コロナ禍の東京で開催された五輪たけなわの8月6日、広島の街が、そしてその五輪が終わった翌日の8月9日、長崎の街が76回目の原爆投下の日を今年も迎えた。

 

 

 私は平成3年広島の街に転勤するまで、原爆のことを深く学んだり考えたりすることはなかった。

 

 

 広島で働き始めた私は、当然のことながらお取引先を中心に、広島で生まれ育った高齢の方々と話を交わす機会が少しずつ増えていった。

 

 

 広島市は太田川の河口にできた三角州の上に広がる街で、天満川・元安川・猿猴川・・・といった7本の川が街中を流れている。着任して間もないある日、私はお取引先の社長に、「広島の街は、河川の両岸も遊歩道や公園になっていて、よく整備されたきれいな街ですね」 となにげなく話し掛けた。

 

 

 「いやー、広島の街は原爆でものの見事に焼き尽くされましたからねえ・・・・・」 と返ってきた。

 

 

 

( 現在と被爆直後の原爆ドーム。被爆当時は広島県産業奨励館。現在は元安川をはさんで対岸に平和記念公園が広がる。奥の横長の建物が「広島平和記念資料館」。その前に慰霊碑が見える。)

 

( 右上部に見える似島の安芸小富士は、上の現在の写真でも左上に見える。)

 

 

 

 私の頭の中には、広島の街に45年前に起きた悲惨な出来事の知識はあったが、現実に広島の街にお世話になりながら、意識の中にそのことがストンと落ちていない自分が恥ずかしくなった。それ以降私は、広島の街が戦後焼け野原から再興された ”美しい街” であることを口にすることはなかった。

 

 

 

 またある日、広島随一の商店街・本通りに構える老舗紙店の社長からは、戦中戦後の広島の方々の大変なご苦労を教えていただいた。その後もお伺いするたびに高齢の社長は、原爆以降の広島の経済人たちの苦難の歴史を話してくださった。

 

・・・「原爆反対だけでは、飯は食えていけんのじゃけえ!」  

・・・「いやっ、広島はやっぱり原爆反対を言い続けんといけん! じゃろ?」 

 

 みんな原爆反対では同じ気持でも、広島復興への兼ね合いで時には対立し、時には手を組んで今の広島の街を作り上げてきた・・・・・と話してくださった。

 

 

 私は広島にお世話になった2年間、広島を訪ねてきてくれた家族や友人知人を 「広島平和記念資料館(原爆資料館)」 にできるだけ案内した。また戦争の悲惨さを知るという観点から、江田島の海上自衛隊第1術科学校内にある旧海軍兵学校の資料館(教育参考館)も見学するよう薦めた。そして回転特攻隊員として散っていった若い隊員たちの遺書や遺品を見てもらった。私自身初めて旧海軍兵学校の資料館を訪れた時、故郷の 「知覧特攻平和会館」 を訪れた時と同じ衝撃をうけたのを覚えている。

 

 

 さて、今日のブログのタイトルに使わせていただいた 『 「ダメだ、ダメだ」と言い続ける 』 は、8月9日の長崎市の平和祈念式典で読み上げられた 「長崎平和宣言」 の中に引用された言葉である。

 

 

( 8月10日の朝日新聞。顔写真は手記を書かれた小崎登明さん。)

 

 

 

その一部を転記しておこう。

 

 今年一人のカトリック修道士が亡くなりました。「アウシュビッツの聖者」と呼ばれたコルベ神父を生涯慕い続けた小崎登明さん。93歳でその生涯を終える直前まで被爆体験を語り続けた彼は、手記にこう書き残しました。

 

 世界の各国が、こぞって、核兵器を完全に『廃絶』しなければ、地球に平和は来ない。

 

 核兵器は、普通のバクダンではないのだ。放射能が持つ恐怖は、体験した者でなければ分からない。このバクダンで、たくさんの人が、親が、子が、愛する人が殺されたのだ。

 

 このバクダンを二度と繰り返させないためには、『ダメだ、ダメだ』と言い続ける。核廃絶を叫び続ける・・・・・

 

 

 

 ところで、会津藩には1803年「日新館」という藩校が創られています。そして入学前の6歳から9歳の子どもたちには、「什(じゅう)の掟」 とよばれる ”会津武士の子はこうあるべき” という心得がありました。「什(じゅう)」 とは10人程度のグループのことですが、すべての 「什(じゅう)」 に共通する心得として掲げられているのが 「ならぬものはならぬ」 という掟だったそうです。

 

 

 私は、今回この小崎さんの 『 「ダメだ、ダメだ」と言い続ける 』 という言葉を知って、ああ、会津藩で教えた 「ならぬものはならぬ」 と共通する言葉だなあと感じました。

 

 

 今年1月に発効したものの、我が国が参加していない「核兵器禁止条約」には今日は触れませんが、国として、訴える相手が同盟国か否か、仲の良い国か否かを問わず、全世界に向けて 「ならぬものはならぬ」 と一歩も譲らない主張を続けている分野を我が国は持っているでしょうか。

 

 

 すべての細かい計算や駆け引き、忖度を捨て、愚直に 「ならぬものはならぬ」 「ダメなものはダメ」 と言い続ける・・・・・原子爆弾を戦争で落とされ、悲惨な被害を受けた唯一の国として、『核廃絶』 こそ愚直に主張し続けるべきテーマではないでしょうか。

 

 

( 現在と被爆直後の長崎市・浦上天主堂。)

 

 

 

 

 最後に大学時代のクラス仲間で長崎市の出身だったM君の話をしよう。

 

 

 私自身は学生時代、M君とは深い付き合いはなく今も交流はない。ただ、大学時代のクラス会のサイトを作り管理してくれているYさんが、数年前M君に関する近況とともに、ある記事を載せてくれたことで彼のことを知った。10数年前に 『 あなたが伝える「明日への伝言板」』 という人権作文募集かなにかにM君が投稿した 「被爆二世として生きる」 という文章だった。私はその文章で彼のご両親が被爆されていたことを初めて知った。

 

 

 8月9日、私はそのM君の文章を読み返していた。

 

 

 その文章の中で、M君は結婚を約束していた彼女(奥様)に、自分が被爆二世であることを明かす場面から書き始め、ご両親や自分自身が被爆者、あるいは被爆二世として苦しんできたこと、考え続けてきたことを書き綴ったあと、最後を次の文章で閉じていた。

 

 

 ”・・・・・被爆二世は被爆者の子として原爆という宿命を負う者として捉えられるだけのものではない。心身深く傷ついた被爆者にとって生きる希望の象徴でもあった被爆二世は、いのち をやさしく深く見つめることができる人間として生きることができる者でもあろう。私は差別や偏見の中で苦しみと悲しみを生きる人とともに生きていこうと思ったのだ・・・・・”

 

 

 M君は74歳の今も、原爆被害者団体の仕事をしており、海外にも出掛けて核廃絶を訴えている。頭が下がる。

 

 

 そういえば、先日 「長崎平和宣言」 を読み上げた田上富久長崎市長は、私たちの大学の11年後輩にあたる。福岡市箱崎の同じ法学部の旧キャンパスで学んでいる。

 

 

 ・・・・・戦争が終わって1年半が経った1947年3月に生まれ、今年74歳になってしまった私だが、あらためて広島や長崎の原爆や、核廃絶への関心をもう少し深めたいと思った夏になった。

 

 

 

( 現在の長崎の街。周りを山が囲む地形は広島もよく似ている。 )

 

 

( 注:新聞記事以外の画像はネットからお借りしました。感謝。)