行雲流水 ~所長の雑感~ -9ページ目

行雲流水 ~所長の雑感~

松田進税理士事務所 所長の松田が日々思うことを思うままに綴った雑記帳

「体重13500、ヨット部現役時代ハイクアウトして有利なバランスを取るために、14貫を超えようと努力しましたが、卒業までついに14貫を超えることはありませんでした。当時はまだ尺貫法が生きており当時の身長はメートル法で覚えていますが体重は尺貫法しか思い浮かびません。学生時代の粗食では一日の運動量を上回るカロリーはとれなかったのでしょう。卒業後一念発起、ひたすら美味を求め和洋中華一切の好き嫌いを言わず、食を進めるためにビール、日本酒、ウイスキーその他世界のいかなる酒も拒まず、かつ一日たりとも欠かさず、44年間の精進を続けた結果ついに19500、その昔巨漢と言われた人の体重、20貫にあと一歩のところまで達しました。換算してみると(1貫=3.75 kg50.6 kgから73.4 kgまで44年間一年ほぼ500 gづつの長い長い道のりでした。………」

 

上記は200310月のみどり会タイムズ「減量記」の書き出しです。このときはファイブM(森明子体操教室)の減量チャレンジで2ヶ月で6.8 kgの減量には成功しましたが、生活習慣をもとに戻すと、70 kg前後に戻りそのまま長らく推移していました。ただこのころから毎日体重をノートに記録する習慣だけは身についたようです。ちなみに2003年の73.4 kgから毎年末の体重を記録から拾ってみますと、

2004年末(67.8)   以下年を追って

2005年末(69.0

2006年末(70.0

2007年末(71.4

2008年末(67.5

2009年末(64.4

2010年末(63.0

2011年末(61.3

2012年末(61.5

2013年末(60.7

2014年末(59.6

 

今年の121日ついに58.9 kgになりました。特に減量を意識せずただ記録を続けていただけなのですが2009年の年末、忘年会続きなのに一週間ほど体重が減り続けていることに気付きました。ふつう宴会に出ると体重が増えると思い込んでいましたが、この年は続けて毎日のようにあったのと、酒を注いだり注がれたり、動き回っていたので以外と食べ残していたことに気付きました。と同時に宴会の料理は和洋中華を問わずカロリー量がかなり高い、適量の倍は確実にあるとも思いつきました。そこで翌年から宴会の料理はすべてのお皿に手をつけるものの、半分だけいただくことに決めました。すると宴会の後は体重減、家で食べると体重増というパターンになりました。家でも晩酌は欠かしたことが無いので、ついつい酒の肴が余分なカロリーになるのかも知れません。体重の記録は続けながら食事量をコントロールしていると、胃が小さくなるのか、昼の外食もまるまる食べるのがやや負担になり、ごはんを半分だけ残すようになりました。そのうち家での食事量も知らず知らずのうちに減っていたのでしょう。その成果は2010年以降5年間の、体に負担を感じない減量となりました。

 

75才になったのを機に、30年間続けた人間ドックの検診をやめ、年23回かかりつけのお医者さんに血液検査をしてもらっていますが、その結果はいつも先生の笑顔とともに「パーフェクト」の言葉で終わっています。高血圧と中性脂肪の薬を毎朝一錠づつ飲んでいるものの、人間ドックで30年間注意され続けてきたγGTPも正常値だそうです。60才から70才ぐらいで悩まされていた、膝痛と坐骨神経痛による腰痛をいつの間にか感じなくなりました。ゴルフも18ホールの後半になると、ゴルフカートにしがみついてプレーしていたのが、最近は結構知らぬ間に歩くことが多くなっています。私の減量は目的的ではなかったのですが、すべて結果オーライで大変感謝しています。

 

最後に運動について。40歳からほぼ30年間、毎朝小一時間賀茂川沿いを散歩していました。50歳から「ファイブM」森明子さんの体操教室に通っていました。10年前から数年前、記憶は定かではないのですが、散歩は気持ちはいいけれど筋力強化にはならないなと感じて、散歩の時間の半分ほどを体操にあててきました。2010年と2011年びわこ成蹊スポーツ大学の「全力疾走に挑戦」して、筋力強化の必要性について学び、そこでの体操も取り入れています。去年偶然秋田空港で「11回でお腹が凹む!完全腹筋メソッド」中村勝美著(これが新腹筋だ!)という本に出会って一年間それに取り組んできました。最近「ゆるめる力・骨ストレッチ」松村卓著(肩も腰も原因は骨でした・コツ()をつかむと体も心もラクになる)という本を見つけ、それも朝の時間に取り入れようとしています。

