カラサワの演劇ブログ

演劇関係の雑記、観劇記録、制作日記、その他訃報等。観劇日記は基本辛口。これは自戒とするためでもあります。
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疾駆猿『VAGENIGMA-1959-明地百華の御節介メモアーズ【斬糸】』於池袋シアターKASSAI

 

司会者「裏昭和史とも言うべき、妖怪や神、使命を帯びた謎の一族、裏で日本を支配しようとしている秘密組織、といった存在の跋扈する状況を描くディープな世界観のシリーズを続け、熱烈なファンを持つ劇団『疾駆猿』の新作です。時は1950年代末、探偵一家に生まれた主人公の女子大生、明地百華が依頼を受け、その一家の末娘が神隠しにあったという事件の解決に、雑誌記者の薪場、靴磨きの久住、そして猫のサブリナを伴い、東北にある名家が営む旅館に向かうというのが発端です」

 

辛口ファン「……人気劇団かもしれないが、ここの芝居は正直、苦手だった。ストーリィを理解しようとしながら見るとあまりに情報量が多すぎて混乱するし、理解する手がかりが数回前の公演にある、などという、常連以外を斬り捨てるような設定も多い。話を複雑化させようとするあまりに事件が輻輳しすぎて、相互の矛盾もやたらにある。そういうところは受け流し、レトロなムードを味わおうと頭を切り替えると、今度は小劇場演劇の限界である、ささいな時代考証の不備が気になって素直に楽しめなくなる。……知り合いの役者が複数出ているから仕方なく観にいった、というのが正直なところだったのだが、意外や今回は素直に楽しめた。時代設定が1959年となっているが、余計に時代色を出そうとせず、横溝正史風に東北の寒村を舞台に限定したのがよかったんだろう。例によって妖怪や、人間並みの知能を持った猫、人肉の味を覚えたキツネの神(夜狐神)などという怪しげな存在がぞろぞろ出てくるが、今まではそういう連中が思わせぶりなことを言ったりやったりしながら、ほとんどストーリィに関与してこないことにじれったさを感じていた。今回も主筋にそれらは深くからんで来ないのだが、それが逆にストーリィの邪魔をせず、かつ、裏で糸を引く存在という妖怪らしい設定がきちんと生きて役割を果たしていて、好感が持てた」

 

演劇ファン「おや、辛口先生が珍しく褒めてますね。私も、ここ数回観ているベイゲニグマシリーズの中では、いちばん面白い内容になっていると思いました。2時間15分という上演時間は、あと20分は詰められるだろうという感じでしたが、30人という驚異の登場人物数も、整理がされていて、ごちゃつく感じはしませんでした。ただ、少しうるさいことを先生に変わって言うと、ここの芝居の困った特長とも言える、“主人公がほとんど活躍しない”というパターンを今回も踏襲しちゃっている。ラストで主人公の百華が“わたしは何もできませんでした”と言ってましたが、聞いて思わず“その通りだ!”と声がもれちゃいましたよ」

 

モラリスト「何もしないだけならいいのだけれど、冒頭で、事件の依頼を受けて、雑誌記者の薪場を助手に連れていくことを編集長に許可とっているでしょう。鬼編集長もそれを許す、ということは、この事件を後に記事にする、という意味を含んでいる。これって、職業上の重大な守秘義務違反ですよ。私なら、こんないいかげんな探偵に依頼することはしないな」

 

飲食業者「おまけに猫まで連れていく。仕事か遊びかわからない。まして行き先は旅館だ。食べ物営業の家に動物を連れ込むのは無神経というより非常識を疑われかねない」

 

動物好き「でも、なにわえわみが演じたあの猫はよかったですね。ドロドロしたストーリィのいいアクセントになった。サブリナという名前も、オードリー・ヘップバーン主演の映画『麗しのサブリナ』の公開年はこの事件の年(昭和34年)の5年前だから考証的にもおかしくないし。惜しむらくは、そんな名前つけられている猫なのに、扮装とかが和猫風だったこと。ヘップバーンカットとかにして欲しかったなあ」

 

脚本学校の先生「猫を連れて行きたいなら、手はいくらでもあるわ。いちばんポピュラーなのは、旅行カバンの中に猫が、留守番を嫌がってもぐりこんでいた、ということにしちゃう。そうすれば、猫を連れていくのは主人公の非じゃなくなる。それより惜しいのは、せっかく連れてった猫ちゃんが、事件の解決に何の関与もしないってことよ。邪魔だとみんなに思われていた猫が、猫独自の習性で事件の解明に役立つ、という構成にすることで、ちゃんとそのキャラクターの、作品の中での存在意義が生まれるし」

