下座は一切を包容する | 道元のブログ

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ものの見方・考え方そして生き方に関すること。

『「ありがとう」と心から言うとき、私たちは自分を誇る気持から離れています。
「ごめんなさい」と心から言うとき、私たちは人をねたむ気持から離れています。


ありがとう、ごめんなさい、が素直に口から出てくるように、一燈園では、つねに他より下に自らを置き、悩める人、弱い人の立場で生活することを実践しています。これを懺悔・下坐の生活と呼んでいます。』

 

一燈園(*)生活の根本の一つである「懺悔・下座の生活」からの引用である。

 

(*)一燈園は、1904(明治37)年、西田天香によって創始されたもので、自然にかなった生活をすれば、人は何物をも所有しないでも、また働きを金に換えないでも、許されて生かされるという信条のもとに、つねに懺悔の心をもって、無所有奉仕の生活を行っているところ。

 

続けて、「懺悔・下座の生活」について、

 

『人間はもともと自分本位で利己的なものであり、際限のない欲望を持っています。安易と快楽を求める心や他に対する優越欲などもあり、知らず知らずのうちに他を傷つけ、ねたみ心や怨み憎しみなど、さまざまの起りをつくり出しています。


 生きていること自体が多くの人の汗と涙の上になり立っており、さらには動植物の生命の犠牲によって生かされているのです。


 結局人間は自分の正しさや権利を主張できる何物もなく、むしろ自分の中にいつもある自我的な気持ちを深く反省し、他に与えつくり出しているところの障りの罪深さを詫びていくよりほかにないのです。』

 

古臭いですか?

 

老生は古臭い人間ですが、自分の自惚れが無意識にでも出てるなぁと感じた時「この文章」を読んで反省しているんです。どうしても、例えば「なんでこんな理不尽なことを言われなきゃならないんだろう」とか「自分に非はないのになぁ」と、つい相手を攻撃したくなってしまう情況から抜けられそうにない時に「下座に生きてるか?」と自省の根拠にしているんです。

 

『「 釈迦は王宮を出て市に乞食し、キリストは弟子の足を洗い、老子は「その雄を知って、その雌に居る」とか言い、フランシスや桃水和尚はもちろんのこと、およそ人師といえば必ず下座を行じていられる。

下座は一切のものを包容する。下座は地であり、母である。下座は一切を載せ一切を産む。無心に単調な仕事ができるならば、それはなかなかの大業である。

今の時は有心で特殊な仕事をするのを大事業と心得ている。それが天下を危くすることに気がつかぬ。ひとかどの知識的な仕事をしたと思っても、それがみな破壊の種になってゆく恐れがあるのだ。破壊的に用いるものが悪いのだというかも知れぬ。しかし仔細に調べると、なにか優越な仕事のようにうぬぼれて、それによりて特殊な生活を占領するのがやはり破壊の種になっている。少しも勝手な解釈を加えずに、世界人類のすべての葛藤の原因を突き止め突き止めしてゆくと、大かたは自利を先にするから起こるものだということができる。

この自利を後にして奉仕し、一切の罪のうち、自分の原因となっている(自他一体観よりすれば一切の罪は自分の罪なり)ことをまず懺悔し、一切の優越欲に対して下座を行じ、求めらるる時はいかなることをもなしうる器量を練りつつ、静かにかくれて魂をみがくのが、いわゆる園の生活の始まりである。

無趣味、単調、かつ低級な仕事のようではありますが、こうしたところから出発するのは決して後れを取ることにならぬのみならず、全体を成就するに最も適当な態度であると信ずるのであります。 」』
(『懺悔の生活』西田天香 105-106頁より)

 

古臭いですか。

最も適当な態度で貫き通したいものです。