今週のタイトルは読書感想文のそれだが、具体的感想は来週投稿することにして、今週の(前編)では、著者である頭木さんの紹介をしたい。
頭木弘樹さん。姓は「かしらぎ」と読む。
私のこの拙いブログに登場いただくのは3回目である。といっても頭木さんには申し訳ないが、私の周りの人はひとりとして彼のことを知らない。「その人、誰?」と言う。
( 頭木弘樹さん )
まず頭木さんの紹介をしておこう。といってもWikipediaをスマホで開くと、「紹介」で2行、「経歴・概要」で9行の書き込みだけである。
ここはタイトルに書いた彼の初のエッセイ集「口の立つやつが勝つってことでいいのか」に掲載された紹介を転記しておこう。
文学紹介者。大学3年の20歳の時に難病(潰瘍性大腸炎)にかかり、13年間の闘病生活を送る。そのときにカフカの言葉が救いになった経験から『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社/新潮文庫)を編訳。著書に『絶望読書』(河出文庫)、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)、『食べることと出すこと』(医学書院)、『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』(ちくま文庫)、『自分疲れ』(創元社)など。NHK「ラジオ深夜便」の「絶望名言」のコーナーに出演中。
職業は「文学紹介者」という聞いたこともない職種。著書を眺めてもこの人は果たして何を書きたいのだろうと不思議に思ってしまうタイトルが並ぶ。ちなみに頭木さんは1964年生まれの現在60歳。
「文学紹介者」という職業名を名乗っている人が他にいるのか調べていたら、2022年3月2日に「ねこやなぎ」さんが投稿したブログ「文学紹介者という仕事」にぶち当たった。そこに次のようにあった。
私がこの方(注:頭木さん)を知ったのは、2018年4月23日のラジオ(注:NHK「ラジオ深夜便」の「絶望名言」コーナー)であった・・・・人はみな、孤独と絶望の中で生きている。20歳で将来への希望を失い、辛く苦しい闘病生活を送った著者だから、人間の弱さと痛みを知っている。医療の進歩と手術により食事制限はあるが普通の生活ができるようになり、自分が読んで救われた本を紹介する。
なんだかすごく明るい気持ちになれた。絶望を語っているのに頭木さんの話を聴きたいと思った・・・・
かくして文学紹介者のすすめる本を読まない読者は、カフカもドストエフスキーも読まずに、文学紹介者自身の言葉に救われた。あの日の偶然がなかったら、私は今も孤独の殻の中でもがいていただろう。
頭木さんの不思議な職業「文学紹介者」がぼんやり見えてきたような気がした。
先ほど私のブログに今回で3回目の登場と書いたが、2年前最初にご紹介したブログを再掲しておきます。
私は朝日新聞の小さなコラムで読んだ頭木さんの短い言葉に打たれた。その言葉は私が75歳になった日の新聞に掲載されていた。
それは75年も生きてきて初めて接した視点、見方でした。その言葉を新鮮に感じた思いを書いたのが下記ブログです。
(2022年6月16日投稿 『75歳、時々ふと考える。・・・「折々のことば」より』 枠内をクリックすれば開いてお読みいただけます。)
このブログの中で紹介した頭木さんの言葉です。
『人生を振り返って、「あれをやった」と感慨にふけるのもいいが、「あれをやらなかった」と誇りにするのもありだと思う』
この言葉を新聞のコラムで読んだ時、私は 「・・・少し驚くとともに、どこか励まされたような気になった」 と書いている。
このブログはちょうど2年前に投稿したものだが、今でもコンスタントにアクセスがあり多くの方に読まれている。
私のブログの読者は3分の2が60歳以上の方々だが、自分の人生を顧みる時、頭木さんのこの言葉に励まされている人が多いということだろう。
