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かっぺい自伝 ~思い出すままに~

父が生きていたら今年で101歳。父の自叙伝を生涯暮らした古民家からの便りとともにつづります

今年2025年は戦争が終わってから80年という年になります。

 

かっぺいさんは青春の時代を戦争という時代の中で過ごしました。自分の理想や希望と戦争という現実のはざまで何を先生への手紙にしたためたのかは定かではありませんが、この先生の手紙には教え子の悩みに向き合い、当時の厳しい状況の中で言葉を選びながらも、自分の願いや思いを真摯に伝えようとしている姿が浮かび上がってきます。

 

今の時代にも伝わるお手紙です。(口語訳)

 

「君が国のために一生懸命がんばっている様子を聞いて、本当に嬉しく思っています。
僕も毎日、工場と学校を行ったり来たりしながら、昼も夜も働きづめで、家では家族が病気で大変な毎日だけど、元気でやっています。
寒がりな僕がこたつもなしに過ごしていると聞けば、今の生活がどれだけ厳しいか想像がつくでしょう。

昔、明治の初めに生野で自ら命を絶った南八郎という志士が、死ぬ間際にこう言いました。

「口であれこれ言ってるより、行動しろ。国が大変なときに何もしないような人間は、愚か者だ」と。
今の時代も、まさにそれが身にしみます。
 

どれだけ議論しても、一粒の米もできないし、机を叩いて熱く語っても、銃弾一つできません。
今みたいな厳しい状況で、のんびりしているなんて許されない。とにかく必死に行動しなければならないんです。
泥だらけになろうと、機械の前で手を動かそうと、自分の身体を使ってこそ、本当に意味のあるものが生まれるんです。
どんなに立派な理屈を百回並べても、それだけじゃ何も変わらない。
 

人生は理想の文章でも、綺麗な絵でもありません。
敵の爆弾は一瞬で命を奪う。真剣勝負の中にいるなら、僕たちは真剣にならざるを得ないはずです。でも、規模が大きくなって目に見えづらくなると、小さな人間ほど気が緩む。だから今こそ、自分を律してこの時代に向き合わなければならないんです。
 

学生たちが本気で戦えるのは、自分の頭で物事を見通す力があるからです。だからこそ、経験は少なくても、しっかりとした考えと深い気持ちを持っていて、将来きっと大きな成果を出すことができます。だから学生自身も、自分はただの若者だと他人事のように考えずに、自分の信念として行動してほしい、これは立派な考え方(理論)なのです。
とにかく、頭を空っぽにして現実と全力で向き合えば、そこに道が開けます。

今、湖のそばで寒さに耐えながら君が頑張っていることを、本当に立派だと思います。
ただし、自分の理想や希望だけに酔っていては危ない。
そういった観念は、現実を前に進めるためにこそ意味があるのです。
机の上の理論ばかりだと、現実を軽んじてしまうから。

だから、僕たちの未来を照らすものは、現実に根ざしていて、実際に経験したことに支えられていなければなりません。

今、君がこの寒くて厳しい場所で得ている新たなスタートは、きっと深い経験の上に積み重なって、頼もしい若者の姿となって現れてくると信じています。僕はそれを楽しみに、期待して見ています。

もし、また田辺(地名)に帰るようなことがあれば、ぜひ立ち寄ってください。
こたつの代わりに、炉の灰をかきながら、ゆっくり話ができるのもいいですね。

体に気をつけて。くれぐれも無理をしないように。」

やがて、勤労動員の命令により、昭和20年の冬、滋賀県安土町で米の増産のための干拓事業に従事することになった。1 9 4 5年、太平洋戦争終結の年である。

宿舎は掘立小屋のひどいものであったし、今の様に機械を使うわけでもない、全部手作業による築堤である。
 

楽しみと言えば、休日に近所の農家から和船を借りて、漕ぎの練習をするか、安土城跡に登って琵琶湖を見渡しながら、その広大な風景と、織田信長の偉業に思いをめぐらす位なものである。然し、この二つは、今でも良き印象を残してくれる。一時、読書も勉強も何処かへ吹っ飛んでしまった様な気がした。 

