「生命操作」にまつわる気持ち悪さ | 空庵つれづれ

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宗教学と生命倫理を研究する中年大学教師のブログです。



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「クローン人間」などというと、多くの人は「気持ち悪い」という言葉を口にする。


もちろん、こうした「気持ち悪さ」のなかには、知識の欠如や誤解によるものも少なくない。

たとえば、「自分と同じ人間が生まれるなんて気持ち悪い」というような人がいるが、
もし、私やあなたのような現在生きている人の体細胞を使ってクローン人間が誕生した
としても、その人はせいぜい私たちの「遅れて生まれてきた一卵性双生児」にすぎない

し、一卵性双生児の場合は、母体内の環境も生育環境もほぼ同じであるのに対して、

この場合はそれがみなまったく違うわけなので、実際には一卵性双生児ほども似て

いないだろう。

また、こういう「気持ち悪さ」のなかには、単にそれがなじみのない、新しいテクノロジー

だという部分もたしかにある。

「自然とは古いテクノロジーの別名にすぎない」というマクルーハンの言葉があるが、
要するに慣れてしまえば「自然」だと思えるものも、最初は「自然に反する」「気持ちの悪い
もの」だという印象を与えるのはたしかだ。
写真技術がはじめて登場したとき、多くの人は気持ち悪くて写真をとられるのを怖がった。

「写真に映ると(魂が吸い取られて)病気になって、死んでしまう」と信じていた人もいた。

しかし、

こういう、合理的に考えれば消え去るか、少なくとも薄らいでしまう「気持ち悪さ」の原因を

取り去ったとしても、やはり生命の操作ということには何かしら気持ち悪さが残る
ように、私には思われる。


もちろん、「生命操作」というのは、それ自体何か「気持ち悪い」響きがするが、
じゃあ何が生命操作なのだ(?)といわれれば、定義することはできない。

これまでに私たち人類が開発してきた技術のかなりの部分(生物や生態系に影響

を直接影響を与えるような技術)は、医療技術にしろ、農業や畜産の技術にしろ、
まぎれもなく「生命操作」にちがいない。

なので、私たちがふつう「生命操作」という語をきいて思い浮かべるような、
新しい医療技術や生命科学技術の数々は、別に従来の技術との間に根本的に
「質の差」があるというわけでもない。

とはいえ、一方で、技術の「切れ味」が増してきたことによって、「量の差」がある

種の「質の差」として現れつつある、という印象もまた消すことはできない。


前回挙げたクローン猫の例でもそうなのだが、
なにか私たちは、生命という「一つ一つの個体で違っていて、それぞれ固有の

環境におかれ、歴史をもったもの」に対して、それを計量・操作可能なところだけ

で切り取って人間の勝手なシステムに乗せて操作してしまうことによって、

「生命」という人間を超えた不思議なものに対してある種の冒涜を行っている、
という感じはどうしてもぬぐえないのだ。

これとこれを足したらこうなる、とか、これがこういう要素に分解できるのであれば、

都合の悪い部分を都合の良いものに取り替えれば全体が良くなるだろう、という

ような発想で生命を操作しようとしても、(それは部分的には可能だとしても)

結局は「操作できない」という方が、現実に近いのではないだろうか?

臓器移植だって、あたかも人体のパーツ交換ができるかのように「錯覚」している

だけで、移植された人が拒絶反応に苦しみ、一生免疫抑制剤から離れられない

のは、実際には「パーツ交換」などできない、ということではないのか?

生殖補助技術にしても、体外受精が臨床応用されてもう30年もなるのに、未だ

実質的な成功率はせいぜい15%程度であることを考えれば、それが身体の

自然のプロセスを人工的に代替「できている」などとはとても言えたものではない。

もちろん、それは現段階では技術が未熟だからそうであるにすぎない、という
見方もあるだろうが、私はどうもそれだけではないような気がする。。。


それよりももっと問題だと思うのは、こういう形で(実際には操作不可能なものを)
操作可能なシステムに乗せていくことで、とりわけ人間の生命(それは単に生物

学的な生命であるだけでなく、具体的な生活、人生を伴う)の固有性やかけがえ

のなさに対する私たちの日常の感覚とは相容れないような光景を実際に現出さ

せてしまう、ということだ。

前回述べたように、
このような光景をできるだけ見せないように、そうした技術を

推進するための言説がはりめぐされていくことで、私たちはだまされてしまう

のだ。

こうした例は、臓器移植にしろ、生殖(補助)医療にしろ、いくらでも挙げること

できる。

こうした状況のなかで、

私たちがいわゆる「生命操作」に対して感じている「なんとなく気持ち悪い」という

感覚は、そうバカにできるものではない、と私は思っている。

もちろん、そういう感覚だけでは、そうした技術が(それにふさわしい熟慮と慎重な

検討を欠いたまま)推進されていくことに対する歯止めにはならない。

しかし、そうした感覚は、何かしら実際に生命操作システムのなかに隠された

おぞましいものを見つけ、明るみに出していくためのアンテナにはなり得るように

思う。

(もう少しいろんな具体例を入れたかったのだが、長くなりすぎるのでやめにした。

また補足として続きを書くかもしれません)