ド・ロ神父と外海・出津 2 | からP@ミルクセーキ音楽P

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歌う作曲家Pです。

続きです。

ところでド・ロ神父が赴任した「そとめ(外海)」あるいは「しつ(出津)」とはどういうところなのでしょうか。上の写真は五島灘ですが、この海にギリギリまで面した山の上に、今回のド・ロ神父が作ったエリアがあります。

ちょっとした入江の河口を除くと平地はほとんどありません。ともかく平地がないので、このように崖に住んで、その斜面に建物を作るしかないのですね。下の写真、画面中央が出津救助院です。

この辺に限らないのですが、長崎は土地がない場所に、政治的な理由から無理くり都市にしたところですので、そもそも「住みやすい場所ではない」のですね。それは長崎市内ももちろんそうなんですけど、そこに隣接する市町村なども軒並みそういう感じで、だいたいは、厳しい海(五島灘)、そこに迫りくる山という感じで出来上がっています。坂も山も多く、家はだいたい斜面に経ち、開墾して畑にしたり田んぼにする土地もありません。つまり、産業が非常に成り立ちにくい土地なんですね。

下は出津の教会あたりから集落を見下ろした写真ですけども、出津じゃなくとも、長崎エリアは概ねこんな感じの立地であると考えて差し支えないように思います。

そういった「人が来づらい場所」ですが、だからこそ「逆に」それを利用して「隠れキリシタン」が逃げて住んでたわけです。

しかし、そもそも住みにくい、来にくい土地なんですから、隠れ住んだキリシタンの人々も大変な苦労をするわけです。そこにフランスから移住したド・ロ神父がやって来たということなのですね。

さて。

前の記事で言ったように、私は今回そとめ出津を訪れて「どこか懐かしい気がする」と言いました。なんで私が出津文化村を訪れて「どこか懐かしい気がする」と思ったか。

実は。

私は幼少の頃から、児童向け外国文学をたくさん読んでいたのですが、その中に有名な「家なき子(Sans famille(1878年)」がありました。その中に出てくる描写などと、今回のド・ロ神父の史跡が「どこか似ている」ということに気づいた。ということなのです。

 

ここでちょっとド・ロ神父の生い立ちをおさらいしましょう。生まれは1840年。フランス、ノルマンディ地方だったということです。日本に来たのが1868年、28歳ですね。そして外海地区に来たのが1878年、38〜39歳くらい。

調べてみますと「家なき子」の原作者マロさんが生まれたのも、ド・ロ神父と同じ「ノルマンディ地方!」。マロさんの生まれは1830年。ド・ロ神父の10歳年上ですね。

そして「家なき子」の出版は1878年。なんと!ド・ロ神父が出津に来たのと同じ年!なのです!

これはマカロニ工場の部屋内部の写真ですが、例えば家なき子レミの住んでたシャヴァノン村の実家とか、あとはパリの親方の部屋ですかね。ともかく「当時の」フランス庶民の生活描写と、この出津の史跡は似ているのです。

私がそう感じた理由は、両者が同時代だったということがあったのです。

 

私が読んでいたフランス児童文学はこれだけではありません。例えばルナールの「にんじん」や、一連のジュールヴェルヌ「SF小説」もありました。これらのどれもが、全く同時代、19世紀後半にリリースされ、私も子供の頃に読んでいました。

それらとド・ロ神父が出津に持ち込んだフランス技術や文化が似ているのは、時代的に同じなのだから当然だったということなんです。

 

ちなみに、これら文化の開花が同時代に集中してるのは偶然じゃないんです。

ド・ロ神父が生まれ育った時代。これはフランス革命を経て王政が終わり、ナポレオンの帝政から、第2共和制、ナポレオン3世の第2帝政とどんどん時代が移り変わり近代化に進んでいった時代でした。「自分はフランス国民である」みたいなアイデンティティが庶民の間にも目覚めて、意識がダイナミックに変わった時代です。また新聞雑誌などが刊行され、文学が広く読まれる時代になりました。

「家なき子」なんか今読むと「ロード・ムーヴィー」というか「お散歩部・最強版」みたいに面白いですけども、そういう「国内を歩いて紹介する」というスタイルも、実は「自分たちはフランス国民である」という「帰属アイデンティティ」を目覚めさせるためもあったのかもしれません。そんないろんな背景があって、19世紀後半の文学ビッグバンがあったわけですね。

 

そういう事を考えながら、ド・ロ神父が出津そとめに残した遺産を見ると、また違った感慨があります。そういう「国民意識が芽生えた時代」に、見も知らぬ縁もない「長崎そとめ」という地区に赴任する。ド・ロ神父はどのような気持ちだったでしょうか。

上の写真。

マカロニ工場の部屋から見える、そとめの海です。

 

ド・ロ神父は裕福な貴族の生まれだったそうですね。

しかし目まぐるしく変わる時代、この先どうなるかわからない、と思ったからでしょうか、彼は裕福なお坊ちゃまとして「ではなく」。

「一人でもしっかり生きていけるように」いろんな特殊技術を学ばされて育てられます。彼が出津に移住後、ミラクルマンのように医療から建物の設計、開墾、産業、教育、あらゆる方面に才能を発揮したのは、親の教育によって習得されたから、というのが大きいということです。「お金」を最も有効利用した家庭だった、ということですよね。

 

今回の訪問で、説明ボランティアの方にうかがって一番びっくりしたのは「当時ド・ロ神父が日本に持ち込んだ私産は、今の価格にして10億円!!」ということでした。

その「10億円」で、この出津の様々な施設を作り、住民に「生きるノウハウ」を手取り足取り教え、産業を興し、またフランスから最新技術や最新機材などを輸入し、すべてを与えたのです。

 

前回も書きましたが、例えそれが布教のためかもしれなくても、この寒村に私財を惜しみ無くつぎ込んで、ここまでに仕上げたというのは、本当に感動するしかありません。そんな「愛は」あなたにはありますか?と問われてる気がしましたよね。ほんと。8年前にもそれは思ったんだけど、今回改めてそこは思ったんだよ。

ド・ロ神父が自分で考案した「ド・ロ塀」が残ってます。

ただ単に10億円持ってたって何も出来ないのですよ。しっかり数々の知識、技術を持ってたからこそ、その「10億円」を活かせた。そういうことなんだよね。

 

via Recording Daze 4.0
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