行雲流水 ~所長の雑感~ -3ページ目

行雲流水 ~所長の雑感~

松田進税理士事務所 所長の松田が日々思うことを思うままに綴った雑記帳

同志社大学ヨット部がオックスフォード大学のヨット部と、定期戦を始めて今年は30週年を迎えます。京都の公認会計士、中野先生(同志社会計人会の初代会長)と親交のあった、オックスフォード大学ヨット部OBで勅許会計士だったスネリングさんの一人息子、ジョン・フィリップが日本の学生とセーリングを通じての交流を図りたいとの思いに、同志社ヨット部OB会が応えて始まったものです。1989年たまたまジョン・フィリップと同い年の私の長男、哲也がキャプテンとして、第1回の英国遠征に8名で行きました。それ以来日本、英国、休みと3年周期で交流を重ねました。昨年は同志社がイギリスで、今年の秋はオックスフォードが日本でそれぞれ10回目の記念すべき定期戦となります。

 

 そんな訳でオックスフォード大学には親しみを感じているところに表題の本が出たので、買って読んで見たところ、我々の考えている大学の概念とはまったく違うということが分かりました。この本はたまたま2016年、2017年とタイムズ・ハイアー・エデュケーション・ランキングで世界一の大学に選ばれたのを機に、OBでイギリスの新聞の東京特派員だったコリン・ジョイスさんが「オックスフォード大学は、世界に名だたる優秀な大学だ。だが圧倒的多数の人は、この大学のしくみに関する知識に乏しいか、ほとんどなにも知らない。………それがこの本を書いた理由だ。この大学が何故特別なのかを説明し………なぜ世界一の大学に選ばれたのか、それを見抜く手がかりを提供したかった。」とこの本の「はじめに」書いています。ジョイスさんのオックスフォード大学在籍は、1989年~92年、なんの関係もありませんが、たまたまこの定期戦の始まりと期を一にしています。

 

オックスフォードで最初のカレッジは1249年のユニヴァーシティ・カレッジ、2番目は1263年ベイリオル・カレッジ、一番最近は2008年のグリーン・テンプルトン・カレッジと800年近くをかけて38のカレッジが自然発生的に出来て、オックスフォード大学を構成しています。ケンブリッジも似たようなものらしいですが、これは日本は勿論、英国でも他の大学の創立の事情とは極めて違った特徴でしょう。そして入学試験も勉強も卒業試験もすべてカレッジ単位で行われているそうです。

 

オックスフォード生の日々の中心をなすのはチュートリアル(個別指導)だそうです。チュートリアル、一流の学者による個人レッスンとでも言えばいいのでしょうか。学生は自分の専攻の専門家であるチューターと1時間すごす。学生が自分の小論文を読み上げ、続いて討論に入る。最後にチューターが次の課題を選び、長大な課題図書のリストを渡し、小論文の論題を設定して、1週間後の再会を約束する。これを知って長年、個人的にオックスフォード大に関して湧いていた小さな疑問がすべて腑に落ちました。

 

一つは初めて哲也がオックスフォード大学のキャプテンの部屋に夜中近くに着いたとき「今からしたいことは」と聞かれて「疲れているから寝たい」と答えると「それはラッキー、俺は今から勉強するから」と答えがかえってきたこと。二つ目は19953回目の遠征に私が帯同したとき、オックスフォードの街でレストランや書店できびきび働く若い人々を見て「彼らはオックスフォード大学の学生ですか」と聞いたら「オックスフォード大学の学生は(勉強に)忙しくて(アルバイトなど)出来ない」という返事が返ってきたこと。三つ目はこのときの定期戦の途中で、オックスフォード大学のキャプテンが、先生に会うという理由でリタイアしてしまったこと。すべて真面目はいいけど「ガリ勉」過ぎない?という印象が残っていたのです。

 