 

こんな時に、中学校で国語を教わり、先生の家にもお邪魔して話も聞いて、教わることの多かった森田先生に手紙を書いている。それに対する返事を、母が封筒にしまっておいたものが後にみつかった。私がどのような内容を手紙に綴ったのか記憶にないが、単調な毎日の作業に何か空しいものを感じて、多少の不満を込めて書き記したものと考える。ここにその先生の返事の全文を掲載する。

 

「お国の大事に健闘の由何よりと存じます。小生も工場と学校を往復して、昼夜兼行、その上家内の病気などで多事多端ですが元気です。寒がりやが矩燒(こたつ)なしという所で、ほぼご推察を乞う。天誅組の別動隊、例の生野(いくの)で腹を切っだ快男児、南八郎が辞世に『議論より実行を行へ。なまけ武士、国の大事をよそに見る馬鹿』と喝破した事が今更身に沿みます。
 

手を供いて議論してみた所で一粒の米が出来るでなし、机を叩いて口角泡を飛ばしても一発の弾(たま)も出来ません。この時局にノンベンダラリと居る如きは当(まさ)に死すべきです。遮二無二(しゃにむに)飛び込んで行く所、土でござれ旋盤でござれ、身自ら手を砕いてこそ理屈でないものが生まれて来ます。

 

百の口頭禅が何になる。人生は文章でもなければ、絵でもない。敵機の爆弾は一瞬にして生命を奪う。真剣勝負の最中に真剣になり得ない者は無い筈である。ただ、舞台が大きくなり、規模が拡大するとき小人は隙を生ずる。この故に今の時局に挺身しない者は愚物であり取るに足りぬ小人であり、国家に害を為すものである。
 

学徒が敢闘し得るは、この大局を達観し得るが故である、盲目的活動に非ずして真剣になり得る明と敏を持つが故に力強い根底がある。  一介の権兵衛、太郎兵衛の企及し得ざる精神的根ざしが深く強く培われている。作業の能率が多年の熟練に比して劣るものありとするも、その根の深さは、その明敏の達眼は、やがて彼らを一蹴し科学的根拠に立つ偉大にして、福るぎなき大いなる効果を期待しうる。学徒はこれを第三者的に考ていてはならぬ。これも亦一つの理論であるから。

 

ただ無念無想にして現実と戦えば、そこに無碍の大道が開ける。この意味に於いて寒風にさらされながら湖岸に奮闘する貴君の挺身を壮とし偉とする。勿論自己の小さな理想や希望を観念的に形成したものを、厳しい現実に対照せしめる事は厳戒を要する。観念は現実を推進するが故にのみ意義がある。


机上の理論は往々にして現実を蔑視する、故に吾人の前程を照らす灯明は現実を火皿とし、体験の油を注ぎたる歴史的自我の燃焼でなければならぬ。

 

この意味において、貴兄が湖畔に於いて獲得すべき新しい発足は退しさと溌剌さとを金剛不壊の体験の上に築きあげて、中堅青年の頼もしい勇姿となって現れるであろう。大いなる期待をかけて刮目している。


三百畳の伽藍堂に、句を語るもよし、想を練るもよし、唯現実に対する真剣さが根底をなす時、そこに生命が躍動する。また時々書いて下さい。田辺へかえる事でもあったら寄って下さい。寒炉の灰を掻きながら語るも亦可ならずや。寒さの折からご自愛を。    2月1 5日  深夜作業の時。
 

    勝平君         京都府立桃山中学校勤労動員学徒監督者   責任者   森田 

 

原稿用紙は「寺内製作所」のものである。禅宗の坊さんに説教されている様な気もするが、私の書いた手紙に、今この現実に対し、むしろ、軽蔑的に自分の理想や希望を述べた愚かしさを注意されたものと考える。