 

動物好き「犬ならともかく、猫にどうやって事件を解明させるんですか?」

 

脚本学校の先生「祠の神木がマタタビの木だったとか、祟りの元がキツネだと動物同士の会話でわかるとか、工夫はどうでも出来るわ。そこらがこの作品の脚本に練りが足りないと思わせるところねえ。惜しいわよ」

 

時代考証マニア「……時代色を変に出そうとしていないのがいい、という意見がありましたが、逆にちょっと時代設定が不明すぎるところも多かったです。まず、昭和34年という設定で茶髪の女の子がいたのが許せなかったな。それと服装。行方不明になったという女子高生とその兄が着物に袴姿ですが、これだと高度経済成長期どころか明治大正ですよ。田舎で古い風習が残ってる、ったって、セーラー服が女子学生のトレードマークになったのは大正時代です。いくらなんでも昭和30年代にこのスタイルは時代錯誤だ。あと、旅館の女中が着物の上にメイド風のエプロンをしているけど、これも大正風俗。そもそもあの服装はカフェーの女給の恰好で、いやしくも老舗の旅館の女中さんの恰好ではない。おまけに彼女、仕草にひんぱんにぶりっ子的なポーズが入る。……演じた子(かおりかりん)の罪じゃないですよ。若い子はそれが普通のことと思って疑いなく現代風の仕草や言葉使いをする。それにダメを出して、考証にあわせ、舞台上に昭和30年代を作り出していくのは演出家の仕事です」

 

昭和歌謡研究家「時代設定の不明瞭というなら、客入れ時の音楽が『東京ブギウギ』や『ガード下の靴磨き』、『僕は特急の機関士で』など、ほとんど昭和20年代の歌だった。客入れの曲はその芝居への導入の役割を果たす。高度経済成長期なら、それを象徴する名曲はいくらだってあるだろう。少しそういうところに神経を配ってほしい」

 

温泉マニア「じゃ、私にも言わせてください。県警の刑事が温泉の脱衣場でマッサージ椅子にかかるシーンがあったけど、そのマイムが完全に振動系で、これは最近のものです。昭和30年代のマッサージ椅子と言えば

こんなもので、もっとゆっくりと大降りにしか揉んでくれません。あまつさえ、スイッチを切るときに“ピッ”という電子音が音響効果で入った。昭和30年代の機器でスイッチに電子音はあり得ないし、そもそも、当時のこういう機械は一度硬貨を入れて動き出したら、途中で止めることなどできません。昭和の時代には街中の銭湯で、途中で離れる使用者が、周囲の人に“まだ時間余ってるから使ってよ”と譲る光景がよく見られたものです。こういう行為を芝居に取り入れれば、時代色を出すいい材料になるんだがなア」

 

時代考証マニア「……細かいところの揚げ足取りばかりはやりたくないけれど、このベイゲニグマシリーズはその時代設定を特色としているところなんだから、そこにはいくら気を使っても使いすぎることはないだろう。脚本を書いているのも演出の佐藤信也なわけだし、再現が難しいところはカットすればいいし、出すなら徹底して考証に気を配るべき、だよ。で、最も簡単に時代を出せるはずのセリフの部分で、そういう考証が出来ていない部分が多すぎる。例えば旅館の女中が時間を全部24時制で伝えているが、まだこの時代、一般人は午前・午後の12時制で表現するのがポピュラーだった。軍隊とか病院くらいだよ、24時制を日常で使ってたのは」

 

小劇場演劇演出家「時代考証ではないけれど、主人公が温泉に入ってくる、と言って去って、“ああ、いいお湯だった”と帰ってくるシーン、浴衣に着替えるくらいすると思っていたら去ったときの服装そのままで、髪も上げてなければ、スカーフまで巻いたままで、何ひとつ湯上がりという感じを出していなかった。こういうのは単に演出が“雑”という言葉で足りると思いますね」

 

脚本学校の先生「雑と言えば、蘆屋家の女性はみんな菊正とか安綱とか男名前がついてる。行方不明になった子も宗近です。これは、夜狐神様にねらわれないよう、女の子であることを隠して男名前をつける風習があるから、と説明が後半にあって、それはまあ、いいんだけど、なら、東京から来た主人公たちがそれにとまどうというシーンを入れないと。観ながらずっと、“こういう名前は作者の趣味なのかしらん”と思っちゃったわよ」