 講義もあるがチュートリアルを補う二義的なもので履修は義務付けされないし、出欠もとらない。しかしチュートリアルは別。欠席は勿論のこと、やるべきことをやらずに出席すると一大事、叱責は勿論のこと、公式の警告や懲戒処分、さらに退学もあり得る。

 

なるほどこれは厳しい。1週間の勉強の締めくくりであり、次の1週間の勉強の始まりでもある。ジョイスさんはこのやり方で、独自の考えが大部分の小論文が仕上がり、独立独行の精神と自立した思考が養われた、といいます。私の学生時代、ヨットと麻雀に明け暮れ、期末試験の直前に教授の著書を流し読みし、一夜漬けでも何とかなったのとは、大違い。まさに長い伝統に支えられた、世界一の大学に恥じないシステムのようです。

 

この本には硬い話ばかりでなく、次の天皇ご夫妻が在籍されたとか、過去現在の卒業生の世界の政治家や有名人、ザ・ボートレースとして名高いオックスフォードとケンブリッジの対抗戦の話、カレッジには必ず学生用のバーがあり学生が自主運営し、その資金で奨学金がでる、日本の大学にはバーが無いので驚いた、など、興味のある話題が一杯。おまけにオックスフォード市の観光案内までついています。一読されるのも一興かなとも思います。

 

京都・亀岡の楽々荘、夕方5時半の約束に少し遅れて到着し、「豁友会です」と告げると、すぐに庭園に案内されました。庭師の方がメンバーに青い木の葉の裏に、細い枝でなにやら字を書いています。タラヨウ、ジカキバと読めました。多羅葉(タラヨウ)はこの木の名前、ジカキバは字書葉だそうです。葉の裏面を傷つけるとその部分のみが黒く変色し、長期にわたって残るため、戦国時代にはこの葉を矢で送り情報交換をしたとか、葉書の語源になったとか、珍しい話にびっくり。今でも切手を張って投函すればちゃんと配達してくれるそうです。ところでこの楽々荘、みどり会タイムズでは、24年前にご紹介しています。みどり会の秋のレクレーションに保津川下りを企画し、昼食をここで頂きました。   

 

重複を恐れず改めてご紹介しますと、明治、大正期に政財界で活躍した田中源太郎氏は、旧山陰線を敷設したことでも良く知られています。楽々荘は氏の自宅と迎賓館として建てられたもので、1997年には国の登録有形文化財に登録されています。またその650坪の庭園は、七代目小川治兵衛の作で、保津峡に見立てた池泉回遊式庭園です。亀山城から移設した豊臣の紋入りの春日燈籠や、鉄製井筒、樹齢360年の松をはじめ、桜、さるすべり、くろがねもち、ザクロなどで飾られ、タラヨウはそのうちの一つ、その説明の途中だったようです。

 

ところで「豁友会」は同志社大学経済学部のゼミの同窓会で、「西村カッツー」先生の「豁」を名前に頂いています。ほぼ毎年のように開いていたのですが、先生の没後しばらくお休みしていました。ところが豁友会のメンバーの一人、小嶋敦司さんが「がんこ」の「お屋敷」シリーズの10番目として、「がんこ・京都亀岡・楽々荘」を3月7日から新開店しているとのことで、久しぶりの有志の集まりとなりました。

 

京都の方は「がんこ・高瀬川・二条苑」は良くご存知と思います。豪商、角倉了以の別邸あとの情緒あるお屋敷と庭園でなかなかの趣があります。なかでも私が感嘆するのは、鴨川の納涼床の下を流れるみそそぎ川は、実は鴨川の水を高瀬川に流す角倉了以の工夫の名残りです。みそそぎ川の真の目的は、賀茂川から取り入れた水を、二条あたりから傾斜した水路に流し、その勢いのまま二条苑に駆け上がり、自然に庭を潤しながら4百年も変わらず高瀬川へと流れています。

 

