スタジオQ『私はレイプを告訴する』 | カラサワの演劇ブログ

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スタジオQ第5回公演『私はレイプを告訴する』於麻生区民ホール(麻布演劇市)

 

司会者「東宝の文芸部を振り出しに東映、松竹、日活などの映画会社、また日本テレビ、テレビ朝日などのテレビ局で長年脚本を書いてきた高畠久氏が6年前、演劇界に身を投じ、さまざまな社会問題を扱ってきた演劇プロデュース団体『スタジオQ』の第5回公演です。前回の『ミス・デザイン』は親権裁判を扱いましたが、今回はレイプ事件とその被害者たち、その犯人たちを裁判にかけようと努力する女性刑事たちの戦いを、実際に起きた事件への取材を元にリアルに再現したドラマです。マンションのゴミ置場で2人組にレイプされた女性会社員、コンパで医大生たちに睡眠薬を飲まされて輪姦された女子大生、そして便利屋を装って家に入り込んだ、“レイプ屋”ともいうべきヤクザに犯され、その秘密を公表されたくなかったら、と恐喝を受けている主婦。この三人のレイプ事件ケースを扱う女性刑事たちが、日本社会の特殊性、権力の妨害、そして世間に知られることを恐れる女性心理と戦いながら、犯人を告訴に持ち込む姿が描かれます」

 

女性自立支援者「……問題意識の鋭さと、作者である高畠氏の社会的正義感がひしひしと伝わってくる舞台だった。描きにくい題材をあえてテーマとした意欲もかいたい。若い俳優たちが難しい役を精一杯に頑張っているのも見て心地いい。なにより、同じ女性の立場から、被害者たちの痛みをわがことのように受け止め、彼女たちを救い、犯人たちを罰したいと願う女性刑事たちの決意に感動した」

 

演劇ファン「感動的なテーマと人物像であることには同意します。……だけど、観終わった感想はというと、“朗読劇を聞いていたみたい”というものでした。それくらい、動きに乏しいんですね。広い舞台上に、セットが三つ並んで組まれていました。つまり、普通の小劇場の三倍の大きさがある舞台です。映画畑の人の作・演出の舞台ですから、それが映画のカット割のようにそれぞれのシーンを行き来しつつ、あるいは同時に進行していく、という手法が取られるのかと思うと、ほとんどそういうこともなく、ひとつの場面から次の場面へと順番に移っていく、平板なものでした。僕の隣に座った中年の婦人がなんべんも手持ちのバッグの中からiPhoneを取り出してはケースの蓋をあけ、時間を確認していたんだけど、同じような展開が繰り返し繰り返し続き、時間の概念が混乱して、もう舞台が始まってからどれくらいの時間が経っているのか、体感できなくなっているんですね」

 

演劇学校学生「作・演の高畠氏が、スタジオQの5回の公演の歩みというのをパンフレットに書いているんだけど、これがちょっと演劇人としては問題のある内容で、つまり、映画なら莫大な製作費がかかるが、“芝居なら予算がかからず実現できる”というのでスタジオQを立ち上げた、とあります。これは演劇の世界に足を踏み入れようという志としてはかなり低い。もちろん、“演劇の可能性を自由に楽しみたい”とも書いてあるけれど、それは2作目の、ダンサーが踊りながら場面転換のパネルを移動するというもので、そんな小手先の演出は演劇の可能性でもなんでもない。そもそも、演劇と映画は共通項が多いというのがこの人の主張で、“作品を創造する姿勢と心意気が似ている”などと言ってますが、冗談じゃない、演劇の世界でまず叩き込まれるのは、映像と舞台の違いです。演劇は演技の連続で構成され、映像はカットでモンタージュされる。この差は基本中の基本です。演劇はひとつひとつの動作に意味を持たせないといけないけれど、映画は絵と絵のつなぎで意味を表現するため、演技はむしろフラットにやらないといけない。それがわかっていないと、話に情感がついていかなかったり、逆に情感がこもりすぎてくどくなりすぎたりする。この『私はレイプを〜』は前者ですね。ドラマの盛り上りと観客の感情の盛り上りが一致しない(させていない)ために、ドラマの中に入っていけないんです」

 

麻布住人「こちらに住むことになってまだ1年ちょっとだが、地元の演劇祭ということでこの『麻布演劇市』には足を運んで、ここの前作『ミス・デザイン』も観た。そのときも淡々とストーリィが進んで行く構成だったが、全体の9割を実際の裁判シーンに割く、という大胆な演出があったので、気にならなかった。今回はそういう工夫がない分、平板に思えたのがちょっと残念だったな」

