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行雲流水 ~所長の雑感~

松田進税理士事務所 所長の松田が日々思うことを思うままに綴った雑記帳

69回目の憲法記念日を含む大型連休の初日、「天皇と軍隊」という題名の映画を京都シネマで見てきました。2009年にフランスのテレビ番組として制作されたものが、6年後日本各地の映画館で上映されています。監督は渡辺謙一、フランス在住でヨーロッパのテレビ向けドキュメンタリーを制作、「桜前線」(2006)「ヒロシマの黒い太陽」(2011)「フクシマ後の世界」(2012)など欧州において遠い存在である日本に共通理解を深める作品制作に取り組んでいる、そうです。

 


  敗戦から70年、曖昧さを内蔵しながら正面から議論をしなかった、あるいは出来なかった事情が画面から伝わってきました。「主権在民と天皇の地位」「自衛隊の存在と憲法9条」いまだに正面からの骨太の議論はきかれず、聞こえてくるのは姑息な揚げ足とりばかり。映画を見て私なりに感じたのはそもそも日本国憲法が誕生した経緯は、首尾一貫した思想や民族の伝統と誇りなどは皆無、当時の占領軍と日本側の当事者の目先の都合が最優先された結果でした。

 


  占領軍とくにマッカーサーの狙いはただ一つ、徹底的な日本の軍事的無力化。太平洋の島々から硫黄島、沖縄を通じての日本軍との戦いに業を煮やした彼は、自衛権など本来の国家の権利を無視、完全な軍事的無力化を強制します。一方日本側は映画「日本のいちばん長い日」で明らかにされたように、天皇制の維持に拘って、ポツダム宣言の受諾に逡巡したように(結果的に広島、長崎の悲劇を生みました)憲法案にも天皇制の維持が最大の目的でした。

 


  映画では日本側に任されていた憲法草案を毎日新聞がスクープします。その内容(明治憲法をベース)に激怒したマッカーサーはGHQ20人ほどの若いスタッフに1週間以内に日本国憲法草案を作れと命じます。その内の一人、民生局のスタッフ22歳のベアテ・シロタ・ゴードンが証言しています。「命ぜられてすぐに私は日本人の運転手に命じて、焼け残った図書館を巡り、あるだけの憲法関係の参考書を買い込み、懸命に勉強し草案を作成しました。世界中の憲法の素晴らしいところを参考にしているので立派な憲法だと自負しています。」ちなみに彼女の草案は第14条「法の下の平等」、第24条「両性の平等の原則」だそうです。

 

この映画を見ながら私の中で憲法制定の経緯が呑み込めてきました。マッカーサーは戦力無保持は絶対に欠かせない要件。(余談ですが「忠臣蔵」は戦後2年間あらゆる分野での表現禁止。歌舞伎での上演は一部許可されたものの映画は1952年講和条約発効まで禁止。1964年の第2NHK大河ドラマが放映されるまで「忠臣蔵」は日陰の身でした。)いかにGHQが敵討ちを恐れていたか想像できますか。もう一つ天皇との10数回の会談の中で、戦後の日本統治には天皇の影響力が必須であることに気付き始めていました。そこで「象徴」という曖昧な表現で天皇制を残すことを決めました。日本側は取りあえず「天皇制の維持」がこの局面で表現できればOK。あとはGHQの若い優秀なスタッフに任せれば、世界中に恥じない立派な「コピペ」が出来上がる。両者ともどうせ近い将来講和が出来ればすぐに新しい憲法に変わるだろう、ぐらいに思っていたのでしょう。

 

ところが憲法第9条はいつのまにか「神聖侵すべからざる」ものに変身します。レッドパージにあわなかった左翼系憲法学者の阿諛追従、それに乗っかった大部分のマスコミ、それに日教組あたりが犯人だと想像しています。実は私もその一人だったのですから偉そうに言えるわけではありません。そのことに首を傾げだしたのはやはり冷戦の終結1989年ごろだったでしょうか。奇しくも1989年昭和天皇崩御。世界も日本も状況が劇的に変化したように思います。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した。………」(憲法前文)という前提が世界的に崩れ出したのです。

 