今回初めて伺ったのですが、二条苑は、お屋敷シリーズの2番目だったそうです。1番目は大阪の「がんこ平野郷屋敷」。平野郷の豪商、辻本家屋敷で江戸時代初期の建築だそうです。3番目「がんこ三田の里」は三田の大原城跡の曲輪や土塁の残る大原邸跡に。4番目は和歌山の「六三園」5番目は兵庫の「宝塚園」6番目は岸和田の「五風荘」7番目は新宿の「山野愛子邸」8番目は大阪池田の「石橋苑」9番目は武蔵野の「立川屋敷」そして10番目が「楽々荘」でした。

 

旨くて安い寿司チェーンとして大阪で評判になっていた「がんこ寿司」が京都で和食の店、三条本店を出店する前後、小嶋さんと個人的に話した記憶があります。小嶋さん曰く、「京都で京料理の店を出す、言うたら反対意見がごまんと来ました。」「しかし京都の人でも京料理を食べてる人はごく一部の限られた人達、本物を一家族(3人~5人)1万円から2万円にすれば、新たなファミリーの需要が生まれる。」「京都の人と京都へ来る人々に本物の京料理を手軽に食べてもらいたい。」そう言われて見れば、料亭には何度もお邪魔してはいましたが、ほとんどが税理士会やその他の団体の忘年会や親睦会、家族で料理屋へ行くのは法事ぐらい、なんとなく図星を刺されたような記憶が残っています。

 

同志社在学中から飲食店の起業を目指し、大阪の街で繁盛店の客単価や料理やサービスの質、家賃や人件費まで調査を続け、寿司が一番粗利益率がいいと決断されたそうです。当時寿司の値段は魚の仕入れ値が季節や大漁不漁などによって大きく変動するため、仕入れ値によって値入をするのが寿司屋の常識。値段の書いてない寿司屋へ入るのはかなり勇気がいったものです。そんな時代にそんな寿司屋の常識を初めて撤廃したのが「がんこ」でした。開業時にも京都進出の時でも小嶋さんの的確なマーケティング力には驚くばかりです。

 

 今回のお屋敷シリーズも小嶋さんの確かな思い入れがあるようです。日本の食文化を若い人々に伝えるとともに、先祖が残した素晴らしい伝統建物を生かしてゆく。寺院などは文化財として存続できますが、民間家屋はどんどん消えてゆきます。生活文化を丸ごと残したいとおっしゃいます。風情を感じつつ、いただくごちそうはまた格別でした。二条苑とともに楽々荘も是非お訪ね下さい。

 

妙覚寺と妙顕寺は共に日蓮宗の総本山で、私の家の至近にあります。特に妙覚寺はうちと地続きで朝な夕な読経の太鼓の音が間近に聞こえます。妙顕寺の境内の桜は見事で今年は一週間以上、長い時間楽しませてくれました。両寺とも非公開寺院で普段は境内も静かなのですが、妙覚寺は1月から2月にかけて、妙顕寺は3月から4月にかけて春の一般公開をしたため、普段は静かな町内に観光客の姿であふれていました。

 

私も新聞で紹介のあった、狩野元信の「釈迦涅槃図」を妙覚寺に、同じく元信の「文殊・普賢菩薩像」を妙顕寺に拝観に行きました。有名な長谷川等伯の「釈迦涅槃図」は妙顕寺のすぐ近くの本法寺で、専用の建物の中でいつでも(本物は3月から4月に、その他はレプリカ)見られますが、妙覚寺のそれは5.9メートルと4.6メートルの大きさ、本堂脇の廊下に、上部を竹に巻き付け、下部を床板に垂らしながら、展示してありました。450年振りの初公開だそうです。間近に見るそれは本法寺とまた違う迫力がありました。妙顕寺の「文殊・普賢菩薩像」も450年振りの公開だそうです。左上手から雲上の白象に乗り地上へ向かう普賢菩薩と、地上で獅子を従え普賢を迎える文殊菩薩が対になっている二面の水墨画はなかなかの迫力でした。

 

