三味線をもってうたうことで暮らしを立てていた、目の見えない女性たちの職業。
瞽女(ごぜ)、という。
打楽器の「鼓」と「目」からなる漢字で、身分や生まれを指すのではなく、職業の名前である。
起源は室町時代といわれている。
新潟・越後では昭和の中頃まではその姿を見ることができたという。
その越後の瞽女たちは一本の三味線とその声でみずからの人生を切り開き、
人々の暮らしに深く入り込んでパワーあふれる娯楽を提供する、誇り高き芸人集団だった。
瞽女はひとりで旅をすることはない。
少なくとも親方と弟子と手引きの三人づれ。
五人の組になると、縁起がいいと村人から喜ばれた。
瞽女唄では、物語をうたうことを「文句をよむ」と表現する。
また、瞽女唄は脚色も演出もしない。
だからといって、ただ棒読みするというのではない。
伝えるべきは物語の中身、聴く人が、それぞれに自分の頭の中で物語を思い描いていく。
唄い手が作為的な飾りをつけ加えてしまっては、かえって聴く人の思いを邪魔してしまう。
ほかの芸能とは重ならない独特の声と音の響きがある瞽女唄、単調と無作為とが共存する感動がある。
「あきない単調さを初めて知った」
「何の変化ももりあげもないのに、どうしてこれほどまでに心に訴えてくるのだろうか」
「単調さを貫くことが、唄い手の存在感を消すのではなく、かえって重くしている」
これらは聴衆の感想である。
生後100日で失明、5歳で瞽女の親方に弟子入り。
以来、70年あまりにわたって瞽女として商売を続け、その後も芸と心を伝え続けた小林ハルさん。
たまたま聴いた唄声が忘れられずに弟子入りした萱森直子さん。
萱森直子さんは小林ハルさんの稽古場で、
「瞽女とはなにか」「自分のさずきもん(人生でさずかったもの)とはなにか」を学んでいく。
*「さずきもん」・・・個人の能力や人との縁など、人生において「さずかったもの」のこと。
そして、瞽女の芸の真髄、これまで語られてこなかった小林ハルさんの最晩年を、真摯な目線で切り取ったノンフィクション、
「さずきもんたちの唄」を出版。
小林ハルさんが瞽女として初旅に出たのが8歳のとき、最初の師匠には10年間ついた。
「おれは人から悪いことをされたことは絶対に忘れない。
死ぬまで忘れられない。死んだって忘れねぇ。だから、おれは人に悪いことはしないんだ」
小林ハルさんは、2005年4月25日に死亡。105歳だった。
「さずかったもの」を「さずきもん」という。