 

そんな訳でいつの間にか朝の散歩はやめています。630分起床、まずはコーヒーをわかし、神棚と仏壇のお水を取替え、礼拝と読経、その後それぞれの体操を終えると730分、コーヒーを飲みながら新聞に目を通すまでほぼ一時間、立ったままの時間です。減量と運動、中高年になればなるほど必要なのでしょうが、なかなか出来ないのが実情だと思います。私はなにかの偶然と幸運に恵まれて今のところ頗る快調です。皆さまにも出来ればお勧めしたいのですが。

どんな話からその話になったのか全然思い出せませんが、折に触れて思い出す話があります。京丹後市網野の織物会社の社長さん、多分決算の説明やご了解の後の京都での宴席での話だと思うのですが。

 

「なにもない支那の原野を毎日毎日鉄砲と背嚢を担いでただひたすら歩いていくのですよ。支那兵の姿など全然見ない。ところがどこからか狙撃兵に撃たれて一人が戦死すると一分隊に『荼毘に付したのち原隊復帰』と命令される。本隊が見えなくなると多数の便衣兵(便衣=平服)が現れて分隊全滅。日本軍の損害としては軽微だけれど、戦死者は一人一人友人であり仲間なんですよ。毎日それを繰り返していると恐怖心が増幅され、敵愾心の固まりになる。終わりの方は荼毘どころか、髪一掴み、爪一切れだけを持って、早々に本隊に合流するというより逃げこむ。

そして南京入城ですよ、正規の軍服を着た支那軍は逃げてしまって1人もいない。逃げ遅れている、または隠れている便衣を着た兵隊と民衆の区別がつかない。そんななかでスパイがいる、狙撃手がいるという真偽入り混じった情報があると、それっと無差別に襲撃する。入城後、落ち着くまでに、何回かそんなことが在りましたよ」

「そいでぇ……」

と丹後の人特有の、語尾をのばす穏やかな話し方で怖い話を聞かせてもらいました。

 

そして最後にポツリと「戦争はいけまへんな」

 

「南京大虐殺」など記事はおろか話題にもならなかった頃の話です。

 

10月の半ば、㈱木下商店の株主総会で岡田社長に一冊の文庫本を頂きました。「満洲国演義第一巻・風の払暁」です。即一日で読み切って、既刊の二巻「事変の夜」三巻「群狼の舞」を買ってきて読み切りました。一巻は張作霖爆殺(関東軍の謀略)から始まります。二巻は「満洲事変と上海事変」三巻は「満洲国建国」がテーマです。そして来年1月から8月まで九巻まで発刊予定です。

 

登場人物は戊辰戦争や西南の役に参加した長州藩士を祖父に持つ敷島家の四兄弟、長男敷島太郎・東大法卒の奉天総領事館の参事官。次男次郎・18歳で日本を飛び出し満洲を放浪、馬賊の頭目になっている。三男三郎・気鋭の陸軍士官学校出の関東軍憲兵将校。四男四郎・無政府主義を信奉する早稲田の学生。これに陰の主役ともいえる4兄弟にからむ関東軍特務の間垣徳蔵。

 

作者・船戸与一の本を読むのは初めてですが、引き付けられています。一巻は1928年、昭和3年です。そして多分九巻は1945年、昭和20年前後に終わるのでしょう。明治維新により国民国家としての道を歩み始めた日本は、日清・日露の対外戦争を経て、国民国家としての道を歩み始め、国際的にもそれなりの地歩を築きつつあった。しかしながら大陸進出にあたり、「八紘一宇(世界を一つの家にする)」や「五族協和(日鮮満蒙漢の国、満洲国建国)」のスローガンを掲げ、欧米列強の植民地支配とは、はっきり一線を画したものであったにもかかわらず、結果的には今でも中国、韓国から非難され続けている。これも昭和の始めあたりから、政治家も報道も劣化し、特に国民大衆が、八紘一宇とか五族協和に惑わされ、関東軍の独断専行に引きずられていった結果なのでしょう。

 
 