妙顕寺の他の部屋に二振りの日本刀が、半ばまで抜かれた状態で無造作に置かれていました。日本刀は何度も見ていますが、大抵はガラス越しに、ガラスは無くとも手の届く距離で見たのは初めてです。手に取りはしませんでしたが、何故置かれていたのか、帰りの窓口で一枚のポスターを見て謎が解けました。私の目に飛び込んできたのは、BE A SWORDSMITH(刀鍛冶になりませんか)でした。妙顕寺の公開の一環として公開期間中の3月24日と4月7日の土曜日に作刀体験のワークショップが開かれていたのです。早速申し込んで4月7日の午前中、妙顕寺に出かけ、作刀してきました。

 

刀工の中西裕也さん。南丹市出身で中学生のころ、日本刀に魅せられ入門、7年間の修行のあと、2014年に亀岡市で「将大鍛刀場」を立ち上げ、京都府で唯一日本刀を制作しているそうです。オーダーメイドで日本刀を作る傍ら、「日本文化を知るきっかけとなればと」と外国人向けの鍛刀体験を受け入れているそうです。だから英文のパンフだったのですね。

 

7日午前10時、妙顕寺の庭に出向くと、刀工の中西裕也さんと男性2人女性2人の助手の方が待っていました。三基のコンロに桜の炭が盛られ、ふいごにつながっています。三人が揃うと簡単な説明があります。まず作刀過程は①鍛錬②火造③土取④焼き入れ・焼き戻し⑤研磨⑥銘入れ、だそうです。鍛錬は原料の鋼を大鎚で叩き、鍛え上げ、硬軟の鉄を組合せ伸ばす、いわば原料造り。火造は鉄を手鎚で刀の形に整え、反りを付ける。土取は「焼き刃土」と言われる刀鍛冶が独自に配合した粘土を刀に塗る。この土が刃文になる。焼き入れ焼き戻しは750~800度に熱した刀全体を水に入れて急冷させ強度を上げる。研磨、銘入れは文字どおり。われわれは②④⑤を体験しました。

 

まずは「火造」長さ40センチぐらい、直径1センチ弱の丸い鋼をコンロに入れふいごで熱します。真っ赤に焼けたところで、採り出し手鎚でガンガン叩きながら小刀の形に整えて行きます。硬い鉄が力は要りますが、粘土の様に形を変えてゆくのは初めての経験で結構面白い作業です。何回繰り返したか分かりませんが、ようやく丸い鋼の先、10センチ余りが小刀様になったところで先生が形を整えてくれました。先生が土取りをしてくれた後、焼き入れ・焼き戻しです。小刀を熱しては水に入れ、熱しては水に入れ、薄く塗った粘土と熱く塗った粘土の境で強度の差が出来、刃文が出来る。研磨はサンドペーパーと砥石で磨き上げ、ピカピカに光って来ました。先生に松の銘を入れてもらい、取っ手にひもを巻き上げ、私の最初でおそらく最後の刃物作りが完了しました。

 

この間約1時間でした。費用は基本的な小刀作りが5000円、箱、敷物、玉鋼など付属品が各1000円に消費税、計8960円でした。結構面白いので経験してみたい方には連絡先をお教えします。(刀工 中西裕也 070-5653-7109)他に3日間、45万円で本格的な刀造りコースもあるようです。

 

ようやく、使える事業承継税制が平成30年度から始まります。同族中小企業の会社の株式の評価額は、業績を上げるにつれて上昇してゆきます。皆さんの会社の資本の部の合計をご覧ください。基本的には(資本の部の合計額÷資本金)が一株当たりの額面の倍数になります。また土地などの不動産は時価で評価しますので、貸借対照表の資産の部の金額はその分上昇し、評価額を高めます。そして相続税または贈与税が課税される場合、財産の価額に、現金、預貯金、有価証券、土地、建物などに加えて、同族会社の株式を加算します。

 