マグナカルタ(英国憲法?)は戦争の出費を省みない王権を制限するために貴族たちの団結で生まれました。フランス共和国憲法は絶対王権を倒した市民革命を正当化するために、自由、平等、博愛の旗印を掲げました。合衆国憲法はイギリスから独立した13州の団結のための契約書でした。それぞれの国の憲法はその当時その国が置かれた状況と必要のために生れています。とすれば日本国憲法もあの時代の状況を切り抜け、結果的に世界第二位の経済大国になるための必須条件だったのかも知れません。

 


  だとすれば日本国憲法は立派にその役目を果たしました。70年間日本人は1人も戦で死ぬこともなく他国民を殺すことなく、民主主義はそれなりに定着し、経済的にも立派に立ち直っています。かと言って矛盾だらけのこの憲法でこれからの世界と付き合って行くのは大変です。ぼちぼち憲法前文と第9条の呪縛から解き放たれてまともに議論するときだと思います。最後に新しい憲法に対する私見を23述べておきます。

 


  第9条の、国の主権の発動たる戦争は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを放棄する。これは絶対に欠かせません。第11条「基本的人権」や第14条「法の下の平等」など、(コピペなどとちょっと言いすぎましたが)すでに十分日本人になじんでいて継承すべきものは多々あります。一番忘れてはいけないのは日本には文化として継承すべき立派なお手本があります。聖徳太子の17条の憲法です。根底に「和を以て貴しとなす」の精神(こころ)が宿った憲法が出来れば素晴らしいとは思いませんか。

410()京都税理士協同組合の恒例の春の旅行で、熊本県の黒川温泉に泊まっていたのに、14()同じ週に大きな地震が起こって驚いています。熊本城の石垣や屋根瓦などが崩れていることから、市内の被害の拡大が心配されます。今回の旅行は大分県日出市の的山荘で城下カレイの昼食、九重の夢大吊橋を経て、黒川温泉泊、翌日瀬の本高原から高千穂峡へ。高千穂峡で昼食と神楽鑑賞を含めほぼ3時間の時間がとってあるのが、私にとって最大の魅力でした。「高千穂峡の真名井の滝をボートに乗って下から見られる」。

 

Déjà Vu」(デジャブ)というのは広辞苑によると、「それまでに経験したことが無いのに、かつて経験したことがあるように感ずること。既視感。既視体験。」とありますので私の体験とはちょっと違うのかも知れません。しかし眼前にその景色を見たとき、同じ景色が頭の中で甦ったことが三度ありました。その一つが『真名井の滝』だったのです。

 

最初は『ダイアモンドヘッド』でした。1973年の正月シェラトン・ワイキキ・ホテルの高層階の部屋の窓からダイアモンドヘッドを眺めたとき、なんとも懐かしい気持ちに捉われました。開業して3年目、女子職員が2名在籍していましたが、慰安旅行など全然思いもしていませんでした。ちょうど海外旅行ブームの先駆けだったのか、JTBか日本旅行か他の旅行会社か分かりませんが、グアム旅行のパンフを置いていったのです。費用は10万円弱、彼女たちの年収が20万から30万円ぐらいのとき、けっして安くはない金額ですが二人が飛びつきました。「半分は私たちが負担します。半分事務所で出して下さい」と。ところが決断が遅れたのかどうか、申込みをしたときはすでに満杯、諦めていたところへ「ハワイはどうですか10万強にはなりますが」それこそ3人とも「清水の舞台から飛び降りるつもり」で決行。それから職員が月3千円積立し、同額を事務所が負担し二年に1回海外、国内を問わず慰安旅行をする、事務所の決まりごとが始まりました。

 

2回目は『万里の長城』でした。京都中央信用金庫の取引先の「中国経済視察旅行」に参加しました。上海、西安、北京を回り、各地で現地の官憲からは「中国進出大歓迎」日本の出先機関からは「進出についての注意、留意事項」を延々と聞く旅行でした。上海では高層ビルの建築ラッシュで道路が凸凹、舗装がやたらに剥がされていて泥靴になった記憶があります。思い出しました。西安から北京へのソ連製の飛行機の非常ドアがロープで括り付けられ、座席が23席底が抜けていました。まさに中国の経済発展の助走時代、1990年代半ばだったのでしょうか。そのとき唯一の観光が「万里の長城・八達嶺」でした。八達嶺に行く観光道路、長城をぶっ壊して道が通っているのにはぶったまげました。長城を歩き、登り降りしているうちに「この景色見たことあるぞ」という思いが湧いてきました。