ところがこの間の歴史的事実については、事件や事変がいつ起こったかは周知の事実であっても、歴史認識という奇妙な言葉にすりかえられて、本当の歴史物語が全く空白となっていました。船戸与一は二巻後記のなかで「……筆者は昭和19年の生まれで飢餓体験はあっても戦争の記憶は勿論……満州事変事変前後の事情となるともはや遥かなる過去でしかない。したがって執筆にあたってはすべて資料に頼った。小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない。……使用した資料はすべて市販されているか、品切れの場合は図書館で見つけ出せるものだ。参考文献は以下のとおりである。」として82件の資料をあげています。

 

私の生年月日は昭和1293日、連日、「進め進め兵隊さん」と新聞の見出しに踊っていたことから、命名したと聞いていますが、冒頭の社長さんの体験はおそらく私の生まれた頃の話です。この時代は日本にとって負の歴史、これに挑戦しようとする作家は船戸が初めてです。しかも末期がんの宣告を受けた前後に書き始め、数年間満洲国演義を書き続け、書き終えて後死亡とまさに命を懸けた作品のようです。私にとって司馬遼太郎の「坂の上の雲」で明治時代と明治の群像が、吉川英治の「私本太平記」で足利時代と足利尊氏が物語となって、私の中で映像化されたように、私が育った昭和の初期が映像化出来るか、わくわくしています。

 
 
皆さんにも是非購読をお勧めします。そして今マスコミの劣化はテレビ、新聞、雑誌などすべてに及んでいます。そして本当に国を憂い、国の将来を真剣に考え行動してくれる政治家がいま何人いるのでしょうか。人任せにして日本の将来を危うくすることの無いように、国民の一人一人が昭和の初め20年の間に何が起こっていたのかを知るためにも、格好の教科書になりそうな期待をしています。

松田進税理士事務所 職員の荒木です。ここでは、所長の松田が週明けの朝礼で私たち職員に話した内容に自分なりの意見を加味したものを書いていきたいと思います。(ですから、ここのカテゴリーだけは所長の雑感 荒木視点バージョンです。)

 

所長が財務顧問をしている天龍寺において先週の金曜日に開山忌が行われ、参加してきたということで、

先日の朝礼は開山忌のお話しでした。

 

 

まず、方丈において裏千家による献茶式があり、千宗室家元が夢窓国師に茶を捧げられたそうです。

 

そしてその後に雲竜図で有名な法堂に移動し、50名以上はいそうなお坊さん達によるお経の大合唱が、ガチャン・ゴーンという鳴り物付きでほぼ1時間あったようです。

 

 

で、所長の感想はと言いますと、

 

「厳かでいいんやけど、じっと座ってるので退屈といえば退屈で・・・」

 

ということでした。

 

 

「みなさんも機会があれば是非」 

ということでしたが、所長ですら「退屈」するのですから、僕らだったら完全に「夢の中」になってしまいそうです。

松田進税理士事務所 職員の荒木です。ここでは、所長の松田が週明けの朝礼で私たち職員に話した内容に自分なりの意見を加味したものを書いていきたいと思います。(ですから、ここのカテゴリーだけは所長の雑感 荒木視点バージョンです。)

 

先週の金曜日のゴルフコンペで2等賞だったということで、昨日の朝礼ではゴルフの話しでした。

 

10年ほど前からスコアが全然ようならへんようになってきた。ボールは飛ばへんわ、妙なとこでバタバタするわで」

「そしてそれを歳のせいにしてきたけど、違った」

「ある程度の基礎体力が無いとあかんけど、きちんと正しく練習したら年齢に関係なく技術は伸びていくもんや」と。

 

 

2年前から自己流を止めてゴルフのレッスンを受け始めた所長の言葉だけに実感がこもってました。

 

そしてこのことはゴルフだけじゃなく、他のスポーツでも習い事でも勉強でも、全てにおいてそうだと。

年齢に関係なく伸びていくものだと所長は言います。

 

 

記憶力が低下してきたことを「歳やししょうがない」と最初から決めつけていましたが、

やり方によってはまだまだ記憶力も伸びるということですね。年齢のせいにせず頑張らねば!