 

先生が死去されたのは昭和47年2月6日であり葬儀にも参列した。多くの花に埋もれた容貌はいまでも忘れられない。新設された府立八幡高校に就任した翌年であった。先生のことは再び触れる機会がある。


 

                 (つづく)

 

いわゆる、一年浪人、二年浪人とかの経験はそんなに珍しいものではなかった。当時、京都市内の寺町二条に府立第一中学(現在の洛北高校)の自習学舎があり、浪人ばかりの予備校といってよい。

 

あまり勉強は進まなかったが、教師には優秀な先生が居られた。英文学の寿岳文章、漢文では哲学者、三木清の弟さん、歴史には茶道の西堀一三、この先生は戦時中にしては面目躍如たる所があった。東条英機が時の首相であった(昭和16年10月東条内閣が成立)が、「英機(英国の飛行機)が来れば、東条(どうしよう)」なんて駄洒落を飛ばされていた。


この前後にアメリカの艦載機が日本の上空に飛来するようになってきた。受験の勉強は続く。受験校は徴兵延期の特典がある教員養成学校を選んだ。その一つは広島高師(現在の広島大学)であったが、失敗、やむなく京都師範学校に入学。

 

寮生活を強いられ、空腹を我慢する毎日の連続であった。その上、上級生が訳の分らぬ難題を押しつけて、夜呼び出して殴るようなこともあった。正直いって、よい印象を持つことはできなかった。

 

(続く)

その人は、野戦上がりの陸軍少尉であり、滋賀県から通っておられた。五年の教練の時間であったが、散開して敵に備える訓練中のことである。


当の将校が

「おい、あれをみろ」と云う。

「あんな所で機関銃を構えたら、銃が飛び上がってしまうぞ」

とわらう。

私が「伏せ」の姿勢をとっている時であった。

 

指揮にあたっている、いま一人の大尉の将校は実戦の経験が無かったものと思う。この野戦上がりの林将校には可愛がって貰ったし、演習の際の敵情報告なども、よくあてられた。従って「教練」は優秀な成績であった。

 

学校では、年二回程度模擬試験が実施され、その結果は印刷して公表される。そして、成績優秀な生徒は全校生徒一千人のの前で表彰される。賞品は学習帳一冊程度であるが、一、ニ回表彰された記憶がある。受験生にとっては、励みの目標であり、実力があると云うことだ。しかし、その後の受験した結果からすれば、「実力」があったとは言いきれない。

 

 

卒業は昭和1 8年(1943)   3月である。既に同級生で陸軍士官学校、海軍兵学校等に進んだ者もあった。日本からすれば鳴り物入りの「真珠湾攻撃」から2年を経過し、戦況は好転しているとは言い難い状況であった。

 

今ではこの様に客観的に考えることができるが、当時は台風の渦巻きの中にいるようなもので、新聞は日本軍の一方的な情報ばかりを報じていた。


私の目的は戦争云々よりも、旧制高等学校の文科に合格する事のみに絞られていた。実力不足のため、不合格となり、一年間、再び勉強に費やすことになった。
 

 

                                 (つづく)
 

昭和16年4月から一年下の学年に編入された。落第かと言われる度に一々釈明しても始まらないので、そのうちに分るものと割り切ることにした。


ただ、変化があったのは、成績が徐々に向上していったことである。クラスは大体50名程度であったが、以後卒業するまで十位以内の成績であり、なにか「やる気」が出てきたためと思う。

 

目標は四年となれば受験である。国語、数学、英語、漢文等、参考書を求めて繰り返し、取り組むことにした。英語の場合は文脈の把握が出来るようになったし、数学は、元々不得意学科であったから、自信はなかったが、方程式や、応用問題をこっこつ解くなどして、段々解ってきたように思う。


この年、1941年12月8日太平洋戦争勃発。

 