 

 そして三つめは『真名井の滝』。3年前の九州のドライブのとき、現地の方の案内で天岩戸神社で天の岩戸を遥拝し、天照大神の岩戸隠れ対策を神々が相談したという「天安河原(あまのやすがわら)を巡り、高千穂神社で天岩戸神楽を見学しました。高千穂峡にもより「真名井の滝」を遠望したとき、前2回と同じ既視感が湧いてきました。その時滝の下でボートに乗りたい、と痛切に思ったのですがその時は時間がとても足りませんでした。

 

 Déjà Vu(既視感)と題には書きましたが、そんな神秘な力など私にあるはずがありません。しかし三つともこれ「見たことあるぞ」という思いが湧いてきたのは事実です。ご幼少のみぎりけっこう本好きでしたから、「世界の名所」などという絵本の中にあったのではないか、というのが妥当なところでしょう。戦前、戦後の事情の中で到底いけるはずが無い世界の名所、想像の中だけでも行ってみたい、という思いが凝り固まって刷り込まれたのでしょうか。となると「真名井の滝」は。原日本人である私の魂が神々のふるさとに憧れた………?

 

 ともあれ「高千穂峡散策」の時間を利用し、土産物屋のマイクロバスでボート乗り場に送ってもらい、滝の間近から思う存分眺め、写真を撮ってきました。幸せでした。

2月半ばの穏やかな昼下がり、

()「あったかそうやな、東寺は満員やろし千本釈迦堂でも行ってみよか。行ったことあるか。」

(家内)「行ったことない。むこうは毘沙門さんやな。」

()「ちゃうで、閻魔さんや。たしか千丸(千本丸太町)上がるやな。」


ということで千本通りを南下しながら、テレビで見覚えのある(あるはずの)入口を探すのですが、見当たりません。ナビで千本釈迦堂駐車場を入力すると千本を北上の指示が出ました。今出川を越えて五辻で左折指示、まもなく「目的地に近づきました、案内を終わります。」左側に3台分の百円駐車場が見えるだけ。首をひねりながら一から千本釈迦堂と入れ直し、今出川、千本、寺之内、から七本松とぐるりと一周すると、ようやく目指す看板が見えました。民家が10軒ほど両側に建ち並ぶ空間を東へ進むと、境内らしきものが目に入ってきました。

 
 受付で「ここはダイコダキ(大根焚)しゃはるとこですね」と聞きながら入場券を贖い境内に進むと「一枚で霊宝殿と本堂の見学が出来ます」と立て札がありました。まずは霊宝殿に入って目についたのは釈迦十大弟子、舎利弗~阿難陀まで1メートル弱の尊者10体が整然と佇立しています。作は大仏師快慶、道理で一人一人の表情が豊かで変化に富んでいます。思わず一体ずつをじっくりと見てきました。霊宝殿にはこれを含め8点の重文と2点の国宝が陳列されています。

 
 次は本堂、まずこれが国宝です、全然知りませんでした。安貞元年(1227)上棟の応仁の乱でも焼けなかった京都最古の国宝建造物です。他に本尊厨子と天蓋、本堂来迎板壁仏画が国宝、いわば本堂全体が国宝のようです。ご本尊の釈迦如来像は重文です。快慶の高弟行快の作。高弟に本尊の製作を任せて、自分は十大弟子を製作したようです。お釈迦さまはお参りはしましたが、ご開帳されてはおりませんでした。

 
 本堂の座敷にお多福のモデル、おかめさんの等身大以上の銅像が安置されています。本堂脇の畳廊下にも無数のお多福のお面とおかめさん人形がガラスケースに一杯あります。そして壁にはおかめさんの絵物語が飾られていました。それによると、釈迦堂本堂造営のとき、棟梁長井飛騨守高次が貴重な四本柱の一本を誤って短く切りすぎた際、妻の「おかめ」はお告げを受け「斗ぐみ」をほどこせば、の一言。この着想が結果として成功をおさめますが、おかめさんは上棟式を待たずして、女の提案で大任を果たしたことが知れてはと、自害してしまいました。高次はおかめの名にちなんだ福面をつけた御幣を飾ったとされます。全然知りませんでしたが、今日上棟式にはお多福の面をつけた御幣が飾られるのはこれが由来だそうです。