 

ワークショップ主宰者「舞台の演技で最も観客の心を動かすシークエンスはなにかというと、「改心」の場面です。ふつう、この言葉は悪い考えを改めるというときに使いますが、その逆もありえますね。歌舞伎の中でも最も人気のあるセリフのひとつが、河竹黙阿弥の『鋳掛松(船打込橋間白浪)』の「こいつは宗旨を変えざアなるめえ」という悪への改心の場面のものなのもそれを表していますね。この『私はレイプを……』なら、レイプされても、それまで世間に知られることへの恥ずかしさや犯人の復讐に対する恐怖などで告訴をためらっていた被害者たちが、刑事たちの説得で勇気を出し、告訴に踏み切るところでしょう。……中でも、医大生たちにレイプされた女子大生の鈴村麻紀は、父親の反対まで押し切って告訴を決意する。観客は、その逡巡と、刑事の言葉への感動、そして決意、という心情の変化に一喜一憂して、舞台の中に引き込まれる。……ところが、その決意の場面は、父が娘に告訴をすすめる警察への苦情を言いにきた数日後のシーン、すでに告訴を半ば決心した麻紀が警察を訪ねるシーンでなされる。演劇的にもっともドラマチックなシーンを抜かしているんです。これでは観客が麻紀の心にシンクロできません。麻紀は父に付き添われて警察にやってきて、猛反対する父の前で、告訴を口にすべきだった。そこで怒った父に連れ帰られ、その数日後に、翻意がないことを告げにくる、という“見せ場”の工夫はあってしかるべきでした」

 

辛口ファン「その麻紀の担当である大越警部補が、なんでそんなにこの事件に一生懸命になるんだ、と同僚の刑事に訊ねられて、女性の権利を高めた平塚らいてうや伊藤野枝、与謝野晶子などにあこがれていて、自分もそういう人間になりたい、と心情を述べるシーンがあるが、そこのセリフがまるきり“芝居のセリフ”なんだなあ。長ゼリの中に人名や、その経歴が入っているが、それをまるで読み上げるかのようにすらすらと口にし、言いよどみも迷いもない。セリフの終着点が最初からわかっていて、そこに向かって話している、というのが見ていてバシバシ伝わってくるんだよ。これでは台無し。作中のテーマともなる大事なセリフを、あえてリアルさを無視する演説にすることで“目立たせる”という演出は演劇においてはアリなんだが、ならば、そこは起立させて舞台の真ん中に立たせ、スポットを当てて語らせないと、せっかくのセリフが光らない。この高畠氏の映画脚本家としての才は認めるが、もう少しいろんな芝居を観て、演劇の演出とは何か、ということを学んだ方がいいような気がした」

 

演劇ファン「映画ではあまり褒められないが、芝居ではポピュラーな演出に、人物の独白、ひとり芝居というのがありますね。被害者の心の傷の表現に、これを使えば、もっとその恐怖や混乱をうまく表現できたんじゃないか、という気がしました。あと、現在と過去との時間軸の混淆、などというのも演劇的な手法です。冒頭で述べたように、作品の問題意識や人物像は優れているのです。要は見せ方。それも演劇的な見せ方です。そこの工夫、というか誰か演劇専門の演出補がついてれば、という気がひしひしとしました」

 

役者ファン「演劇的といえば、映画ならワンシーンのみの出演者は、その撮影の時だけやってきて、すんだら帰ってしまえばいいが、舞台の場合はチョイ役といえど、小屋入りしたら上演中はずっといなくちゃいけない。今回、1時間45分ほどの上演時間で、出演者が23人。ひとりあたまで割ったら4分半しか出演時間がありません。現に、冒頭の交番の巡査長や婦警、署の刑事など、出演時間が10分に満たず、その後も出てこない。これは幕内のこと(楽屋事情)に通じていない人の脚本だな、とわかっちゃいます。限られた条件下で、無駄なく役者とセットを使い回す、これが演劇というものだ。もっと勉強してほしいなあ、と作・演さんには思うこと切、です」

 

唐沢俊一「その、冒頭の刑事役で出てくる立花伸一さんがこの次のうちの公演に出演するので、チラシを折り込ませてもらったんだが、その内容がサイコサスペンスで、かなりチラシもアブノーマルぽさを強調している。この舞台を観にくる“真面目な”観客の人たちに、どう思われるか、ちょっと気が気でなかったです(笑)」