行雲流水 ~所長の雑感~

行雲流水 ~所長の雑感~

松田進税理士事務所 所長の松田が日々思うことを思うままに綴った雑記帳


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1962年「太平洋一人ぼっち」堀江謙一のマーメイド号による太平洋横断で、クルーザーによる航海が日本でも認知されました。1966年にはイギリス人・フランシス・チチェスターがヨットでの単独世界一周を成し遂げ、世界は驚かされました。それを受けて1968年、サンデータイムズ紙が単独無寄港世界一周レースを主催し、イギリス人ノックス・ジョンストンが優勝します。1962年は私は税理士試験の真っ最中で琵琶湖とは完全にご無沙汰でしたし、琵琶湖にクルーザーはただ一艘浮いているだけでした。しかし1965年頃から日本でも各地でクルーザーのレースが盛んにおこなわれ、1968年には琵琶湖縦断のレースも始まっていました。私もそのころにはメンバーに加わってレースにも出ていましたので、そんな海外のニュースにも敏感に反応していました。

 

表題の映画は、その世界初の単独無寄港世界一周レースの物語と聞いて、楽しみに出かけたのですが。まったく想定外の展開で、しかも実話と聞いてまた吃驚。英国では当時話題にもなり、書物もありテレビドラマにもなった有名な話だったそうですが、寡聞にして私はまったく知りませんでした。日本では報道されなかったのかも知れません。

 

物語はサンデータイムズが5000ポンドの賞金を出して、「ゴールデン・グローブ・レース」単独無寄港世界一周レースの参加者を募集する場面から始まりました。そのレースにいち早く申し込んだのがドナルド・クローハースト。船舶用の位置測定器を開発して会社を立ち上げたものの事業は行き詰まっていました。5000ポンドの賞金と、妻と幼い3人の子供たちに名誉を送ろうというのが動機でした。ドナルドはほんのウイークエンドのアマチュアセーラー、そのことが話題を呼び、資金も集まりマスコミは宣伝媒体に祭り上げる。紆余曲折はあり、迷いもあったもののスタートの日を迎え、町の人々と家族の盛大な見送りを受けて出発します。

 

(閑話休題。画面でそのヨットを見たとたん、私は眼を疑いました。というのはトリマラン〈三胴船〉だったからです。カタマラン〈双胴船〉やトリマランのヨットはハワイあたりでよく見かけますが、静水の順風では良く走りますが、風上へ切り上がる能力は完全に劣ります。南氷洋の荒海の航海に耐えられるのか、当時の情報不足が想像できます。)

 

出発はしたものの素人の悲しさ、次々と起こる故障に泣かされ、懸命に大西洋を南下するものの、向かい風に悩まされ一向に予定どおりには進みません。この当時GPSは勿論ありません。陸地との連絡は基地局を通じた無線電話だけ。喜望峰どころか大西洋で行きつ戻りつ、ついに彼は偽りの電信を打ち始めます。その偽りの位置報告による驚異的なスピードに地元英国内は大いに沸き立ちます。現実の航海と本国の熱狂との狭間で、ついに彼は大西洋に留まったまま、他の船のゴールに時間を合わせてゴールインしようともします。大自然の驚異と心の葛藤………。

 

事実は後日大西洋を漂流している無人のヨットを貨物船が発見、それが彼のヨット、テインマスエレクトロンでした。そのキャビンに航海日誌が残されていました。

 

ところでこのレースには9人が参加し、前述の通りノックス・ジョンストンがただ一人313日をかけてゴールインし優勝するのですが、その前を帆走(はしっ)ていたフランス人モテワシエはレースを放棄し一人、南太平洋タヒチにむかいます。「記録など意味がない。海にこそ幸せがあるから」だと。まさにロマンですね。残り6人はすべて遭難し棄権、当時の小さなヨットによる世界一周の過酷さがしのばれます。ノックス・ジョンストンは賞金5000ポンドをドナルドの寡婦と3人の子供にドネーションしたそうです。泣かせますね。

 

ところで1989年から4年に一度「ヴァンデ・グローブ」という名の「単独無寄港無補給世界一周ヨットレースが行われています。フランスのヴァンデ県をスタート。喜望峰、インド洋の南、南極に近いハード島、オーストラリアの南西ルーイン岬、南米大陸の最南端ホーン岬のチェックポイントを通過し、フランスへ。今まで8回開催されていますが優勝者はすべてフランス人。最初のころは100日前後でゴールしていましたが、最新の2017年にはなんと74日でゴールしています。

