“残像のいい人”
人の印象を表す言葉で私など使ったことのない言葉だ。しかし、なんとなくその雰囲気は伝わってくる。
”余韻” でもなく ”後味” でもない。ましてや ”余情” でもなく ”残響” でもない。
この言葉を、島田潤一郎さんの著書『あしたから出版社』の解説の中で使ったのは、文学紹介者・頭木(かしらぎ)弘樹さんだ。
その「解説」の中で、頭木さんは次のように書いている。
・・・こうして、おこがましくも文庫の解説を書かせていただいたが、じつは島田さんとは一度しかお話したことはない。国分寺でのトークイベントに島田さんが出演されたときに、また私は客として聞きに行ったのだ・・・・・たまたま帰る方向が同じだったので、電車に座って二十分くらい、二人だけでお話することができた。
何をしゃべったか、まったくおぼえていない。でも、心地いい印象が残っている。これも山田太一が『月日の残像』(新潮文庫)というエッセイ集で書いていることだが、人が人にまた会いたくなるのは、その人の「残像のよさ」のためなのかもしれない。
島田さんはまさにそういう、残像のよさのある人だ。
私は本を読むとき、よくあとがきや解説を先に読む。島田さんの本を読む前に、解説を頭木さんが書いていることを知り、この本は間違いないな・・・と思ってしまった。
「頭木さん」となれなれしく書いているが、じつは頭木さんが2年前、当時のツイッターでつぶやいた ”短い言葉” を新聞のコラムでたまたま知り、このブログで以前紹介しただけの関係だ。
その紹介したブログの投稿から1年9か月経つが、頭木さんの ”短い言葉” に励まされるのかアクセスが絶えない投稿になった。おそらく私と同世代の方々にお読みいただいているのだろう。このブログの最後に添付していますのでよろしかったらお読みください。
上に書いた通り、頭木さんとの接点はその ”短い言葉” だけだが、ご本人の言葉を借りていえば、私にとっては頭木さんも “残像のいい人” である。
さて、前置きが長くなったが、その “残像のいい人” の話を始めよう。
島田潤一郎さん。
1976年(昭和51年)高知県生まれ。東京育ち。日本大学商学部会計学科卒業。大学卒業後、アルバイトや派遣社員をしながら小説家を目指していたが、方向転換。2009年9月に出版会社・夏葉社を東京の吉祥寺で創業・・・(カバー掲載の著者プロフィールより)
このブログでは『あしたから出版社』を引用しながら、島田さんが ”ひとり出版社” を創業した経緯や思いを紹介し、次回は本を出版するという仕事に取り組む島田さんのこだわりというか、大切にしていることを伝えられたらと願っている。
この『あしたから出版社』には、島田さんの子どもの頃からの本屋さんや本との接点を紹介しながら、“ひとり出版社” を起業し奔走する様子が書かれている。
巻頭に書いた「はじめに」を、島田さんは次の言葉で始めている。
(茶色の文字の部分が著書からの引用)
とても生きにくい世の中だと思う・・・
特にぼくのように若い頃にちゃんと働いてこなかった人間にとって、社会は全然やさしくない・・・
あなたが好きでやってきたんでしょう? 責任とりなさいよ。ずっと、そういわれ続ける。すくなくとも、そういわれ続けている気がする・・・
一度レールから外れてしまうと、社会は、まったくといっていいほど、ぼくのことを信用してくれないのだった・・・
こういう経験をしてきたのは、きっと、ぼくひとりじゃないはずだ・・・
島田さんは私の次女と同じ年の生れで、長女の3学年下だ。いわゆる就職氷河期世代だ。
大学を卒業しても就活はせず、小説を書き読書ばかりしていたとある。そして27歳から正社員と契約社員の仕事をいくつか一生懸命やるが、自己都合で退職してしまう。しかし、自分の未来のために新しい仕事をさがし続ける。そして・・・
・・・ケンが死んだのは2008年の4月6日で、山桜が満開だった。
ケンというのは高知・室戸に住む彼の従兄で、島田さんは彼より6か月だけ遅れて生まれた。東京で育った島田さんだが、夏休みなど高知に遊びに行くと、室戸の海や山でケンと一日中ずっと一緒に遊んでいたと書いている。
そしてケンの両親、すなわち島田さんの叔父叔母は自分の息子のように島田さんをかわいがってくれたという。しかし、ケンは事故で32歳という若さで亡くなる・・・
「仕事を探す日々」
ボクは31歳の、職能も、経験もない、ひとりの無職者であった・・・27歳から正社員と契約社員の仕事をいくつかやったが、どれも長続きせずに、自己都合でやめた。