同族会社の株式以外の資産は換金が可能で、相続税の担税力を持っていますが、同族会社の株式は基本的に換金不可能です。そこで20世紀末のバブル期、いろいろな節税対策が打たれましたが、必ずしも有効な対策とは成り得ませんでした。税制も何回も変わりましたが、いずれも及び腰で、少額株式の暦年贈与以外、我々が自信を持ってお勧めできるものはありませんでした。しかし今回ようやく使えるものが発表されました。必要な会社にはこちらから積極的に提案してゆきますが、興味のある方は巡回監査担当者にお尋ねください。

 

概要を説明します。まず事業承継時に、先代経営者から贈与または相続された非上場株式は、従来は猶予対象が53%でしたが、上限を撤廃、100%が納税猶予になります。次に最大のネックだった、雇用の8割を維持できなければ、猶予された贈与税、相続税を全額納付、を事実上撤廃。維持出来ない理由につき、認定経営革新等支援機関(当事務所を含む)の指導、助言を記載した書類を都道府県に届け出すれば可。三つ目は贈与者は親族外を含む複数の株主から、受贈者は複数の後継者(最大3人)も可、親族以外でもOK。

 

一言で言ってしまうと、同族株主の後継者への株式の相続、贈与は、納税猶予というしがらみは残りますが、事実上無税ということです。長年の間、日本経済の発展に最大の寄与を続けてきた、優秀な中小企業に無用の税負担を課してきた悪税が、ようやく終了しました。もっとも長年のデフレで中小企業の活力が衰え、後継を希望する子弟の減少傾向に、このままでは日本の中小企業が激減するとの危機感に慌てて立案したのではないかと、勘ぐっているのですが。

 

ただし根本的に制度が変わったわけではありませんので主に2点、注意が必要です。まず10年間の特例措置なので制度の適用を受けるためには次の承継計画を作成し提出しなければなりません。そして特例承継期間終了後に、その会社の株式譲渡、合併により消滅、もしくは解散するとき、も注意が必要です

 まず、平成30年1月1日から平成39年12月31日(その時は平成からどんな年号になっているのでしょうか)までの時限立法です。今後5年以内に(平成35年3月31日まで)「特例承継計画」を都道府県に提出することが必要です。「特例承継計画」とは認定経営革新等支援機関(当事務所を含む)の指導や助言を受けた特例認定承継会社が作成したものであって、その承継会社の後継者や承継時までの経営見通し等が記載されたものを言います。これは後継者が特定され、株式の贈与時期が決まれば、御社と当事務所の打ち合わせでスムーズに進めるのにそんなに支障はないものと思われます。

 

承継期間終了後に、株式譲渡、消滅、解散するときは、納税猶予が消滅しますので、相続税、または贈与税を精算しなければなりません。これも改正前は、承継時の株価での精算だったのですが、かなりの税負担が予想され、制度実施のネックの一つでした。しかし今回は売却時や廃業時の株価で精算することになっているので、業績悪化での廃業については考慮されています。

 

どちらにしても5年間の時間はありますので、御社の事業承継について検討する時間は充分あります。この改正を機会に前向きにご検討ください。当事務所も最大限の協力を惜しみませんので、ご遠慮なくご相談ください。

世界中で地震、水害、難民など緊急事態が発生したとき、いち早く駆けつけ救援に当たる、国境なき医師団。世界中の派遣先では、フランス語の頭文字MSFが一番分かりやすいそうですが。なにが動機か忘れましたが、MSFの素早い救援活動に感動して、ほとんど衝動買いとも言えるような、ささやかなドネーションを始めてから、何年か経っています。しかしどのような組織なのか、具体的にどんな活動をしているのか、ドナーの割には一向に無関心でした。

 

今年いとうせいこう、という方の「国境なき医師団を見に行く」という本が出ましたので、買って読んで見ました。その本の前書きに「……俺は団の活動が多岐にわたっていることを知り、そのことがあまりに外部に伝わっていないと思うやいなや、現場をみせてもらって、原稿を書いて広めたい、と逆取材の申込みをしていたのだった。」ということで、皆さんにも少しでも知っていただきたく、超縮小版で団のご紹介をして見ます。