 

司会者「細かいところへのツッコミはきりがないようですので、ストーリィの中心部分への講評をひとつ……」

 

演劇ファン「近親相姦の呪い、というのがテーマかな。蘆屋家という家名からして有名な某小説のタイトルのパロディだし。ラストでまた次々人が死んでいくのがやりすぎと言えば言えるんだが、ある種のカタルシスはあって、リアリズムを突き抜けた迫力が伝わって来たな。演劇の演出としてこれはアリ、です。……ただ、真犯人たちの動機というのが、純粋な精神を持つゆえに、ゆがんだ人格である家族を許せなかった、ということであるらしいんだけど、そんな理由で家族やその関係者たちを惨殺するというのがちょっと理解に苦しんだ。それならば2人で家を出ればすむ話だ」

 

ミステリマニア「……そこらへんは大目に見てやってくださいよ。横溝正史や江戸川乱歩のミステリにだって、“そんなことで人を殺すかあ?”というのはよくありますから」

 

女優ファン「しかし、そのおかげで、本来悲劇のヒロインのはずの行方不明になった末娘が、残った姉娘たちの記憶の中では、嫌味を言って彼女たちを追い詰める、嫌なキャラクターになってしまっている。いくらなんでもやりすぎだろ、と、その犯行の動機に同情できなくなってしまうんだよな。演ずる水崎綾は可愛いのに、もったいない」

 

演劇ファン「ベイゲシリーズの特長である、過去作品からの引用という部分では霞原霖禰と深池寧子の2人が特出格で出てきてますけれど、追想の中の深池はともかく、霞原霖禰は何のために出てきたんだかわからない。事件に全く関係ない旅館の客ですし、途中で帰っちゃうし」

 

警察マニア「そうそう、その帰る場に刑事もいたのに、黙ってそれを見送ってた。仮にも事件のあった時に旅館に滞在していた重要参考人だ。勝手に帰すなよお、と叫びそうになった」

 

舞監経験者「いや、少し帰して整理してほしいな、と見て思った。ラストの謎解きシーンで出演者のほとんどが舞台上に出る。中には殺されて横たわっている人物もいる。なので、芝居をする必要のある役の人の、アクティング・スペースが非常に狭い。移動もままならないから、重要な告白をする人物が隅っこの方で芝居しないといけない。塩原奈緒の演じた役なんて、それまでのキャラクターの印象をがらりと変える見せ場なのに、あれはちゃんと介錯して真ん中に持ってこないと映えないですよ。熱演がもったいない」

 

演出家「演劇には二通りあって、役者主体で、その演技の魅力で観客を引きつけるものと、作家(脚本家、演出家)主体で、ストーリィの魅力、世界観の魅力で観客を引きつけるものとに分かれるんだが、この疾駆猿という劇団は典型的な後者だな。ストーリィや世界観に、人をハマらせる魅力があるということは素晴らしいんだが、そういう芝居はその分、役者の個性を殺す割合が大きいことも事実だ。この作品でも、もっとこの役は大きく目立たせられるのに、という部分があって、ちょっとじれったい思いをしたことは事実だな」

 

演技ファン「確かに。あきらかに“説明役”としてしか機能していない役もありましたからね。ただ、これまではその小柄な外見から妖怪役を主にやっていた黒坂カズシが、今回はかなり重要な“人間の”役で出ていて、しかも十分にその存在感を出していたのがよかったです」

 

辛口ファン「いろいろ不満はあるにせよ、観終わったあとの満足度は前回の『鮫崎刑事の受難スパイラル』や、前々回の『日和見助手の怪異レポート』に比べてはるかに高い。前二回にあった、ストーリィの根本にかかわる矛盾や不備が今回はなかったということもあるが、なにより観てて気持ちがよかったのは、この劇団のセリフにまま見られる、アニメ的な、ナルシシズム過度のものが少なかった、ということだ。これも横溝正史風の、ちょっと古風なミステリというワクづけがあったためだろう。やはり芝居にはワクづけというものが大事だということを再認識した」

 

演劇ファン「……本当に今回は辛口先生の点が甘いなあ。キツネにつままれたみたいだ。あ、夜狐神さまの御利益かな」

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