 
 ところで毘沙門さんは霊宝殿の重文の仏さまの中に一体はおられたのですが、閻魔さまは何処にも見当たりません。首を傾げながら車に戻って試しに「千本閻魔堂」と入れてみるとすぐ近くにあるではありませんか。千本通りを北上すると、寺之内上がるに既視感のある入口がありました。早速駐車場に車をおいて本堂を覗き込みました。脇侍の「司命」「司録」は見えるのですが真ん中の「閻魔さん」は見えません。「地獄の沙汰も金次第」とはこのことか、拝観料を納めるとご開帳いただけるそうです。早速本堂に上がり込んで閻魔さまにご対面、丁寧に開山縁起などをご説明いただきました。開基は宮中と閻魔庁を行き来していたと伝えられる小野篁(802853)、閻魔像も彼の作だそうです。30分ほどお参りしていましたが閻魔さま、意外とやさしいお顔に見えました。境内には紫式部の供養塔と伝えられる十重石塔(至徳3年の刻銘・重文)がありました。あれ?また謎です。堀川鞍馬口上がる島津製作所の北側に、小野篁と紫式部のお墓だけが仲良く並んでいます。前から何故此処に、何故二つ並んで、と思っていたのに謎が深まりました。生年に150年から200年の差があるお二人の関係やいかに。

 
 最後にもう一つ、千本釈迦堂の開山、義空上人は奥州の藤原三代、藤原秀衡の孫だそうです。源氏に根絶やしにされたと思い込んでいた、藤原一族の末裔が京の都で今に残る国宝建造物や国宝、重文の数々と文化を後世に伝えていたとは驚きでした。私の中では「大根焚」「お多福さん」「閻魔さん」おまけに「釘抜地蔵」までが新聞記事やテレビで混在して、同じ場所の行事のように思っていました。京都に生まれ京都に80年近く住まう私にとって、「千本釈迦堂」「千本ゑんま堂」と「石像寺(釘抜地蔵)」の存在と、それぞれの行事が初めて明らかになりました。またそれぞれがもつ歴史と今に伝わる伝統行事などなど、私の「無知」を義空上人に知らしめいただいた、本当に不思議な一日でした。釘抜地蔵には近々行ってみようと思います。そして小野篁と紫式部のお墓が並んでいる訳を知っている人がいれば教えてください。

………

後日狭い狭い今出川七本松を直進(左斜めの広い新七本松ではなく)すると最初にナビが案内した所につきました、これが千本釈迦堂の正面です。

  211日は紀元節(建国記念の日)です。一時、この日の制定をめぐって国会から学会まで大騒ぎをしたのがうそのように、静かに国民の祝日として定着しています。
 
 しかし昨今の憲法改正など保守回帰の風潮などから、ちょっと気になって、紀元節の起源などをインターネットで見てみると結構面白かったのでまとめて見ました。

 そもそも日本には、建国の日などを意識することは、まったくなかったようです。明治になって諸外国との付き合いから、急遽、建国記念日、すなわち紀元節を明治6年(1873年)に定めたようです。そして211日の日付は神武天皇が即位したとされる、神武天皇元年(紀元前660年)の元日(旧暦)を新暦に換算して決められたのだそうです。

 戦後日本の神話はGHQにより排除され、紀元節も当然のように廃止されました。しかし、昭和26年ころから紀元節復活の動きが見られたが、保守反動のレッテルのもと、「神話は歴史ではない」「神武天皇は実在の人物ではない」「天皇制の復活をはかるもの」「戦争への逆コース」などなど社会党を中心に反対意見が多く、制定には昭和41年までかかりました。今回初めて気がついたのですが、「建国記念日」ではなく「建国記念の日」と「の」の字が入っています。これは「建国されたという事象そのものを記念する日」であるとも解釈できるようにという、わかったようなわからないような妥協の産物だったようです。

