2015・8・15 大東亜戦争が終わって70年が経ちました。8月8日(土)「日本のいちばん長い日」が封切りされ、13日(木) 見てきました。15日(土) 京都文化博物館フィルムシアターで昭和42年版「日本のいちばん長い日」が上映され見てきました。
昭和天皇を
本木雅弘/松本幸四郎(八代目)
鈴木貫太郎首相を
山崎努/笠智衆
阿南陸相を
役所広司/三船敏郎
とそれぞれ見事に演じきっていました。昭和天皇は42年版では姿だけで、セリフがありませんでしたが、今回は重要な役どころを正面から捉えています。
この映画は半藤一利の著書「日本のいちばん長い日」をベースに、ポツダム宣言から玉音放送に至るまでの、短いながら極限まで緊迫した日々を描いたものです。70年後の8月15日を映画館の中で過ごしながら、現在の日本はまさにこの日から始まったのだなと感慨に耽っていました。そして当時の8千万人の日本人の一人としての私の人生もこの「玉音放送」がなければ、今とは随分違っていたろうし、命さえ永らえていたかどうか。
現在、玉音放送を聞いた人、また記憶のある人もごくわずかになってきているように思われます。私ははっきりと覚えています。高辻通
中新道(七本松)の角の電気屋さんがラジオを外に向けてくれていました。重大放送があると前日に放送があったので気をきかしてくれていたのでしょうか。勿論ザーザー、ザーザーと雑音ばかりでなにも分かりませんでしたが、妙に緊張していた記憶があります。映画のパンフレットの中で作家の五木寛之さんが、北朝鮮の平壌の中学校の校庭で聞いたと書かれていますが、国内だけではなくNHKの短波がワールドワイドに流れていたんだと改めて知りました。
私は当時国民学校2年生、昭和20年の3月に京都での1年生の修了式を待たずに「田舎へ行けばごはんが食べられるよ」という言葉に飛びついて、滋賀県真野の叔父の家に厄介になっていました。当日はお盆の墓参りに京都へ帰って来る途中でした。真野国民学校と真野小学校には結局2年生と3年生の2年間世話になりました。
真野での戦争体験は昭和20年の3月、4月以降ですから、大阪などを爆撃したB29の編隊が毎日のように比叡山を超えて伊勢湾方面に琵琶湖上空を通過してゆきます。比叡山の高射砲陣地からは、高射砲弾が打たれてはいるのですが、機体のはるか下で花火のように炸裂しているだけ、一回だけ一機のB29が煙をはいて編隊から遅れだしたのを見たことがありました。夏が近づくにつれてグラマンヘルキャットや双胴のロッキードP51などの戦闘機群が、秋の赤とんぼのように上空を舞うようになりました。近くに工場や軍事施設の無いところですから子供たちも別に怖がりもせず、外で遊んでいました。ところがそんなうちの一機が我々めがけて定針すると、一気に急降下してきました。瞬間、殺気を感じた私たちは左右の田んぼに跳びこんで頭を抱えていました。飛び去った後、道路に上がると、こぶし大の穴が2列20メートルぐらい空いていました。
夏休みが始まる前、修了式で「鬼畜米英」と訓示されていた先生が、9月の始業式には「アメリカさんと仲良くしましょうね」とおっしゃったのにもびっくりしましたが、これには後日談があります。私はその後京都へは何回か行き来していましたので、米兵が意外にやさしく、うまくゆけば「ギブミーチョコレート」の世界があるのを知っていました。遠足で国道161を歩いていたところ、遠くにジープの砂煙がみえました。「チャンス到来、ギブミーチョコレート」と思ったとたん、先生が「田んぼに隠れろ」と大声で命令しました。当時の情報格差で仕方ないとはいえ、大人や権威に対する不信感が芽生えた瞬間でした。
ところで70年という歳月はかつてソ連邦という世界を二分していた国の存続期間です。日本も70年の歳月の後、国の将来を左右しかねない、重要な法案が審議されていますが、どうも議論がかみ合っていません。日本国憲法、特に9条は日本がアメリカに向かって二度と歯をむかないように、アメリカが強制して生まれたもの。そしてその憲法に明らかに違反している自衛隊は、朝鮮戦争という共産圏(背後にはソ連)の脅威に対し占領国アメリカの意思でつくられたもの。
この2点を掘り下げないで、個別的か集団的かなどと枝葉の議論に終始されていては意味がありません。いまこそ憲法改正も視野にいれて、この日本の国造りをいかなる方向へ向けるのか大きな決断のときでもあります。9条の「……戦争と……武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」はクラウゼヴィッツの戦争論「戦争は政治の一手段である」の対極の文言として生かし切りながら、新しい日本と世界を模索できないものでしょうか。