【‟あたりまえ” の恐怖 … ②】
患者として感じることでもありますが、
医療教育の場に参加させていただくようになり
「伝わっていない」
ということがよくあるとの認識はあったものの
患者が発言したこと、伝えたことが
医療者にどのように伝わっているのか
そして、医療者が発言したこと、伝えたことを
患者がどのように受け取っているのかを
目の当たりにし
恐怖を感じる体験ができたのが
「臨床試験と治験の語り」 でした。
今から3年前、
患者の立場でインタビューを受け
アドバイザリー委員としても
プロジェクトに関わらせていただきました。
東京大学医科学研究所の先生方が
調査・作成なさいました。
その語りは現在、
「健康と病いの語りディペックス・ジャパン」
において、
患者の体験談として音声・動画・テキストで
公開されています。
「臨床試験と治験の語り」の他にも
「認知症の語り」
「乳がんの語り」
「前立腺がんの語り」
「大腸がん検診の語り」
について公開しています。
患者ひとり1人の語りを
とても大切に扱ってくださっています。
先日参加させていただいたシンポジウムは、
「臨床試験・治験は、誰のためのものか?」
~ 患者の語りから考える ~
その時も
インタビューをうけた1人として
そしてアドバイザリー委員として感じたことを
発言させていただくという
とても貴重な体験をさせていただきました。
そして今回は、そのシンポジウムを経て
さらに臨床試験・治験について考える機会となりました。
医療において、
手術をしたり、薬を使うこと、医療機器を利用することは
普通に…というかあたりまえとなっていると思います。
しかし、そのあたりまえに使われるようになる為には
安全性や有効性を確認する必要があります。
そのための研究が繰り返され
「臨床試験」「治験」といわれる段階があり
実際に、患者を対象にした研究が実施されます。
それを、人体実験と表現することもできますが
どのような想いを込めての言葉、
どのような想いで受け取るのか
今回の
「臨床試験・治験は誰のためにあるのか」
ということについては、
もちろん、「患者のため」であってほしいわけですが
一言では語りつくせない深いものがあります…
そしてこの研究に参加した患者が、
「研究」ではなく
「治療」と思い込んでしまうことについても
私も当事者として、
そう思い込む心理や状況は理解できます。
とはいえ、
この「臨床試験・治験」に参加するということは
責任をもって臨むことが必要だと
私は考えるようになりました。
そのためにも
この研究における意義や実施について
正しい説明を医療側から行う必要があり
また、そのことをどのように理解したのかを
十分に患者から聴き取ることを行ったうえで
開始するということが必要ではないかと
アドバイザリー委員として委員会に参加させていただいたり
2回のシンポジウムへ参加させていただく中
私はそのように感じました。
ちなみに私は…
2つの治験に参加を表明したのですが
ある理由で、2回とも参加することができませんでした。
その理由については
ウエブで公開されています

すでに多くの教育の場で
私の語りを使っていただいているようですが
こんなことになるなら

まっ、患者の立場でのインタビューなので
それはそれでいいか…

医療の現場では
あたりまえに、日々様々なことがやりとりされていますが
様々な立場で
一方的に受け取ったり、受け取られたり
勝手に解釈したり、されていることが多いように感じています。
医療に関わるすべての環境は、
命に関わる環境だからこそ
それぞれの想い、考え、認識を
きちんと把握する必要があるのではないでしょうか…
勝手に解釈したり
たぶん、おそらく、きっと…ではなく
それに関わるすべての人が
共通した認識をもつことで
納得のいく医療、最善の医療、チーム医療が
実現するように思えます。
深い内容なだけに
長くなり、また完全に綴ることができてはいませんが
今日はこの辺で…
ご質問やご意見がございましたなら
コメント&メッセージでいただけましたら幸いです


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