これが実に厄介な存在なのである。
とかく人のことをアレコレと批判するが、自分のこととなるとさっぱり解らない。
端的な例であるが、形がない、目には見えない、音をたてることもない、捕らえられない。
この得体の知れないものに、
われわれは朝から晩まで、寝ている時でさえコキ使われ、引き回され、右往左往させられている。
悩んだり苦しんだり、喜んだり悲しんだり、喜怒哀楽とコロコロ変わるのはお手の物なのである。
心こそ 心迷わす 心なれ
心に心 心許すな
迷うのも心、
悟るのも心、
苦しむのも心、
楽しむのも心、
信じるのも心、
疑うのも心、
向上するのも心、
堕落するのも心、
『千成 (せんなり)やつるひと筋の心より』とは言い得て妙である。
禅語に『放下着』がある。
「放下着」とは、「いっさいの執着を捨て去りなさい」という意味。
所有している物だけでなく、過去の経歴や成功体験、思い込みや決めつけといった思慮分別をも捨て去る。
もう捨てるものがない、もはや捨てきったという自負までも捨てなさい、という意味が込められている。
心を捨てる。
つまり、自分の心を解放するということだ。
もともとは何もないではないか、ないままにしておいたらいい。
そうすればきっと生きることがもっと楽になるのだろう。
今からでもいい、何も拾わないことだ。