先月、福岡に住む若い頃からの親友が逝った。4月に75歳になったばかりだった。

 

 

 

 私とまったく異なった人生を歩んできた彼とは、お互い21歳になった頃、教会で知り合った。今日は詳しくは書かないが、彼は小さい頃から身体に障がいを持っていた。

 

 

 

 こうした昔からの親友に先立たれたり、自分が年を取り節目となる年齢に来ると、ふと考えることがある。

 

 

 

 若い頃、いや還暦の頃までは決してそうしたことはなかった。それは、自分のこれまでの来し方を思い出しながら、今までの人生を振り返えることだ。

 

 

 

 ここまで書いて3年前に投稿したあるブログを思い出した。

 

 

 そのブログのタイトルは、2019年5月3日に投稿した 『18歳から54年間、付き合ってきた友人に先立たれて考えたこと』 だった。その中で、自分の死期を悟ったその友人が発した言葉を書き留めていたのを思い出した。その部分を転記しよう。

 

 

 ・・・・・ひと月前の電話で、彼が弱々しい声で発した言葉を思い出した。

 

 「香椎君、同じ鹿児島の田舎から出てきて、ここまで頑張ってきたから、まあ、良かあねどか (注:鹿児島弁で「良しとしようよ」)」

 

 ここまでの自分の人生を肯定したい、それを友人にも頷いてほしいということだったのだろう。

 

 若い頃、私たちは東京で働いていた。彼が日本橋で私が大手町で勤務していた時期もあり、時々会っていた。その時も 「鹿児島弁しか話せなかった田舎モンの俺たちが、東京のど真ん中で働いているんだから、面白いもんだなあ」 と笑いあったことがあった。

 

 その若い頃の思い出も手紙に書いた。その中で私は、都市銀行から証券会社に転じ国内外で大活躍した後、子会社の投信会社のトップをつとめた彼のサラリーマン人生を讃えねぎらった。

 

 年を取ってくると、それまでの自分の人生を肯定したくなる。なにも輝かしく、華々しいものでなくても、また偉くならなくても、大きな資産を蓄えられなくても、「自分なりに全力を尽くし、他人様に迷惑をかけず、後ろ指をさされることのない人生だった」 と思いたいのだ・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、私は朝日新聞を取っているが、社説や論説記事はまず読まない。必ず読むのは社会欄、スポーツ欄に加え、1面に掲載される「折々のことば」「天声人語」、さらに投書・投稿、書評記事などだ。

 

 

 

 その「折々のことば」に紹介された短い言葉に心惹かれた時は、切り抜いて保存している。

 

 

( 2018年掲載分から保存している。ネットでも読めるのだが有料だ。雨などで何もすることのない午後、時々取り出してパラパラめくり読み返す。)

 

 

 

 今年の3月19日に掲載されたのが下の言葉だ。たまたま私の誕生日に掲載された言葉だが、「そうか、自分の人生に関し、そうした振り返りはしたことがなかったなあ・・・」と少し驚くとともに、どこか励まされたような気になった。

 

 

 

 

『 人生を振り返って、「あれをやった」と感慨にふけるのもいいが、「あれをやらなかった」と誇りにするのもありだと思う 』  頭木弘樹(かしらぎ ひろき)

 

 

 

( 2022年3月19日付け 「折々のことば」より。)

 

 

 

 この言葉は、”文学紹介者” という珍しい ”職業名” で紹介されている 頭木弘樹さん(58歳)が、2月28日にツィッターで配信した中の言葉とある。

 

 

 本当はこの言葉を発した頭木さんの人生を知ることも必要なのだろうが、ここでは6年前、産経新聞に掲載された記事の中から、簡単な紹介を転記するにとどめる。

 

 

・・・筑波大学3年生の時、就職も大学院進学も諦めて親に面倒を見てもらいながら一生を送るしかないと医師に宣告される。病気は絶えず下血に襲われる難病「潰瘍性大腸炎」。それから13年間、絶望の闇の中で入退院を繰り返しながら過ごした。その時期に頭木さんの支えとなったのは、カフカやドストエフスキーの絶望の文学だった・・・・・

 

 

 

 「折々のことば」の選者でコメントを執筆する鷲田清一さんは、頭木さんの言葉に次のように説明を添えている。

 

 

 私たちはつい「何をしたか」で人を評価するが、「何をしなかったか」もじつに大切だと ”文学紹介者” は言う。例えば「傷つけなかった、人の上に立とうとしなかった、差別しなかった、欲に溺れなかった」というふうに。これだけは絶対すまいと、人としての矜持(きょうじ)を守り通すだけでも凄いことだ。

 

 

 

 

 ( 6月15日、中学時代の友人がフェイスブックに投稿した「月下美人」の写真を4枚お借りしました。添えられた説明には「昨夜は義兄宅で、月下美人の花と香りで一杯! ご馳走になりました」とあった。なんと豊かな故郷の初夏の夜なんだ・・・と羨ましくなりました。約1時間半で満開になり翌朝には萎むという。)

 

 

 

 

 