 

日本からは白石康次郎が挑戦しています。白石康次郎は1994年26歳の時、単独無寄港無補給世界一周を果たしています。2016年第8回のヴァンデ・グローブに挑戦しましたが、マストトラブルでリタイア。来年第9回のレースに挑戦するようです。上位チームの予算はほぼ10億。白石チームも3億5千万かかったようです。スポンサーとクラウドファンディングを募集しています。興味のある方はどうぞ。ドナルドの時代と違って、航海の過酷さは変わらないとしても、その気になればテレビの実況中継も可能だそうです。


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昨年12月18日、左眼だけ白内障手術をしました。これまで白内障手術の経験者の話によると、「世の中が一遍に明るくなった。」「白い色がこんなに綺麗に見えるとは思わなかった。」「ゴルフボールの飛んだ方向がはっきり見えるようになった。」とか、とにかく手術の前後では全く世の中の見え方が変化する様な話ばかりでした。私はというと、手術をする決心をした左眼の左上のもやもやが消え、決算書の数字のちらつきがなくなり、読書や仕事に必要だった近距離用のメガネが不要になりました。ゴルフボールがはっきり見えるかどうかはまだ試していません。(1月10日現在、術後約20日)しかし世の中の見え方が変わるほどの劇的な変化は感じませんでした。

 

そこで改めて経験者にくわしく話を聞いてみると、極端な方は「対向車のヘッドライトで一瞬目の前が真っ暗になった。」とか「電柱にぶつかってメガネが壊れ、殴られたような怪我をした。」とか相当重症になってから手術をされているようです。私はというと、45歳になった時から毎年人間ドックに入っていました。30年間、γ・GTP(アルコール性肝炎等に関わる指標)の数値が注意点を上回るぐらいで、幸いなことにほとんど問題なく過ごして来れました。75歳になった6年前、今さら癌になったところで5年、10年は過ごせるだろうし、下手に告知を受ければ余計な心配事が増えるだろうから、今年でドックは終わりと決めて受けたところ、眼科で精密検査を受けて下さいと初めてのチェックを受けました。

 

受診すると自覚症状は一切無いにも関わらず、白内障、緑内障ともに症状が出ているということで、その後6年間ほぼ2か月に1回眼科に通い目薬のみの治療を受けてきました。今回も昨年10月ぐらいに左眼のちらつきを訴えたところ、「まあ潮時かな。とりあえず左眼だけして見ますか。」ということで、バプテスト病院の紹介を受け、行ってきました。ということでぎりぎりまで我慢しなかった分、劇的な変化が感じられないのかも知れません。体にメスは入れたことがない、病院でのお泊りはしたことが無い、と勝手に自慢していたのですが、残念ながら傷は残っていませんが、多分メスは入ったのでしょうね。ただ日帰りを選択しましたので、病院でのお泊りはまだ経験していません。

 

以前(どれぐらい前か聞きそびれましたが)の白内障手術はただ見えるようにするだけだったそうですが、現在は汚れのついた水晶体を取り除き、レンズと交換するだけなので、焦点を遠くに合わせるか、近くにするか自由自在に出来るそうです。中には健康保険は使えないものの、遠近ともメガネの使用が不要なものもあるそうです、80万円ほどするそうですが。私は遠くはメガネを使用する方を選びました。説明書には8万円ほどご用意くださいと書いてあったのですが、実際に支払ったのは4万円ほどでした。8万円は両眼の費用だったのかも。

 

さて具体的な手術の段取りは、まずかかりつけの眼科の先生に紹介していただいたバプテストの先生に予約を取り、10月22日に診察と説明を受けに病院へ行きました。そこで先ほどの内容も含め説明を受け、手術日を12月18日(火)と決めました。それから逆算して12月10日(月)、手術に必要な検査と説明、12月19日(水)に術後の確認、その週一杯自宅で安静、12月28日(金)最終確認とスケデュールを決定。手術そのものは全く拍子抜けするほどシンプルでした。手術台に横たわって、左目に強烈な光が当たっているだけで、痛みもなく接触感もなく先生と普通に会話を交わしながら、いつの間にか終了していました、30分ぐらいだったのでしょうか。それよりも12時の手術に10時に行ってまもなく、処置室に呼ばれ10分おきぐらいに、目薬を差してもらっている間の方が緊張していたように思いました。

 