 ところで明治政府が気にしたという諸外国の建国記念日を見てみると、

 アメリカは74日、「独立記念日」1776年独立宣言署名日、
 フランスは1789714日、フランス革命の開始日、
 イギリスは「聖ジョージの日」という宗教的なナショナルデーはあるが法定祝日ではないようです。
 
 ところでウィキペディアの建国記念日に載っている、106ヶ国の建国もしくは独立は、

 20世紀が圧倒的に多く76ヶ国を数えました。第二次世界大戦の結果多くの独立国が誕生したことがわかります。
 19世紀は22ヶ国、南米のスペイン、ポルトガルの軛を離れた国が大半です。
 18世紀は前述の米、仏2国、
 16世紀はスウェーデンとオランダ、
 スイスが13世紀、
 ハンガリーは11世紀、
 2011年に南スーダン、と合計105ヶ国。
 日本の紀元前660年というのは比べようのない年月で、今年は建国2676年になります。

 勿論神話の世界をそのまま事実とは言えないでしょうし、神武天皇が137才の長寿であったと丸のみにするわけではないですが、逆に神武天皇が架空の人物であったと断定することも出来ません。古代の王朝はエジプトもメソポタミアも歴史上の存在でしかありませんし、中国といえども国は次々と興ってはいますが、継続した国家の寿命は数百年で尽きています。ブルボン王朝のフランスをフランス人がどう見ているか、想像するしかないですが、「パリ祭」は革命記念日です。紀元前660年の211日に神武天皇が即位されたのが事実かどうかを論ずるより、神武天皇から今上天皇まで125代、2000年以上に亘って同様の国体が継続している事実を、ありがたく認識したいと思います。

 しかも特筆すべきは2000年を超える長い年月が、おおむね平和に保たれていることでしょう。日本中を巻き込んでの戦は、神話時代を除いて「壬申の乱」「源平の戦い」「南北朝時代」「戦国時代」ぐらいでしょうか。壬申の乱は1年、源平の戦いは義経の誕生から死までとすると30年、南北朝時代は南朝四代、北朝七代で60年、戦国時代は応仁の乱から徳川幕府成立までとすると、140年弱、合計するとほぼ230年。その間外国との紛争は663年の白村江の戦い、1592年から1598年の文禄慶長の役、1274年と1281年の元寇と4度、9年しかありません。2000年を超える歴史のなかで国内外で戦争をしていたのは合計240年、10パーセント以下です。

 明治になって日清戦争(1894年~1895年)日露戦争(1904年~1905年)第一次世界大戦(19141918年)日中戦争(1937~)大東亜戦争(1941年~1945年)と戦争続きのような印象を持ちますし、戦後の学校教育もそのような傾向にあるようですが、明治以降現在まで148年の間、戦争状態になっていたのは14年、ほぼ130年は平和裏に過ごしてきました。

 そして諸外国の建国記念日や独立記念日はほとんど、植民地からの独立の日や、独裁者からの革命記念日をあてている。日本は幸いにも植民地になったこともなければ、過激な独裁者に人民が極度に迫害された事もない。敢えて建国の日をたどれば古事記、日本書紀という歴とした文献に求めるほか無かった、というのが唯一の理由だったように考えられます。改めてこの国に生を受けたことに感謝したいと思います。

サウジアラビアとイランの外交断絶(スンニ派とシーア派の宗教対立?)、イスラミックステートの存在とそれをめぐるアメリカとロシアのつばぜり合い、AIIB(アジアインフラ投資銀行)の開業など従来の欧米の価値観にクサビを入れたい中国の思惑など、現在の世界情勢は従来の考えでは律しきれない複雑な要素に満ち満ちています。

 

今から思えば、こういう混乱の始まりだったように思える出来事が1985年に起こっています。覚えていらっしゃいますか。イラン・イラク戦争の停戦合意が破棄され、サダム・フセインが48時間後にイラン上空を飛行するすべての飛行機を無差別攻撃すると宣言。各国では救援機を飛ばして自国民を次々とテヘランから脱出させる中、就航便の無かった日本は迅速な対応が出来ず、300人ほどの日本人が戦火の中に取り残されそうな事態になっていました。このときトルコ政府はいまだトルコ人も残留している中、95年前にトルコ人に示した日本人の人情に応えるべく、日本人のために救援機を飛ばしてくれました。

