「戦後日本の出発」 元宮内次官の証言② (皇籍離脱)(人間宣言) | 魁!神社旅日記

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問: そこで、敗戦後様々な変更jが我が国の国家体制に起こってきます。思いつくところで申しましても、梨本宮殿下の逮捕、皇室財産の凍結、宮内省の縮小、皇室令の改正、皇族特権の剥奪、皇族方の皇籍離脱(臣籍降下)、等、皇室に関するものだけでも次々と起こりました。このように立てつづけに起こってくると占領軍の指令や政策への対応こそまさに国体護持の戦いといってよいと思います。次にそうした敗戦、占領下での宮内官の対応についてのお話をうかがってまいりたいと思います。

占領に臨まれるにあたっての基本的な方針というものはあったのでしょうか

 

加藤: 陛下からは占領されるにあたって、皇室の財産はどうなってもよいとの仰せがありました。

(略)

祭祀は聖域として守られるだろうと思っておりました。我々としては占領軍から言ってくる前にこれだけは守ろうという最後の退却線を明確に決めておりまして、その覚悟はできていました。 それに私としてはあくまで国民の意志が陛下を守ることだから、天皇と国民の結びつきをさまざまと見せつけることが天皇を救う我々のできる唯一のことだと考えておりました。

(略)

そこで陛下はどうかといいますと、陛下もまた不動の覚悟をもっておられ、

「国民をなぐさめ、国民を励まし、国民を匡す、奮い起こさせる、こういうことを自分の仕事と思う。これにはどんな困難があっても自分はやらなくてはならないと思う。おまえたち、心配してくれるだろうが、そのことをよく考えて、おまえたちは私の心にこたえよ」

とのお言葉を賜った。

(以下略)

 

問: さて、いよいよ次々と占領軍による諸改革が行われてまいりますが、それらのことについてうかがってまいりたく存じます。まず陛下に累が直接に及ぶのではないかと危惧された事件に梨本宮殿下の逮捕がありましたが

 

加藤: 当時、皇族の方々は戦時下、これといった戦争遂行上の重大な任務をはたしておられませんし、何もしておられないことは調べればわかることですからすぐ釈放されると思いました。 しかし、占領軍の追及が皇族に及び、皇族の特権が奪われることになろうということは当然のことと予想されておりましたので、そうした要求がアメリカから出てくる以前に、自ら申し出て臣籍に下られることを陛下に許していただき、その際、生活が成り立つように財産もお分け申し上げなければならないとあらかじめ先手を打った次第でした。第一、占領軍による皇室財産の凍結により、もう宮内省から皇族方の費用が出せませんし、そうなれば国庫より支出する以外に道はありませんが、これもどのような根拠出すかが実に難しいと考えていました。皇族には天皇と秩父、高松、三笠のいわゆるお直宮とそれ以外の皇族とにわかれますが、

とにかく天皇とお直宮を守ることが絶対に必要だった当時の状況から考えたとき、ぜひとも臣籍に自ら降下していただく以外にはありませんでした。

 

問: しかし、皇位の継承者が少なくなることで皇統が絶える心配はありませんでしたか

 

加藤: それについては重臣会議の折にも質問を受けたところです。その時、私が答弁に立ちました。鈴木貫太郎元首相が質問しまして

「今日、皇族の方々が臣籍に下られることがやむを得ないことはわかったが、しかし皇統が絶えることになったならどうであろうか」との意見がありました。私は、「非常にその点は心配です。しかし、皇太子殿下もいずれご結婚をあそばされるでしょうし、また三笠宮殿下にも御子息がいらっしゃるのでなんとかなるとは思います。しかも、離脱なさる宮様方につきましても、これまでの皇室典範からいって皇位継承権を持っておられるのでございますから、皇族を下られるにつきましても、宮内省としては全力をつくして充分な生活費をお与えし、品位を保つだけの費用は用意いたすつもりです。これについての成算はあります。」と述べ、また「万が一にも皇位を継ぐべきときが来るかもしれないとの御自覚の下で身をお慎しみになっていただきたい」とも申し上げました。これに対し鈴木さんは更に「それでも絶えたら」と質問をしてまいりますので、「万が一にもそのようなことは無いと存じますが、それでも絶えたなら、そのときは天が日本を滅ぼすのですから仕方のないことではありませんか」と申し上げました。鈴木さんは「そこまで考えているのならばよろしい」と言って認めてくれました。

 

問: 昭和21年頭の詔書(いわゆる「人間宣言」)についてはどのような考え方があって出されたのでしょうか

 

加藤: 昭和21年頭の詔書についてはよくいわれているように、当時学習院教授であった英国人ブライスが山梨勝之進学習院長に話し、更に山梨が当時の大臣等に話をして出てきたもので、宮内省もそれについては認めはしましたが、陛下の大御心は五箇条の御誓文にあったのでして、どのように政治を行うか、国民との関係についての考え方を非常にはっきりと述べられたものとしては五箇条の御誓文以上に何がでているでしょうか。出てはいないと思います。ですから、陛下には何故、改めて語るのか、むしろ不思議にさえ思われたでしょうが、政府の役人が来てお願いするものですから、必要ならば言った方がよいだろうということだったと思います。だから、あの時期に出ることには何の必然性もなかったと思います。それは政府の大臣やブライスに動かされた山梨さんなんかの気のまわしすぎだったのではないでしょうか。山梨んも含め、当時の要人は、古いようで実のところ新しもの好きで、五箇条の御誓文など読んでいない要人が多かったのではないでしょうか。

 

後に幣原とか吉田など私がやった新日本の政治のあり方がここにあると言ったようなことを言っていますが、陛下にしてみれば、ずっと以前からの日本の政治のあり方と同じであり、あえて言うことに何か不思議な思いを持っておられたというのが真相ではないでしょうか。ですから詔書が出たからといって宮内省の流れが変わることは決してありませんでした。