 

MSFは1971年フランスで発足、2016年現在、OCP(オペレーションセンター・パリ/フランス)OCB(オペセン・ブリュッセル/ベルギー)OCA(オペセン・アムステルダム/オランダ)OCG(オペセン・ジュネーブ/スイス)OCBA(オペセン・バルセロナ/スペイン)の5つのOCが企画・運営し、28ヶ国に事務局があり、その一つに日本事務局がある。そして現在71の国と地域で活動を続けている、そうです。

 

いとうさんの最初の訪問地はハイチ共和国。ハイチはカリブ海の黒人の国という知識しかありませんでしたが、黒人奴隷がナポレオンのフランスに反旗を翻し、アメリカの次、世界で2番目に独立した共和国とは今回初めて知りました。現在も政治的にも不安定、治安も悪く、MSFのメンバーも白い車体に赤文字でMSFと書かれたトヨタの四駆でしか外出できないそうです。ハイチに大地震が起こったのは、2010年。それから活動を始めたMSFは現在も、コンテナを連ねた病院にベッド数121、外国人スタッフ20人、現地スタッフ500人で毎月600件の手術をこなしているそうです。

 

まず最初の目から鱗。緊急時に現地入りして、さっと引き上げるという印象が、一掃されました。そして外国人スタッフ20人のなかで医師は3人看護師2人、あとは供給、管理、輸送、電気技師など、当たり前のことですが、一つの組織を運営するチームが作られているのも良くわかりました。日本人は女性看護師1人、アメリカ人の管理責任者、スーダンなどアフリカから3人、あとは全てヨーロッパから。オペレーションセンター5つがすべてヨーロッパですから、当然のことなのでしょうか。インタビュで興味があったのは、女性看護師2人(フランスと日本)が二人とも「MSFに入りたくて看護師になりました」と答えていたこと。もう一つは64歳のドイツ人のエンジニア、「60歳をすぎて誰かの役に立ちたかった、そして時が満ちた。そして私は今ここにいる。」

 

そしていとうさんは2016年4月にギリシャへ行きます。11月にはフィリピンへ、17年1月にはウガンダへ。ギリシャでの問題は、アフリカや中東やトルコからヨーロッパに流れ込んでくる難民です。地中海を不完全なボートで避難し、転覆、漂流している映像は何度もわれわれは見ていますが、ヨーロッパの諸事情でギリシャに留まる難民が数十万、いまだ増え続けているようです。生まれた国を家族ともども、場合によってはばらばらに避難するのは人間としての尊厳、生存権をも奪い去る過酷な現実です。

 

フィリピンでは貧民街の増え続ける子供対策として、ファミリープランニングをMSFがやっています。要は性教育です。そしてウガンダは南スーダンの戦闘地域から逃れてくる避難民です。現在の世界の抱える問題をMSFは微力ながら、それぞれに抱えて頑張っているようです。

 

「MSFを聖人君子の集まりみたいに見ないで欲しいんです。こんな風にいつもビール飲んで、文句たらたら言って、悪態ついて、それでも働いているんです。『国境なき医師団』てなんか四角い感じじゃないですか。でも海外ではMSFなんです。もっと丸いっていうか、日常的な活動だし、集団なんです。」これはフィリピンでの看護師、菊池寿加さんの本音のようです。もう一つ、実際にお金の動きを見ている物資調達関係者の在日韓国人ソン・ジョンイルさんの「世界各地のMSFが一番乗りして困っている人を救援出来るのは、寄付してくださる人がいるからです。皆さんが思ってらっしゃるよりその力って凄いんです。」を紹介して終わります。

              …………

簡単でしたがMSFについてイメージは湧いたでしょうか。わたしのドネーションはわずか月3000円です。賛同される方は是非よろしく。