術後眼帯で左眼を覆いながら帰宅してから、渡された注意書きを守る方が大変でした。帰宅当日は風呂は勿論顔も洗うな、眼帯は寝るときも外すな、目薬は指定どおり指定時間にすること。手術翌日も首から下の入浴はOK、しかし顔は濡れたタオルで拭くだけ、目薬は指定時間に、指定どおりに。手術後2日目、洗顔洗髪OK、ただし目を押さえないように、目に水が入らない様に。28日に病院で検査してすべて問題なし。ただし目薬指しはいまだに面倒です。目の状態が落ち着いて、メガネを新調してゴルフボールの行方がしっかり確認出来るまでは、あと暫くかかりそうです。


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上記の案内に連れられて、122日指定時間の5時より少し前に、御幸町御池上るのスペイン料理店「ラ・マーサ」のドアを開けると、さっと2階へ案内されました。まだまばらな店内で、男性がギターを弾きながらきれいな高音でフラメンコを歌っています。自由に席に着くと、さっとアルコールのメニューが出されます。ビールを注文してまもなくスペイン料理のおつまみがどんどん出され、いつの間にか店内は満員になっていました。ほろ酔い気分になった頃、階下にお集まり下さいと案内があって降りてゆくと、3坪ほどの狭い舞台に、きれいな衣装をつけたフラメンコダンサーが3人と、歌手とギタリストが二人。もっともダンサーのうちの一人は10歳ぐらいの少女、多分親子でのステージのようです。ソロが3回、群舞が一度、目の前、1メートルか2メートルで見るフラメンコはなかなかの迫力でした。それから50周年のセレモニーが始まりました。

 

いつもの店での仕事姿とは見違えるような盛装のご主人と奥さん。便せんに丁寧に書かれた最初のお客様の祝辞を神妙に聞いてはおられましたが、途中で「一枚飛ばしてます。」と奥さんが注意されるほどの余裕もありました。これも古なじみのよしみなのでしょうか。ご主人のお礼の挨拶も、50年前、25歳の開店当初「夜が来るのが怖いの」という流行歌のとおり、「夜が来るのが怖かった」(お客さんが来てくれるかどうか)とか「夫婦二人の仕事は大変、客の前で喧嘩もできん。」とユーモアあふれる本音続きでしんみりと笑わしていました。けれど地元の消防団、夷川の職人さん、京都新聞や市役所の職員さんなどいろんなお客に囲まれて続けてこられたのだそうです。

 

「ふじ吉」は麩屋町二条にある寿司、割烹のお店。最初のご縁は何だったのかちょっと記憶にないのですが、今では家族は勿論、事務所の宴会、ときには税理士仲間など気軽に立ち寄れるので、よく利用させてもらっています。一応、寿司、割烹なのですが、頼んでおけば、すっぽん、鯨、蟹などなんでも用意してくれる便利なお店。そういえば顧問先の社長が鯨を食べようと、連れていってくれたのが最初のような気がします。

 

話は全然変わりますが、割烹料理とは物の本によると、目の肥えた客が板前にいろいろ注文を出し、板前がそれに応えてそれぞれの客に目の前で調理するのをいうそうです。ところが最近は目や舌の肥えた客が減り、客をカウンターの前に並ばせて一斉に次々と料理を出してゆく、割烹とはとても言えない店がはびこっていると、物の本は嘆いていました。

 

そこへ行くと「ふじ吉」はまさに割烹料理です。「おまかせ」で頼みながら、突然天ぷらが食べたくなって、注文するとさっと出てきます。一度など、家内が祇園祭のときの家のおばんざい、「はもをなすびではさんでたいたん、出来る。」と聞くと、「それ面白いな」とすぐ出てきて、今では定番商品の一つになっています。

 

ところで一口に50周年記念といいますが、一代で50周年を祝えるのは非常に珍しいケースです。まず若くしてそれなりの実力がなければ独立できません。半世紀の間には景気の変動も激しく、お客様もどんどん入れ替わって行きます。そして何より本人と奥さんが、心身共に健康でなければなりません。この三拍子を50年維持するのは稀有なことです。本当におめでとうございます。と思っていると宴たけなわの二階席で、某京都市会議員の先生の、ふじ吉の半世紀を読み込んだ相撲甚句が始まりました。なかなかのいいお声で長々と謡いこみます。目出度い席の相撲甚句、きちんと宴が引き締まりました。