 

この映画「海難1890」は日本人は勿論、現在の混乱している世界の人々にも是非観ていただきたい映画だなぁと思いました。ご存知のように話は、明治時代トルコ軍艦エルトゥールル号が串本沖で台風のため座礁し漂着したとき、紀伊大島の村民が総出で救助にあたった感動的な物語です。まったくの余談ですがこの紀伊大島、「ここは串本 向かいは大島 仲をとりもつ 巡航船 アラヨイショ ヨイショヨイショ ヨイショヨイショ………」の大島だと初めて気がつきました。

 

この映画を制作するきっかけが、パンフレットの中で語られていますが、これもまた感動ものです。企画の発端は2002年田嶋勝正町長が大島村樫野のお寺で、一通の手紙を見つけたことから始まりました。それはエルトゥールル号の遭難者を治療した村医者たちに治療費を請求するように、というトルコ政府からの手紙とその返書の写しでした。その返事は「目の前に苦しんでいる人がいたから助けただけで治療費は必要ない。」という内容でした。この心意気に感動した町長は大学の同級生で映画監督の田中光敏氏に、映画化への思いを綴った手紙を送りました。

 

その後、田中監督は「トルコと日本、2国間の話ではあるが、普遍的な人間の真心の物語」という映画のテーマを見出し、本格的に映画化へ向け始動。2010年、串本町で開かれたエルトゥールル号追悼120周年記念式典の席上、仁坂吉伸和歌山県知事や田嶋串本町長とともに関係者に企画書を配り協力を募りました。そして当時のトルコの文化観光大臣の後押しや、地方自治体、企業、団体など多くの人々から賛同を得て国家級ともいえるプロジェクトとなり、20141214日にクランクイン、201512月に封切りされました。

 

物語は小松宮彰仁親王のオスマン帝国(トルコ)訪問の返礼に日本に派遣される、オスマン帝国海軍のエルトゥールル号の人間模様と、紀伊大島の村人の素朴な生活が同時進行で進んでゆきます。当時の機帆船フリゲート艦での600人にのぼる乗組員の11ヶ月に及ぶ航海は、それなりの覚悟を乗組員に要求されたことなどが画面の対話などから想像されます。まったくの寒村だと思っていた紀伊樫野村に遊郭が登場したのは吃驚でした。しかし大島港は江戸時代から風待ちや避難港として廻船が多く寄港していたことや、捕鯨基地があったと聞くと納得できます。

 

遭難後は一気に画面に緊張感がみなぎります。内野聖陽演ずる医師、次々に運び込まれるけが人を、言葉の壁を乗り越えて、村人を指揮して治療にあたります。笹野高史演ずる村長は貴重な備蓄食料や衣類を惜しげもなく提供し、村人たちの献身をバックで静かに支えています。許婚を海難事故でなくし、言葉を失った女性を忽那汐里が健気に医師の助手を務めます。海難で体温を失った人には当時は常識であったと思われる、肌で肌を温める役を、夏川結衣演ずる遊女が文字どおり「一肌脱ぎます」。トルコ海軍の機関大尉を演ずるケナン・エジェは任務を果たせなかったことと、自分が生き永らえていることで絶望感にさいなまれますが、村人の温かいもてなしに徐々に心を開いてゆきます。

 

そして映画の後半、一世紀を隔てた1985年のテヘラン、日本人のイラン脱出劇をケナン・エジェ演じるトルコ大使館員と日本語学校教師忽那汐里が心温まる物語を演じてくれました。

 

突然ですが「抑止力」という言葉が浮かんできました。抑止力を辞書で引くと「DETERRENT」と出てきました。「DETER」という動詞は「恐怖、不安などが(人)に(…するのを)思い止まらせる、やめさせる。」という意味だそうです。だとするとこれを安易に使うのは日本人として問題だな、と気付きました。「恨みをもって恨みを返さず、仏門に入って私を弔え。」と法然上人の父上の最後の言葉だそうです。この映画にあるように日本人はもともと素晴らしい「人情」をもっています。夢物語とは思いますが、この「人情」を世界に発信し輸出し、世界中の人々が当然、人として持っている「HEART」と同調出来ないものでしょうか。