 私は22歳から67歳までの46年間、出向した会社も1社とカウントすれば、5つの会社で働いてきた平凡なサラリーマンだった。そのうち最も長く勤務した銀行は直接モノをつくる商売ではなく、おカネを通じてサポートする商売だったから「これは私がやったモノ、私が作った仕組みです」とお示しするモノを持たない。

 

 

 

 おもしろい思い出がある。

 

 3番目の会社での話だ。”サブコン” と呼ばれる建設業の会社だった。ある日、部下と一緒に営業で都内を走っていたら、35歳くらいの部下が運転しながら言った。「香椎さん、あそこに見えるあの高いビル、私が携わったビルですよ」 彼の横顔と声にはどこか誇らしげな雰囲気があった。「30歳の頃 ”現場代理人” として電気設備関係の工事をすべて仕切りました・・・」と説明してくれた。私はその頃50歳を過ぎていたが、彼のような仕事の成果を具体的に見せることも説明することもできなかったので、少し羨ましい気持ちになったことを覚えている。

 

 

 

 「あれをやった」ということがない私のような者にとっては、頭木さんのこの言葉は、先にも書いたように 「君は特に残したモノはないけど、人として絶対やってはいけないことを今まで守り通したという事実は輝いているよ」 と、そっと励ましてもらった気持ちになる。

 

 

 

 しかし、そうした守り通したことを実際に探してみると、私など実に心もとない。今ではハラスメントと指摘されるような言葉を口にし、様々な欲に振り回され、知らず知らずのうちに差別をしていたかもしれない。私が守り通したことで残ったものは、「人の身体を傷つけなかったこと、人の命を奪わなかったこと・・・」ぐらいしかない。

 

 

 

 それでも、自分にもなんとか人として守り通そうと努力をしてきたことがある・・・と思えるのであれば、自分の中でそれまでの人生をいくらか前向きに自己評価できるような気がする。そういう意味でこの言葉は励ましてくれるのだ。

 

 

 

 私と異なり、多くの人は子どもの頃からの行いで続けてきた ”よいこと”、心がけの中でずっと守ってきた ”やってはいけないこと” をお持ちだろう。

 

 

 

 大人になると、さまざまな組織の中に組み込まれて自由がきかなくなったり、あるいは、図らずも身体的あるいは経済的制約に囲まれてしまうことがある。それによって、若い頃「やりたい!」と思っていたことを断念せざるを得なかったり、挑戦する機会すら奪われることも多々ある。

 

 

 しかし、そうした制約のある中でも、「これだけは絶対すまい、やるまい」と自分の中で決めたことは、自分の意思で頑張れることが多い。

 

 

( 開花した月下美人。花言葉は「艶やかな美人」「はかない恋」、さらに「秘めた情熱」「強い意志」とあった。)

 

 

 

 

 

 さて、私が学生時代から傾倒し、その著書をよく読んできたキリスト教の独立伝道者・内村鑑三(1861年~1930年)に「後世への最大遺物」という小さな本(講義録)がある。

 

 

 

 

 

 内村鑑三は、遺すべきものとして 金、事業、思想・・・と挙げていきながら、次のように書いている。

 

 

 ・・・事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、ものを教えることもできない。そうすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えてしまわなければならぬか・・・・・しかれども、私はそれよりももっと大きい、今度は前の三つ(香椎注:金・事業・思想)と違いまして、誰にも遺すことのできる最大遺物があると思う・・・それは何であるかならば 『勇ましい高尚なる生涯』 であると思います。

 

 

 

 ここにもう一冊107ページの小さな本がある。その本のタイトルは、その『勇ましく高尚な生涯』だ。

 

 

 


 

 

 

 竹脇真理さんという、18歳で天に召された麻布高校生の手記である。

 

 

 この本のタイトルは、短い生涯での彼の生きざまや闘病生活を近くで見てきた学友や信仰の仲間が、「彼の生涯はまさに ”勇ましく高尚な生涯” だった」と話していたことで付けられたようだ。竹脇さんも彼の信仰仲間も、内村鑑三の「後世への最大遺物」を読んでいたのだろう。

 

 

 私より4学年上の竹脇さんは、内村鑑三の弟子で自身も東大総長をつとめながら伝道者としても活動された、矢内原忠雄のもとで信仰を高めた。年配の方ならご存じの俳優・竹脇無我さんの弟さんでもある。

 

 

 

 

 私は今回、竹脇さんのその手記を読み返しながら、彼は18年間の短い生涯ながら、そのなかで「やったこと」「やらなかったこと」を、周りの友人たちや家族、知人らに強く印象付けていたのだということをあらためて感じた。

 

 

 

 最後にもう一度、頭木さんの言葉を記載しておこう。

 

 

『 人生を振り返って、「あれをやった」と感慨にふけるのもいいが、「あれをやらなかった」と誇りにするのもありだと思う 』  頭木弘樹(かしらぎ ひろき)

 

 

 

 

( 3年前、埼玉西武ラインズの応援に行った時、「ところざわのゆり園」から買ってきた黄色いユリが、毎年この時期、我が家の狭い庭に咲く。)