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10月の中頃、下京税務署から電話がありました。税務署からの電話は珍しくもないことなので出てみると、税理士業務実態調査で当事務所を訪問したいとのこと。この調査が存在することは当初から知ってはいましたが、開業50年目にして初めて受けるとは、いささか面喰らいました。早速税理士法を開けてみると、法41条に帳簿作成の義務として「税理士は税理士業務に関して帳簿を作成し、委嘱者別に、かつ、一件ごとに、税務代理、税務書類の作成、又は税務相談の内容及びそのてん末を記載しなければならない。2前項の帳簿は、閉鎖後五年間保存しなければならない。」また法44条には「税理士に対する懲戒処分は、次の三種とする。一・戒告、二・二年以内の税理士業務の停止、三・税理士業務の禁止」とあります。いささか緊張しますね。

 

毎月、法人の申告はあります。2,3月の確定申告機には個人の申告が重なります。その一件一件に、内容とその顛末を記録し、保存しておくのはかなりの手数が必要です。これを業務処理簿と言いますが、大抵の税理士は横着をかましているようです、私もその伝に漏れませんでした。しかしTKC(飯塚先生といった方がいいのか)は有り難いところで、申告書を作成するごとに自動的に出てきます。私は毎月それに目を通し捺印していますので大丈夫のはずでした。

 

11月9日10時きっかりにノックの音がしてお見えになりました。お互いに名刺交換をすると、「下京税務署、課長補佐○○○」とあります。比較的お若い方でした。まず最初に国税庁の使命の説明がありました。「納税者の自発的な納税義務の履行を適切かつ円滑に実現する。」そのため①内国税の適切かつ公平な賦課及び徴収の実現②酒類業の健全な発達③税理士業務の適正な運営の確保。(ここまで書いて気がついたのは、たった三行足らずの役所の文章は漢字が多くて真っ黒ですね。私の平文と比べて見て下さい。)

さて「税理士業務の適正な運営の確保」のための質問が始まりました。あとで記録を見ると45件あったようです。大別すると外形的なもの(事務所の所在地、名称の確認や看板の設置場所、職員数、会計ソフトの種類の確認、パソコンの台数など)。職員への指導監督(就業規則の有無、指導監督の実態、研修の有無)前述の業務処理簿に代表される税理士法に定められた文書の作成、保存の状況、の三つだったでしょうか。

 

質問は多岐に渡りましたが、昔話や雑談も交えながら淡々と進み、ほぼ1時間ほどで終えました。私はそれぞれの質問に答えながら、その証明に一つずつ書類を提示し、了解を得るものと思っていたのに、現物での確認はほとんどありませんでした。いささか拍子抜けでした。というのも業務処理簿、毎月完璧に揃っているものと思い込んでいたのですが、ところどころ抜けがあったそうです。そう言えば申告の確認は厳密にチェックしていますが、処理簿の有無までのチェックはおろそかでした。それに対し何らかの注意や意見があるかと考えていたのに、期待外れに終りました。勿論質問のすべてに裏付けを取っていれば一日では終わらなかったでしょう。

 

それにしてもTKCシステムを、事務処理面まで完璧に使用していれば、法的にはほぼ完ぺきに網羅できていることに改めて気づきました。それにしても飯塚事件(飯塚毅会計事務所に対し、昭和38年に脱税示唆容疑で職員4名の逮捕で始まり昭和45年に終了した冤罪事件。)は関東信越国税局の直税部長が課長補佐時代に、日米租税条約の解釈で飯塚先生に論破されたことを根に持って、明らかに飯塚事務所つぶしを目的に起こった事件なので、脱税示唆容疑はもとより、細かい書類作成の漏れ、保存状況等に至るまで徹底的に調べたはずなので、それに堪え切れたのは飯塚先生の徹底した法律の読込と、それに基づく467ページにも及ぶ「飯塚毅会計事務所・管理文書」(わが事務所にも2冊存在していますが活用できてないのが恥ずかしいですね)の有効活用の結果だということが、改めて分かりました。

 

この種の調査は私が所長を続けている間はまずないでしょうが、事務所の存続と顧問先への責任を考えるとき、TKCシステムを完璧に使い、事務所防衛に遺憾なきよう手抜きをしないことを、全員で改めて確認しました。


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(今回も同志社と新島襄に関心のない方はスルーしてください)

 

同志社会計人会という集まりがあります。会長を2年交代で税理士、公認会計士が努めています。去年からの高橋会長の発案で、新島の足跡を訪ねようと、去年は生誕地東京、終焉の土地大磯、実家の安中を訪ねました。そして今年は出国の地、函館というわけです。