朝、登校前にラジオのニュースでしる。世の中も、学校も戦時色が濃くなりつつあった。学校では「教練」なる科目があり、配属将校と下士官が担当していた。

 

私は別段この教科について、嫌悪の情を持たなかったし、時には、面白いと思うこともあった。

これは行進や訓練云々のことではなく、指導者の人柄によるものと考えている。


 

1 0月頃から原因不明の熱が下らず、北川氏の紹介で、大阪の津田(現在の片町線沿線)で開業されていた田中医師の診察によれば一種の伝染病でパラチフスであるとのことであった。

 

当時、伝染病と云えば家全体を消毒せねばならず大変であったが、田中さんの指示は、「専任の看護婦をおいて治療すること、余病として肋膜、黄だん、中耳炎のいずれかが併発するので、当方の指示に忠実に従う」ことが条件であった。


幸いにも、家の消毒という事態は避けられたが一年の半分は登校出来ないことになる。「休学、留年」と言うことになるが、連日三八、九度の熱にうかされていては留年など全く頭に浮かんでこなかった。


看護婦は紺野さんと云って、山形県の出身で処置は適切であったと思う。この病気中は両親よりも、看護婦の方に全部みてもらったといってよい。やがて、肋膜炎を併発、湿布等の処置をしなければならなかった。やがて、熱が下がり病状が安定して、おおむね快癒するまでニヶ月以上は要したと思う。紺野さんが去る時は非常に淋しい思いがこみ上げてきた記憶がある。はじめて体験した男女間の愛情である。

 

 

 

               (つづく)

生れて始めて、当時日本占領下ではあるが外国を旅行して異文化の香りに少しでも触れたことは意義があった。

 

しかし、旅行中の我らの態度にも反省すべき点があった。

                                                      <満州旅行 行程>

一つは釜山からソウルに向かう車中の出来事である。現地の人が、ある駅から乗車しようとしたが、乗っている我々が乗車を拒んだのである。駅長の怒りの言葉が生々しく耳をうった。
「こんなことで五族協和ができるのか」と。

だれも答えることはできなかった。
 

いま一つは長春で、苦力の引く馬車に数人で乗った時の様子である。うす暗い街路は汚く、日本人であるわれらが階層の上であるかの様に乗っている。苦力が必死で馬を叩いている。この光景が痛ましかったし、中国人にすまないとの気持ちがした。
 

こうして旅行を終えたが、私にはどうにもならないことが起った。病気である。

           

                              (つづく)
 

4年生となり、桃山中学独特の「満州旅行」が実施された。

これが桃中最後の満州旅行である。

 

行程は2週間、下関から興安丸(戦後復員船として活躍した)に乗船、翌朝釜山(現在の大韓民国、プサン)に上陸し、ソウル、ピョンヤンを訪れた。

         

            <ピョンヤンにて 1940年5月>

 

特に、ピョンヤンは歴史的遺跡が多く、景観の素晴らしい街であったことが印象深い。今は北朝鮮の首都であり、日本との国交回復が期待されている。鴨緑江を超えて、現在中華人民共和国の北西部(旧満州国)に入り審陽に到着した。

 

当時は戦時中であり、汽車の窓は夜中閉ざされたままであった。審陽は旧奉天であり日露戦争の折日本軍が大山元帥を先頭に入城した写真を思いだす。そこから、更に長春を経てハルビンまで足を伸ばした。ハルビンは西洋の都市といった趣があり、白系露人に会ったのも始めてである。 

 

友人数名と石畳の街を散策し、喫茶店ではクリームソーダが、こんなに美味なものかとおもいつつ三杯ほど飲んだが、これが禍したのか、ハルビンから旅順に引き返す車中で高熱を出した。二等車で眠りこけ担任に随分心配をかけたことを覚えている。
 

