私は広島と長崎に原爆が落とされた1945年(昭和20年)8月から1年と7か月過ぎた1947年(昭和22年)3月に生まれた。だから原爆投下後に生まれた世代だ。

 

 

 

 ・・・被爆79年目を迎えた広島市中心部。中央2棟の高層ビルあたりがJR広島駅。瀬戸内海に注ぎ込む7つの川と周りの緑の山が美しい街だ。右下に「広島カープ」の本拠地「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島」が見える。左下の緑は比治山公園。

 

 

 

 ところで、ロシアのプーチン大統領は1952年生まれの71歳、ウクライナのゼレンスキー大統領は1978年生まれの46歳。

 

 

 また、今秋アメリカの次期大統領を争う共和党のトランプ前大統領は1946年生まれの78歳で、民主党のハリス副大統領は1964年生まれの59歳だ。さらに中国の習近平主席は1953年生まれの71歳だ。

 

 

 またイスラエルのネタニヤフ首相は1949年生まれの74歳で、7月末に殺害されたハマスの最高指導者ハニヤ氏は1962年生まれの62歳だった。

 

 

 こうしてみると、今の世界の政治リーダーや現在も戦争、紛争を続けている主な勢力の指導者はみんな、広島と長崎に原爆が落とされた時は生まれてもいない。

 

 

 それだけの長い時間が流れたということだろう。

 

 

 

 

 

 

 ところで、8月になると毎年、私は「原爆の日」に関する思いを投稿してきた。

 

 

 それは平成の始め2年間ほど広島の街で暮し広島の方々にお世話になったからだ。この街にお世話になった者として、原爆の悲惨さを ”語り継ぐ小さな小さな責任がある” と思っているからだ。

 

 

 

 私のこのつたないブログでも、毎日100人前後の方々が見つけて読んでくださる。ありがたいことだ。

 

 

 その方々が、毎年私が投稿する「原爆の日」に関するブログに目にとめて読んでいただくことで、その小さな責任を果たそうと私は考えたのだ。

 

 

 

 

 

 

 7月6日の朝日新聞の「天声人語」は、そういった私の思いを後押ししてくれる話だった。

 

 

 少し詳しく書こう。

 

 

 6日の「天声人語」は、小説家で劇作家の井上ひさしさんが戯曲「父と暮せば」を書いた時の話を紹介している。

 

 

 原爆で亡くなった父が幽霊になって現れ娘の恋を応援する話らしいが、井上さんはこの作品のために膨大な資料を集めた・・・とある。

 

 

 井上さんは、この戯曲を書くために被爆者の手記を数百編も読んでノートに書き写したそうだ。

 

 

 「『これら切ない言葉よ、世界中に広がれ』と何百回となく呟きながら書いていました」。そうエッセーに残している・・・と、筆者である ”天声人語子” は紹介している。

 

 

 そして戯曲の最後で、父は自分の分まで生きろと娘を力づけながら言う。「人間のかなしいかったこと、たのしいかったこと、それを伝えるんがお前の仕事じゃろうが」

 

 

 “天声人語子” は、「・・・バトンを受け取ったのは娘であり、メディアで働く私であり、いまを生きる私たちである」と締めくくっている。

 

 

 

 この一年、広島や長崎の原爆に関する新しい出来事がとくに私の回りであった訳ではない。

 

 

 だから今年は、広島で仕事をしていた時の一番印象に残っている思い出を2021年の投稿に書いていますのでそれを再掲します。

 

 

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 私は平成3年広島の街に転勤するまで、原爆のことを深く学んだり考えたりすることはなかった。

 

 広島で働き始めた私は、当然のことながらお取引先を中心に、広島で生まれ育った高齢の方々と話を交わす機会が少しずつ増えていった。

 

 広島市は太田川の河口にできた三角州の上に広がる街で、天満川・元安川・猿猴川・・・といった7本の川が街中を流れている。

 

 着任して間もないある日、私はお取引先の社長に、「広島の街は、河川の両岸も遊歩道や公園になっていて、よく整備されたきれいな街ですね」 となにげなく話し掛けた。

 

 「いやー、広島の街は原爆でものの見事に焼き尽くされましたからねえ・・・」 と返ってきた。

 

 

( 現在と被爆直後の原爆ドーム。被爆当時は広島県産業奨励館。現在は元安川をはさんで対岸に平和記念公園が広がる。奥の横長の建物が「広島平和記念資料館」。その前に慰霊碑が見える。)