ところで、前出の「ねこやなぎ」さん同様、私も頭木さんのことを知ってもカフカを読んでみようか・・・という気持ちにはならなかった。
2年前のブログで取り上げたように、今まで自分が考えたこともなかった視点や角度から物事を静かに見ている頭木さん自身の言葉にもっと触れたい・・・という思いが強くなっていた。
そう思っていた今年の2月に、この本「口の立つやつが勝つってことでいいのか」が出版されたのだ。新聞で知りすぐ購入したのは言うまでもない。
ここで頭木さんの視点、考え方を、私の好きなラグビーのプレーに例えよう。
なかなか突破できない相手の防御ラインを「スパン!」と突破できる時がある。それはボールを持っている選手が、守備をしている相手選手の視界に入らない角度から走り込んできた味方の選手に素早くパスすると、ボールを受けた選手への相手の守備が一瞬遅れる。すると相手の防御網の裏側にスパッと抜ける時があるのだ。
頭木さんの視点、見る角度はそうしたラグビーのプレーによく似ていて、我々の社会や私たち個人がなかなか抜け出せない何かモヤモヤっとした壁を、突き破ってくれそうな見方や考え方を暗示してくれているような気がしてならない。
2回目は今年の3月に登場いただいた。下記ブログのタイトルにある島田潤一郎さんの著書の「解説」を書いたのが頭木さんだ。ブログの中で私は、頭木さんの解説ならなおさら読みたくなった・・・と書いている。
島田さんを評した ”残像のいい人” という言葉も頭木さんの表現だ。彼はそれまで一度しか話したことのなかった島田さんから「解説を書いてほしい」という依頼を受けている。
”残像のいい人” 同士で気が合ったのだろう。
(2024年3月14日投稿 『”残像のいい人”(その1)・・・ちくま文庫『あしたから出版社』を書いた島田潤一郎さんのこと』)
さて、頭木さんの初のエッセイ集「口の立つやつが勝つってことでいいのか」は、そのタイトルを見ただけで本の内容が見えるような気がする。
おそらく著者は「・・・そういうやつが勝つってことではいけませんよね」と言っているのだろうな・・・と。
しかし、読んでみるとそう単純な読後感は無かった。
ひょっとしたら我々が、いや世界の多くの分野で現在行き詰っている最大の理由は、「口の立つやつの意見だけが通って、行政も企業も、他のさまざまな組織もそいつの意見にだけ基づいて運営されているからではないか・・・」 と思わされるのだ。
要するに口の立つやつの意見というのは、実際の姿のホンの一部しか伝えていないし、場合によっては実態を歪んで伝えているから、成果に結びつくはずがないということだろう。
今では77歳になってしまった私が、67歳まで働いてきた5つの会社はどこも 「口の立つやつが優秀で仕事ができる」「テキパキと物事を判断し引っ張っていくやつを評価する」 組織だったといえる。
私自身の人間観は別にして、組織内での私の人物評価、部下評価も間違いなくそうだった。
そこに突き付けられた頭木さんの言葉の一例が次のページだ。
この文章は・・・
『言葉にできない思いがありますか?』 という章の
「理路整然と話せるほうがいいのか?」 に出てくる
”スープのなかの言葉たち”
というエッセイです。
来週はこの文章を中心に私が感じたことを書いてみよう。
じつはもう77歳になっているから、その間違いを指摘されても、残念ながら今までの自分の失敗を埋め合わせることはできない。また、頭木さんにこの本で教えてもらったことをこれから実践に移す場もほとんど無い。
しかしこの本を読んで、自分の現役時代の思い込みの強い行動を指摘され、自身のこれまでを少し修正できたこと、自分の来し方を正確に見つめ直せたことを感謝したいと思っている。
だから、もう組織に属することの無い77歳にとってもこの本は面白い本だった。
( 10日ほど前に撮った近所の庭に咲くユリ。「活けたのか!」と一瞬思ったほど見事な配置と色合いだった。)
(注)本の表紙とページ、最後のユリの花以外の写真はネットよりお借りしました。ありがとうございました。