「昭和天皇実録」は分厚いので、
ひとまず解説書である「「昭和天皇実録」講義」を読んでみました。
この本によれば「昭和天皇実録」は昭和天皇の行動を必要最小限に
たんたんと伝える形式で、前後の時代背景の解説がないため、一般人には
わかりにくく、しかも、天皇自身の肉声ともいえる部分はほとんど採用されて
いないため、天皇の感情はわかりにくく、宮内庁が官僚的に編集した感が
強いということであったが、それでも、いままで知られていなかった新資料等も
いくつか見られ、研究者には一読に値するものということであった。
一、幼少時から自然科学への感心深く、また親欧米的な教育を受けていたという事実
昭和天皇が歴史と相撲好きであれれたことはすでに知られている(原敬関係文書研究会編1990)が、
今回、実録で昭和天皇が幼少期から自然科学へ関心があられたことはあきらかになった。
1910年8月1日、「イソップ物語」、「日本少年」、「昆虫世界」、シューベルトの「動物絵本」を愛読の記事
8月3日「日本有用魚介藻類図説」愛読の記事
1914年1月4日、両親からお年玉としてエックス光線装置機の理科実験器具をもらい、以後連日実験を試みた
1917年4月22日、電車模型の運転、電磁石、真空管などについて発電機を利用した各種実験をこの以後もしばし行うの記述
即ち、戦後に語られていた、「天皇は政府などが頭をよく見せるために一流学者などをつけて、
研究させているふりをしている」的な悪意的な都市伝説は嘘であり、昭和天皇自身が幼少期から科学、自然科学を好んで
いた事実が証明されている。それ以前の日本史をひもとけば学術的な成果を残している天皇は多くおり、家系的に
学問好きな遺伝子が含まれているのではなかろうか。
親欧米的な教育は里親であった川村純義(すみよし)伯爵、そして、大正天皇の影響も考えられるが、
1907年12月18日、1908年12月7日に両親からクリスマスプレゼントをもらうという、当時ではまさに欧米かぶれの
風習を取り入れていたという新事実があきらかになっている。
(従来の昭和天皇の教育は漢学者杉浦重剛や乃木希典らの漢学派ばかりがクローズアップされていた)
大正時代には摂政宮として
関東大震災が起きると自ら被害状況視察のための行啓を行っており、
9月15日には市ヶ谷、神田、日本橋、上野
9月18日は神田、上野、浅草
10月10日には横浜、横須賀を自ら視察されている。
すなわち、被災地に対する天皇の慰問は戦後にはじまったことではなかったのである。
実際に戦前において天皇(当時は摂政宮)自信が被災地の現場に行って被災地を
回っていたという事実は、戦後の私たちが戦前の天皇に抱くイメージと大きく異なっている。
すなわち、戦後教育においては戦前の天皇は「現人神」として祭りあげられた
絶対的な専制君主に近いものであったという固定化されたイメージはおそらく
戦前の中でもごく限られて期間に作り上げれたイメージであり、それをもって明治時代から
太平洋戦争終戦までの天皇を語るのは間違いであると気づかされます。
昭和天皇が真に関東大震災における被災地の人々に対し、気にかけておられたことは
実録9月24日のバラックに仮住まいする罹災者の状況を気遣う御言葉、
また
「今回の大地震に際しその程度範囲も甚大、見聞するに従い傷心ますます深きを覚ゆ、ついては余の結婚も
今秋挙行に決定したるも之を進行するに忍びず、ゆえに延期したし」(「牧野伸顕日記」9月16日)
等の発言であきらかである。