 

( 右上部に見える似島の安芸小富士は、上の現在の写真でも左上に見える。)

 

 

 その時の私の頭の中には、広島の街に45年前に起きた悲惨な出来事の知識はあったが、現実に広島の街にお世話になりながら、意識の中にそのことがストンと落ちていない自分が恥ずかしくなった。

 

 それ以降私は、広島の街が戦後焼け野原から再興された ”美しい街” であることを口にすることはなかった。

 

 

 またある日、広島随一の商店街・本通りに構える老舗紙店の社長からは、戦中戦後の広島の方々の大変なご苦労を教えていただいた。

 

 その後もお伺いするたびに高齢の社長は、原爆以降の広島の経済人たちの苦難の歴史を話してくださった。

 

・・・「原爆反対だけでは、飯は食えていけんのじゃけえ!」  

・・・「いやっ、広島はやっぱり原爆反対を言い続けんといけん! じゃろ?」 

 

 みんな原爆反対では同じ気持でも、広島復興への兼ね合いで時には対立し、時には手を組んで今の広島の街を作り上げてきた・・・・・と話してくださった。

 

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 さて、現在パリではオリンピックが開催され、7日からは阪神甲子園球場で第106回全国高校野球選手権大会が開幕した。

 

 

 一見平和に見える景色だが、同時にパリからわずか2000㎞離れたウクライナ・ロシア国境ではまだ戦争が続いているし、東に3300㎞離れたガザ地区ではイスラエルの空爆で毎日多くの市民が亡くなっている・・・

 

 

 ちなみに我が国の最北端から最南端までの距離も約3000㎞。その距離の中でスポーツの平和の祭典であるオリンピックと殺し合いの戦争・紛争が同時に存在しているということだ。

 

 

 

 われわれ人間は、自分たちの抱えるさまざまな課題や矛盾を解決する知恵と力を果たして持っているのだろうかと気持ちが暗くなる・・・

 

 

 

 79年前、広島と長崎という日本のふたつの美しい街で、一瞬にして20万人を超える死者や多数の重傷者を出し、その後も後遺症の苦しみを与え続けている原爆を廃絶し、「核無き世界」をいまだに実現できていない私たち・・・

 

 

 

 だからこそ諦めずに、井上ひさしさんが戯曲を書きながら「・・・これら(注・被爆者の)切ない言葉よ、世界中に広がれ」と呟き、戯曲の中で「父」に「人間のかなしいかったこと・・それを伝えるんがお前の仕事じゃろうが」と娘に言わせたように、79年前に私たちの国で起きたむごすぎる出来事を伝えつづける、語りつづけることが必要なのだ。

 

 

 

 最後に6日に行われた平和記念式典での広島市長の「平和宣言」の一部(要約)をご覧ください。

 

 

 「・・・心を一つに行動を起こせば、核抑止力に依存する為政者に政策転換を促すことができるはずだ」

 

 

 

( 79年目の広島市中心部。中央を貫く緑の通りは「平和大通り」)

転出超過、全国ワースト10に中国地方3市 広島市は3番目の多さ | 中国新聞デジタル

 

 

 

(ご参考)過去3年分の「原爆の日」関連の投稿です。枠内をクリックすれば開きます。よろしかったらお読みください。

 

 

( 2023年8月9日投稿「『被爆の実相を自分の目で見て下さい、自分の耳で聞いてください』・・・原爆投下から78年に思う」)

 

 

 

 ・・・2023年度の平和記念資料館(原爆資料館)の入場者数は過去最高の198万人。うち外国人は34%の67万人でこれも過去最高。広島サミットが開催された年とはいえ、入館者の3人に1人が外国人という数字は、被爆地・広島への関心、平和への意識が高まっていることを感じさせます。

 

 

 ・・・2022年投稿の下記ブログは、広島に来ても同館に入ることなく過ごす方もいるなか、「資料館を見るのが恐ろしいから、修学旅行に行きたくない」と言っていた小学6年生の女子児童が、勇気を振り絞って展示を見た感想が題材の投稿でした。

 

( 2022年8月4日投稿「”でも・・見たことがない人は見ておいた方が良いと思った”~8月6日、原爆投下の日に思う」)

 

 

 

( 2021年8月12日投稿「『 ”ダメだ、ダメだ” と言い続ける』・・・原爆投下76年に思う」

 

 

 

(注)写真はすべてNHKTVとネットからお借りしました。ありがとうございました。