旅順は日露戦争で激戦のあった二百三高地、乃木大将とステッセル将軍が会見した、「庭にーもとなつめの木」と歌われた水師営も見学し旅順港の紺碧の海が今も瞼に残っている。
大連からは1万屯の扶桑丸で帰国の途についたが、玄界灘で船が大きく揺れて立つことが出来ないほどの状況で、生徒の半分以上は嘔吐したのではないか。

 

<大連 門司 扶桑丸にて>

 

    (つづく)

昭和1 2年4月京都府立桃山中学校に入学、付属小学校から桃中に進んだ者もおおい。田辺小からも二人が進学した。

 

カーキ色(黄色に茶が少し混った色)の制服に編み上げ靴、ゲートルを巻くといったもので帽子には針金が縁取りしてあり軍服とよく似ていた。登校するとコンクリート敷きの集会所でゲートルをはずし靴を履き替える。クラブは弓道部に属し、指導者は温厚な老人の先生であった。
当時の中学は五年制であり、卒業後は旧制高等学校か、旧制尊門学校に進むか、あるいは家業を継ぐ者もいたと思う。

 

                 <中学校 制服で>  

 


1年の担任の先生は小泉八雲の子息であり、英語を教わったが、冬頃だったか、癌で亡くなられた。ただ、活気のある緊張した授業とは思えなかった。

 

3年まで成績は悪く、一時、2 0 0人中1 7 0番位まで落ちたことがあった。両親は何も云わなかったが、心配していたと思う。             

 

父から同郷の出身で第三高等学校(今の京大教養学部)から法学部に進んだ友人に会って息子を立ち直らせたいと頼んだことを聞かされた。暫く勉強をみて貰ったが余り効果はなかった。

 

<桃山中学国旗塔>

 

                       (つづく)

小学生の頃は幼年倶楽部と少年倶楽部をよくよんだ。特に田河水泡の「のらくろ」は愛読して、単行本を親にせびって寝床で読むのが楽しみであった。捨て犬であった「のらくろ」が軍隊に入り、機知とユーモアで出世して行く物語である。他に「冒険ダン吉」「唐獅子城」等も楽しかった。

                                                          <「のらくろ」 より>

 

 

4年頃からは国語の副読本が印象に残っている。後に名作であることがわかるが、アンデルセンの「マッチ売りの少女」、芥川龍之介の「トロッコ」、人夫がトロッコで遊ぶ少年に「われ、おしてくよう」とさけぶ言葉がいやに印象に残っている。「蜘蛛の糸」、お釈迦様が極楽の蓮の池から蜘蛛を殺さなかった地獄の罪人の一人を救い出してやろうとされるが、自分一人だけ助かろうとする無慈悲な心のために糸がプッツリ切れて、もとの地獄に落ちてしまうといったはなしである。小学生のことだから原作を易しく書き換えたものだが、心に残る話である。

 

6年生頃になると戦時色のせいでもあるが、日本人が極東で活躍する本郷少佐の「亜細亜の曙」や山中峰太郎の「敵中横断三百里」、「大東の鉄人」も面白かったし、吉川英治の「神州天馬峡」、武田勝頼の一子、伊那丸の活躍。「鳴門秘帖」の隠密行動にも、みせられた。

 

<昭和12年(1937年)付属小学校卒業>

 

中学校1,   2年の頃には、鶴見祐輔のナポレオン伝、ビスマルク伝等英雄ものを読んだ記憶がある。父は小学校しか出ていないし、母は府立高女といっても裁縫科出身なので家には書物らしい書物が皆無と云ってよい。

 

              <府立桃山中学1年入学>


 

兄や姉もなく読書に親しむ環境は作られていないと云ったほうがよい。親戚を見渡してみても、それらしい雰囲気はない。友人の太郎君はスポーツ新聞や父から買い与えられた本を読んでいて羨ましく思ったことがある。
少年時代、文化的雰囲気の乏しい家庭に育ったことについて愚痴を云うつもりはない。

                                   (つづく)