生命倫理と想像力 | 空庵つれづれ

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宗教学と生命倫理を研究する中年大学教師のブログです。



話題は、日々の愚痴から、学問の話、趣味(ピアノ、競馬、グルメ)の話、思い出話、旅行記、



時事漫談、読書評、などなど四方八方に飛びます。

前回の続きです。

生命倫理の教育は、学生を倫理的な(倫理的に正しい)人間にするためのものではない。

もちろん、倫理観の乏しい人とか、倫理的にいいかげんな人が、生命倫理の問題について
きちんと考えるのはむずかしいと思う。


しかし、一般的に言って倫理的に優れた人(他人への共感力や思いやりがあり、正義感も

強く、曲がったことが大嫌い、といった人)が、生命倫理の問題について、きちんと倫理的な

思考ができたり、倫理的に正しい判断(それが「唯一正しい」かどうかには関わりなく)が
できるか、と言ったら、それは大きなまちがいである。

いくら善意にあふれた人であっても、
その当の問題を構成している現実についての知識が
非常に乏しかったり、
マスコミ報道などによる一方的、一面的な情報だけにさらされている場合、

それがどのような点で倫理的な「問題」であるのか、ということすらわからない

ことが多い。

たとえば、

・自分だったら、どうやっても今の医学では助からない病気で、ただ苦痛が増していく

 のを避けられないような状態になったら、死なせてほしいから、安楽死や尊厳死を

 認めるべきだ、というような意見。

 (逆に自分ではなく、自分の家族がそのような状態になったときのことや、それに

 手を貸すことについての医師や医療者の葛藤などを想像すらしない人もいる)

・子どもの脳死臓器移植について、マスコミなどの報道は、それを必要としているのに
 「日本ではできない」ために亡くなっていく子どもや親たちの無念さ、寄附などを集めて

 海外で手術を受け、成功し「いのちを贈られた」子どもの感動物語ばかりを流す。

 こういう番組だけを観ている人は、善意にあふれ、思いやりがある人ほど、

 「それを認めない日本はなんと残酷な国なのか」といった短絡に陥りやすいだろう。


「生命倫理の教育」で大切なのは、
その人がその問題について最終的にどのような意見をもったり判断をしたり

するかに関わりなく、いろんな角度からその問題をみる力を養う
ことである、ということは、まずたしかである。

このことについては多くの人がなるほどそうだ、と言うだろうが、

私は、もう一歩進めて考える必要があると思う。
なぜなら、現実には、いろんな角度からそれをみられるような形では情報は与えられて

いない、むしろそれをある特定の方向からしかみないように、あるいは(他の方向から

みるならば当然みえるであろう)他のものを隠すような仕方で、

ある種の情報操作が(時には意図的に、時には無意識のうちに)行われている

のが普通だからである。

そうすると、私たちが生命倫理のほんとうの「問題」を問うためには、
私たちの日常さらされている情報や、表面的に現れている「問題」に隠されているもの、
私たちにみえていないものは何か?
を問う想像力が要求されることになる。


そのことに気づかせるために、私がよく講義で使う一つのお話がある。

数年前、テレビで、「クローン猫誕生」のニュースが流れたときのことだ。

テレビの画面には、このクローン猫作成を依頼した、いかにもお金持ちそうな

初老の女性が当の猫を抱いているシーンが映し出された。

この女性が飼っていた猫が亡くなり、悲嘆にくれた彼女は、その猫のクローン個体

を作成してもらい、もう一度その猫といっしょに暮らしたいと思ったのだという。

上品な笑みを浮かべながらその猫をなで、「しぐさまで、そっくり~」と語るその女性

を観て、私はずいぶん腹が立った

ということを学生たちに話した上で、


「なぜ私は腹が立ったのか、みなさんわかりますか?」 と問いかけてみる。


ほとんどの学生は、キョト~ンとしている・・・・・

大切なのは、このテレビ画面をみたときに、
私のような一部の人には「みえて」いて、それ以外の人には「みえていない」もの

が何か、である。

詳細は省くが、動物の成体からとった細胞(体細胞)をもとにしてクローン個体を

誕生させるためには、その動物の卵子(未受精卵)が必要である。

この猫がどのくらいの試行の末に誕生したのかは正確には知らないが、
何百回の試行の末にやっと生まれた一匹だろうことは確実である。

そうすると、妊娠させられた猫の数はどのぐらいになるだろう?

痛い注射(排卵誘発剤)をされ、全身麻酔をかけられて、卵子を摘出された

猫の数はどのぐらいになるだろう?

この一匹の猫をこの世に生み出すために、どのぐらいの猫が無理矢理実験の道具に

され(猫にインフォームド・コンセントはあり得ない!)、痛い思いをさせられ、妊娠させ

られ、流産してしまったのだろう?

(排卵誘発剤の害によって、あるいは流産の際に命を落とした猫もそう少なくはない

だろう)

私は、猫を飼っているわけでもないし、特に猫好きでもないが、
「この女性には猫を飼う資格はない」、と思った。


さて、ここまで話した後で、学生たちに、次のことを気づかせる。

すなわち、少なくとも、

・体細胞クローン動物というのが、どのようにして作られるか、ということについての

 ごくごく初歩的な知識と、

・体外受精などの生殖補助技術(=ふつう言われる「不妊治療」)についての
 初歩的な知識(たとえば卵子の摘出が女性の身体にどれだけの負担をかけるか

 といったこと)

がありさえすれば、私がこのテレビ画面をみたことによって「みえた」
ものは
「みえるはず」とまでは行かないかもしれないが、「みえてもおかしくない」のである!

実はこの講義のときまでに、学生たちはそれを「知識」としては知っているわけで、
それにもかかわらず、そこに「想像力」がうまくリンクしないために、この「問題」が
みえないのだ、ということに気づくことで、けっこう学生はハッとするようだ。

もう少し書きたいことがあるのだが、それはまた次回。