(香椎注・32歳だった従兄・ケンの葬儀を終えて・・・)室戸から東京に戻ったぼくは、毎日・・・インターネットで仕事を探した・・・お前は要らない、といわれ続けながら、毎日、毎日、履歴書を書いている・・・
たしかに、時代は便利になった・・・
でも、いまのぼくには、それが耐えがたいほどに苦痛だった。情報にひとしく触れることができるばかりでなく、自分からかんたんに情報発信もできるということは、自分がいかに無能で、役立たずで、孤独かということを思い知らされるということでもあった・・・
結局、ぼくは、転職活動をはじめてから8か月で、計50社からお断りのメールをもらった・・・
人生が真っ暗だというのは、こういうことなのだ、と思った。
ひと月ほど前に「世代論」をテーマにしたブログを投稿したが、島田さん世代のこうした悲惨な就職活動の様子を聞いたり見たりすると私は心苦しくなる。
私は敗戦直後に生まれ、子どもの頃はまだまだ貧しい日本だったが、高度成長期に育ちそして就職、バブル期と ”失われた20年” を経て現役を終えた世代だ。その中で上の世代の先輩たちと一緒に汗を流し頑張って作ってきた・・・と思っていた社会は、中身の薄いすさんだ社会だったという反省があるからだ。
それは低成長という停滞した社会、すっかりはびこった儲け本位・カネ本位・効率優先の考え方と、それに起因するさまざまな国民へのしわ寄せだった。
そのしわ寄せが一番厳しく現れた場所のひとつが、若い人たちの就職環境だった。
「なにかをはじめよう」
(香椎注・年末に母と一緒に行った、ケンの墓が建った室戸から・・・)東京に帰ると、不思議と気持ちがすっきりしていた。転職活動をするつもりはもうなかった。やろうにも、身体もこころも動かなかった・・・社会の多くの人と同じような働き方は、とりあえずあきらめた・・・
いつ、どのタイミングだったのかは覚えていない。けれど、ぼくはある決断をした。ぼくは叔父と叔母のためになにかをしよう。亡くなったケンの代わりというのではないが、自分の人生に一度見切りをつけて、ふたりのために、生き直す気持ちで、全力で何かをやってみよう。それは、ひとつの転機だった・・・
「一編の詩」
ぼくは、叔父と叔母のためになにができるかを、考えた。心当たりがひとつだけあるのだった。それは一編の詩だった・・・
ぼくは、あの一編の詩を、本にして、それを叔父と叔母にプレゼントしようと思った。そのことを手がかりに、末来を切り拓いていきたいと思った。
( 一編の詩・・・英国の神学者 ヘンリースコット・ホランド 作 )
「ぼくは本をつくりたい」
・・・けれど、あたらしいぼくは、もう決めた。叔父と叔母のために、本をつくる。だれがなんといおうとやる。あとのことは、やってから考える。どうなったって、知らない。
こうして生まれた本は 『さよならのあとで』 というわずか47行の一編の詩を、絵本作家でイラストレーターの高橋和枝さんの絵とともにおさめた小さな本だった。
「夏葉社」を創業してから2年5か月経過した、2012年1月25日に第一刷が世に出た。
しかし、この本は島田さんにとっての最初の本ではなかった・・・
次回は、そのわけと島田さんの本の作り方、こだわり、大切にしていることを伝えられたらと思っている。
ところで頭木さんは「解説」の中で、この『あしたから出版社』は、島田さんの青春記であり、生き方の本であり、まさに文学であると書いている。
たしかに、この ”生きにくい世の中” にあって、ひとりの青年が必死にもがきながら自分のこれからの生き方を決断し、今から15年前に ”ひとり出版社” の「夏葉社」を起業した。
そして今もいい本を出版している・・・そしてこれからも、昔のその青年は、下の目的のために妥協しないで本を作り続けていくだろう。
『・・・具体的なひとりの読者のために、本を作っていきたいと考えています・・・いま生活をしている、都市の、海辺の、山間の、ひとりの読者が何度も読み返してくれるような本を作り続けていくことが、小社の目的です。』
〜夏葉社ホームページより~
・・・島田さんと同世代の次女の旦那さんが、「お父さんが好きそうな本ですよ」と送ってくれたこの本を、私はブログで紹介することもあって、すでに2回読んだ。
(ご参考)『あしたから出版社』の解説を書いた頭木弘樹さんの言葉を紹介したブログ。枠内をクリックすれば開いてお読み頂けます。
( 2022年6月16日付け投稿『75歳、時々ふと考える。・・・「折々のことばより』)