花の季節はなにも春に限ったことではない。四季折々にその時その場所で花は咲いている。いつものようにいつもの所で咲いている花を見て人は「ホッ」とする。それはいつかその花が見られなくなるかもしれないという無意識に潜在している不安を解消してくれるからだろう。そして、そこに「ホッ」とすることに深い意味を求めるならば、その花と共にある「いのち」の共存を感じているからに他ならない。
さくらが咲き始めた。
いつ咲くかが話題になり、早い遅いと此処彼処でにぎやかだが、そんなことさくらに任せておけばいい。咲く時に咲く、それでいい。
隣のさくらが咲いたからそろそろ咲こうか、いや寒いから未だにしておこうかなんて、そんな不正直ではない。絶対の自然の環境のなかにあって、その関係性を乱すこともなく、素直に従っているだけなのである。それなのに、その素直さが美しいのに、もっと美しくしようと人の計らいが働いてしまう浅はかさをさくらはどう思っているのだろう。
ライトアップなんて止めて、人口の光で私は決して美しくはならないから、人間たちとは違うの。自然の光、雲間からのほんの月明かりでもいいから、ぼんやりとあと少しで散ってしまう「私」を愛でてほしいの。共にある「いのち」だから、咲いて教えているのに気づいてくれない。そんな「表情」を観てほしい。
さくら
ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と
茨木のり子さんの詩である。
そして、花の言葉をもう一つ。
「人間の顔は、一本の茎の上に咲き出た一瞬の花である」
今年のさくらは何を問いかけてくるのだろう。
サクラの花ことばは「生きるしあわせ」とある。