皇と落ち合い、準備を整えて、共に関門海峡を渡ります。
 
● 天皇の船団は下関から響灘の山鹿岬を廻って「岡の水門」(芦屋の岡湊おかみなと神社)へ向かいます。 皇后と武内宿禰が乗った船だけは洞海湾から進んで行きます。
 
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● 皇后は湾の入り口で海底に光り輝く石を見つけ、引き揚げさせました。 
 
                   若松恵比寿神社
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綺麗な玉石でした。 海岸に祠を建て、湾を行き来する船の安全を祈願して、その玉石を奉納しました。 現在の若松恵比寿神社で、玉石は今でも本殿に祭られています。
 
皇后はこの時、祠の横に小松を植えられました。 武内宿禰が「青々たる海とを見て、わが心も」と詠ったことから、この地が「若松」となりました。 高塔山の山頂に、そのことが書かれた石碑が立っています。
 
● 皇后が洞海湾のコースを進んだ理由は黒崎の岡田神社に寄るためです。 皇后達が下船した場所が、現在北九州市の水質研究所がある「皇后崎(こうごさき)」です。 岡田神社は初代神武天皇が東遷のおり、立ち寄られた処です。 どうしても、この地で神武天皇の御霊(みたま)に戦勝祈願をしておきたかったのです。
 
● 洞海湾と遠賀川は、当時、水路で結ばれていましたので、折尾から遠賀川に入り「岡の水門(岡湊神社)」へ向かいました。 岡湊神社(岡の水門)は神武天皇が東遷の準備のため一年間滞在された処と言われています。 航空自衛隊芦屋基地の近くに神武天皇社がありましたが、昭和20年6月空爆を受け、ご神体は岡湊神社に移されています。
 
             岡湊神社                                                    神武天皇社
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 ● 岡の水門には未だ数隻しか到着していません。 軍船が多くて混雑しているうえに、波も高くてなかなか山鹿岬を廻りきれないのです。 祭祀担当の中臣鳥賊津は岡垣の祠に座していると言う二人の水の神様に祈りました。 すると波が収まり、残りの船も無事に到着できました。 この祠が現在の高倉神社で、今も二人の水の神様が祀られています。
 
● 岡の水門(岡湊神社)には熊襲討伐の命を受けた諸国の豪族が、軍隊を率いて既に集結していました。 その中に、志賀島と新宮を拠点に現在の福岡市東区を支配下に治めている阿曇(あずみ)氏の長(おさ)である阿曇磯良(あずみいそら)がいました。 阿曇氏は古代より朝鮮半島・大陸と民間レベルでの交易を幅広く行い、強力な水軍を有する海人(あま)族です。
 
● 天皇と皇后は集結していた同盟軍と共に陸路で橿日(かしい=香椎)へ向かいます。 武内宿禰阿曇磯良(いそら)と共に、仮宮(かりのみや)の造営と近辺地域の区画整理をするため、先遣隊を率いて先に出発しています。 日本で初めて軍隊の陣体系を取り入れたのは武内宿禰だと言われています。 武内宿禰が仮宮造営の地を香椎と定めたのは、この地を治める阿曇磯良の薦めがあったからですが、加えて、立花山七峰と多々良川を利用した防御面で最高の場所だと確信したからです。
 
● 途中、皇后が休憩のために笠をとって松の木に掛けた場所が、宮若の笠松(かさまつ)神社です。
 
● 赤間で川を渡るときに大好きな釣りを楽しまれました。 皇后はご飯ツブを餌にして、沢山のアユを釣りました。だから、この川は釣川と呼ばれるようになったのでしょうか? 
日本書紀には皇后がご飯ツブでアユを釣ったことが記されています。 但し、赤間の釣川ではありません。
 
                                    神功皇后 アユを釣って戦を占う   

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● 神功皇后が朝鮮半島へ出征、帰国後までの説話を絵画化したものを「八幡縁起絵」と言い、各地に残っています。 上は志賀海神社に残る「八幡縁起絵」の一部です。 皇后はこの時、アユ釣りをしながら熊襲との戦を占っていました。 皇后が占いながら釣ったアユの漢字は「魚に占う」で「(アユ)」となりました。
 
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● 山口八幡宮には皇后一行がこの場所で休憩したこと、その後、見坂峠から遥かに玄界灘を眺められた、と記録に残っています。
 
               山口八幡宮                                                                 熊野神社
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● 古賀莚内・むしろうち)に入ると、現在の熊野神社の地に寄ります。 ここにも神武天皇の足跡が残っています。 神武天皇が石に腰掛け、四方を展望した「御腰掛石」が残っているのです。 仲哀天皇神功皇后もその場所に莚(むしろ)をひいて戦勝を祈念されました。 地名の莚内(むしろうち)の由来です。
 
● 日本書紀に記されている「橿日(かしい)の宮」、これを「行宮(あんぐう=仮宮)」と言います。 つまり仮の皇居です。 現香椎宮の北東側に位置する「古宮跡」がその場所でした。
 
                                    古宮跡   
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● 武内宿禰の指示で大和朝廷の軍は仮宮に近い下原(しもばる)・和白(わじろ)付近に・・・各豪族の軍は新宮・古賀付近に駐留させました。 そして、阿曇磯良には香椎と和白の村造りを指示します。
 
 
神功皇后伝説第一話)大和から香椎へ」終わり  
 
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