日経カルチャーツアーの「長谷川等伯の足跡を京都に訪ねる」の広告にひかれて、南禅寺・金地院、大徳寺・真珠庵、智積院を訪ねて来ました。103日快晴でした。パンフレットの「みどころ」をそのまま紹介しますと「桃山時代を駆け抜けた天才絵師『長谷川等伯の世界』をテーマに、等伯ゆかりの古刹を秋の京都に訪ねます。普段非公開の大徳寺・真珠庵では、等伯襖絵や茶室『庭玉軒』を特別に拝観。また等伯と久蔵・親子の障壁画の競演が鑑賞出来る智積院も訪ねて、天下人・秀吉の期待に見事に応え、狩野派と並ぶ地位と名声を得ることとなった作品を鑑賞します。」とありました。

 

京都駅を出発したバスはまず南禅寺へ。金地院は南禅寺の入口のすぐ右手でした。何遍も通り、何回も見ているはずなのに、いままで全然気がつかなかったことに、自分で驚いていました。小堀遠州作の「鶴亀の庭」や茶室「八窓席」など見どころはいろいろあるようですが、私は「猿猴捉月図・老松」に目が釘づけになりました。見た記憶があるのですが、等伯作とは知りませんでした。水面に映る月を、老松の枝にぶら下がった猿が手を伸ばして取ろうとしています。しげしげと見入っていました。

 

真珠庵も以前訪れたつもりだったのですが完全な思い違いでした、孤篷庵と勘違いをしていました。真珠庵はさすが一休禅師ゆかりのお寺だけあって、茶祖、村田珠光作の七五三庭園や、珠光遺愛の手水鉢、紫式部産湯の井戸、茶室庭玉軒など見どころ一杯、勿論等伯の襖絵「商山四皓図」もありました。和尚さんから一休禅師の話などを伺いながら、抹茶をいただきました。話のなかで最近の若者(学生?)は一休さんの事はよく知っているが、実在の人だと言うと皆のけぞるほど、こちらが吃驚すると嘆いておられました。

 

さて智積院の収蔵庫の国宝障壁画、等伯の楓図、息子長谷川久蔵の桜図は、いままで見慣れてきた水墨画とは違い、圧倒的な迫力でこちらに向かってきます。桜図は久蔵25歳の作で、これを遺作に26歳で亡くなっています。その若き画才ゆえに狩野派に消されたという噂が、納得できるほど生き生きとしていました。照明を落として薄暗い中で浮かび上がる花びら(胡粉をまぜた絵の具で)は怪しげでした。楓図はその翌年等伯が哀惜の情を振り切り自己の生命力を画面一杯に傾けて描き出したものだそうです。障壁画を間近に見ながら、物語に思いを馳せていると、なにか胸に迫るものがありました。

 

ところで私の自宅から5分もかからないところに、本法寺があります。ここの涅槃会館に等伯の釈迦涅槃図が収められています。これも久蔵の死を悼んで描いたものだそうですが、縦10メートル横6メートルの巨大なもので、2階から見られるようになっています。今回は模写が展示してあるのでパスしたそうですが、毎年春のお彼岸のころには本物が展示されますので是非ご覧になることをお勧めします。等伯話はこれでお終い。

 

 

このツアーの間に大変珍しいものを二つも見聞きしました。一つは千早赤阪村。金地院の西隣に料亭「菊水」があります。ここで京料理の昼食をいただきました。この帰り際、座敷を出るとき衣桁(いこう)に打掛がかけてありました。その図柄が千早赤阪村。忠臣楠木正成が足利幕府軍を迎え撃って、家紋菊水の旗のもと籠城している絵です。なぜこの図柄が飾ってあるのか不思議に思い、御見送りの若女将に確かめると、

 

「そうどすけど、この頃だあれも気づいてくれはらしません。」
「なんであれを?」

「うちとこ楠木家の子孫どす。」

 

「菊水」の名前の由来が納得できました。

 

もう一つは真珠庵で。お寺にはふさわしくない大きな絵が廊下に飾ってありました。縦が2メートル、横が3メートルぐらいはあるでしょうか。荒れた海上に船が2隻、崖の上からサーチライトが2基、船の周囲には砲弾の水柱、どうみても戦争の絵なのですが、船は軍艦ではありません。ふと気づいて和尚さんに聞いてみました。「あれ旅順港閉塞作戦ですか。」「そうです。右上に東郷元帥の銘が入っているでしょ。なぜかわかりませんが東京の某百貨店から真珠庵に送られて来たそうです。」日露戦争時、旅順港にいるロシアの旅順艦隊とバルチック艦隊を合流させないように、旅順港口に商船を沈めて閉じ込めようとした作戦です。「杉野は何処、杉野は居ずや」という駐在武官としてロシア宮廷で浮名を流した英雄、廣瀬武夫少佐が、杉野上等兵曹を探す声が聞こえるようでした。二人ともこの作戦で殉職しています。

 

二つとも私のご幼少の頃、絵本や唱歌での懐かしい話なのですが、伝わるのはどれぐらいの世代まででしょうか。