新島は1864年6月14日アメリカ船ベルリン号で上海へ、その後おなじくアメリカ船ワイルドローバ号で香港、マニラ、ケープタウンを経て1865年7月ボストンに到着します。来年以降「新島襄の足跡を訪ねて」はどこを訪ねるのでしょうか。新会長の胸三寸や如何に。

 

9月14日午後3時にホテルラビスタ函館ベイ、ロビーに集合。会長、副会長はじめ、今回の案内役百合野先生と東京から松本先生など20名ほどのメンバーの顔が見えます。先発の百合野先生によると、9月6日の地震の後停電が続いていたようなのですが、ようやく回復しつつあるようです。この日の夕方、函館山からの函館の町の灯はきれいに見えていました。さて坂の町、函館の健脚向き2時間のウォーキング・ツアーの出発です。

 

まず「新島襄海外渡航の地」の碑。碑の説明文の中に「男児志を決して千里を馳す 自ら辛苦をなめてあに家を思わんや 却つて笑う春風雨を吹くの夜 枕頭なお夢む故園の花」の漢詩に感激。出国(1864年6月14日)の翌年、香港での作だそうです。ホテルからほんの数分の岸壁にありました。すぐ近くにある小舟に乗りこんで外国船に向かう姿を再現したブロンズ像は港の改修中で白布をかぶっていました。

 

坂道を上った中腹に「諸術調所跡」の看板。説明文には、「函館奉行所の教育、研究施設。教授は五稜郭の設計で有名な武田斐三郎で蘭学はもとより測量、航海、造船、砲術、化学などをおしえた。新島が函館に来たのも諸術調所へ入るためで、新島が出国したのも武田がすでに江戸の江戸開成所(東大の前身)に転出していたため、とも言われている。」と書かれていました。

 

あちこち歩いてかなりお疲れが来たころ、ようやくハリストス正教会に着きました。ハリストス正教会は新島が武田不在のため、司祭ニコライの日本語教師を務めながら、ここに滞在していたそうです。この聖堂は日本ハリストス正教会の発祥の地にあること、19

83年には国の重要文化財の指定を受けていること、また大小六個の鐘の音が高い評価を得て1996年環境庁から「日本の音風景百選」に認定されていることなどの説明文がありました。心地よい鐘の音に送られてここを離れました。

 

翌朝、津軽海峡を渡り、本州最北端マグロの町、大間を経て、風間浦村の「新島襄寄港記念碑」を訪問。碑文によると安中藩の洋式帆船、快風丸で函館を目指した新島は強い北風と海流を避けるため、この村の下風呂港に寄港し下風呂温泉に2日間滞在したことが、航海中の日記「函館紀行」に書かれているそうです。午後遅く再び津軽海峡を渡り、明治維新最後の函館戦争の舞台、五稜郭を訪れ五稜郭タワーに上り、土方歳三の銅像に対面し、今年のツアーは終了しました。

 

ここまで書いてきてふと気がついたことがあります。今まで新島の出国は、硬い意志の元、既定の事実として函館が選ばれ、虎視眈々と機会を伺い決行されたものと、思いこんでいましたが、ちょっと違うような気がしてきました。いくら何でも藩の洋式帆船、快風丸を新島の出国の手段として使えるはずはありません。

 

想像を交えてストーリーを書けば。安中藩のなにかの事情で快風丸の函館行きが決まりました。新島はかねてから関心のあった諸術調所に学ぶべく、この機会を利用しようとしましたが、武田不在でこれは果たせませんでした。ニコライの日本語教授の口実で滞在しながら、西洋事情をさぐるうち、福士成豊に出会います。福士は当時造船技術を学ぶため英語に堪能で西洋事情にも詳しかったようです。新島のアメリカ行きへの希望に協力的で新島のため小舟を借りるなど積極的に協力したようです。函館滞在は40日ほどだそうですから、ことはトントン拍子に運んだのでしょうか。

 

最後に五稜郭での感想。新島襄の出国は元治元年(1864)年6月14日、池田屋事件(土方と新選組を世間が知った事件)は元治元年(1864)年6月5日、新島の帰国は1874年31歳、土方の五稜郭での戦死は1869年34歳。二人の人生は何の交差もすることはないのですが、同時代に生きた二人の若者がそれぞれの置かれた環境と己の信念に従って生き抜いたことに、感銘を覚えました。

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