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かっぺい自伝 ~思い出すままに~

父が生きていたら今年で101歳。父の自叙伝を生涯暮らした古民家からの便りとともにつづります

卒業時、教師になるつもりはなく、会社就職を考えて居た。

 

主任教授は暫く高校の教師でもしてはと奨めてくれたが、母の友人の息子が東京海上火災に勤務しており、その紹介で阪急百貨店を選んだ。教授に紹介状を書いて貰って、一次試験はパスした。英語と論文であったが、英語の問題は当時読んでいた英字新聞と全く同じものであった。 

 

二次の面接は、どうもしっくりしない気がした、予想が的中して不採用の通知がきた。面接の社長は、のちに東宝の会長をつとめた清水雅氏で、小林一三の愛弟子であったと聞く。
 

たまたま、講師をしていた附属中学に英語教師ー名必要との話があり、昭和2 7年4月から正式の教諭となった。 以後十年間、同校に勤務することになる。

 

結婚については、二、三の話が持ちかけられたが、そう急ぐ事ではないと考えていた。母方の親戚の仲介で、一時は交際し始めたが、先方の母親が私自身を信用しなかったのが原因で話は途切れてしまった。
 

近所に同級生の佐藤夫妻が仲にたって、北川忠子と結婚したのが昭和二十八年十月である。忠子の兄二人は小学校の時からよく知っており、姉達も顔見知りで、親同士は昔から交遊があった。

 

挙式は平安神宮で、披露宴は、京都市内岡崎にある、料亭の別荘で行われた。宴会場は義理の従兄弟,羽栗さんの紹介によるものである。
一人息子に見合わせるについては反対する人も多い。家内の姉からも、結婚してから、そんなこともきいた。

 



昭和26年(1 9 5 1年) 2月5日に父が死亡した。

前年から体の調子が悪く、老人結核とも、紫斑病とも診断されていたが、自分の気に障ることを言う医者を断ることがあったので、突然の病状変化に駆けつける医者がなかったのである。

 

当時、大学の2回生であり、京都教育大、桃山付属中学の時間講師ををしており、週1 0時間で1 5 0 0円の報酬であった。屋台ラーメン1杯が30円の頃である。

 

午後電話があって、帰宅したとき父の意識はなくなっていた。言葉を交わすことも、声をかける事も出来なかった。余りできのよくない息子として親爺に随分迷惑をかけたことが頭の中をよぎって、涙が落ちるのをどうしようもなかった。

 

 

母と父の葬儀について相談したとき、「金はいくらあるのか」、「全然ない」という。今までどうしていたのか。私も驚いたが、これではどうにもならない。    附属中学で庶務会計をしていた加藤さん(田辺在住)に頼んで5万円を借り、葬儀を済ませた。土葬である。近所の隣組の人々が穴掘りの手伝いをされて、家で夕食をして頂き、お礼をのべるのが、しきたりであった。父の戒名は「誠正院篤誉実這箪存磨王」と、当時病床にあった西念寺の学信和尚から、つけて頂いたものである。

 

 

 

父の死から、暫くして税務署から職員が訪れて相続税の話があった。既に不動産等は調べてあったようで、私の目の前でそろばんをはじいて、三十数万円と言う、しかも、涼しい顔をして。これには驚きを通り越していた。現在なら、然るべき解決の道も考えようが、「三十数万円」なる金額の重さは当時の私には捻出不可能であった。親戚から借用して返すことも考えたが、頭を下げるのも嫌だったし、山か、田圃の不動産を売って支払う以外に方法はない様に思われた。一時、納付が遅れて家具等の差し押さえをされたこともある。母は恥だと言って私を責めたが悪い事をしているわけではないと思っていた。
 

                                                                                              (つづく)

ついでに第十集、読書感想文の序文も掲載しておく。


『一部省略読書と言えば、諸君が中学・高校・あるいは浪人生活の時に読んだものは殆ど忘れられないものとなる筈である。

 

私の場合、出発点は漱石の「草枕」、これは国語の先生に奨められたものだが、最初相当難しかったが、二度目あたりから面白いと思うようになった。出戻りのお浪さんや、峠茶屋の婆さんの歌う「秋づけば尾花が上におく露の消ぬべきも吾は思ほゆるかも」、そしてオフェリヤ、ハムレットを英文で読もうと思って実行した。

正直いって楽しかった。Charles    Lambの Tales from    Shaskespeare    である。

 

本は寺町二条辺りまで出かけて古本屋を探した記憶がある。浪人生活の時は「三太郎の日記」(著者、阿部次郎)を先生に借りて読んだ。

 

いとも内省的な中学生として気取っていたのかも知れない。こんなことが人生にどれだけプラスになったか、今も正確には分からないが、自分の人格を形成した一部にそれらの経験が潜んでいることは否定できないと考える。』

 

                        (つづく)
 

2回生も終わる頃には、卒業論文のテーマを決めねばならない。この間の事情については、洛北高校の読書感想文集の序文に書いたものがあるので掲載しておく。


『第十集には私の1 7, 1 8オ頃の経験を記しておいたが、今回は大学とそれ以後のことに触れておく。入学後、主任教授との懇談会で原書百冊を三年間で読むように言われて驚きどころではなかった事を憶えている。

 

卒業論文については一つの考え方があった。中学時代から関心のあった漱石の英文学に関するものは眼を通しておいた。「文学評論」はDefoe, Addison, Steele、Pope. Swift の五人の作家を論じており、何れも1 8世紀初頭の文人達であるが、DefoeとSwiftは特に面白かった。Defoeは「ロビンソンクルーソー漂流記」を書いた男である。

 

Swift は余り知られていないが、「ガリバー旅行記」を書いた人であると言えば誰しも頷けよう。 そして、彼の作品がそう多くないと思い、「俺はこの作家をやる」と友人達に宣言してしまった。

            

 Jonathan Swift (1667年11月30日 - 1745年10月19日)

 

                        (「ガリバー旅行記」より)

 

後になって気がついたが、Swift の作品集が1 4巻書簡集6巻もある。一年間では、とても読みこなせまい。この作家を卒論に扱った友人が二人いて、大学の教授になっている。

 

親爺が在学中に死んで、アルバイトもやったし、結構遊びもしたから偉そうなことも言えまい。私のものが、あまり良くなかったか、思えば呵々大笑である。

 

1 8世紀初頭、英国ではアン女王の時代である。地方の大邸宅に住む貴族のもとに、ロンドンから政治、経済、文人サロンの情報が続々送られた。現在の新聞のはしり(はじまり)である。スイフトがその簡潔な文章でもってpamphleteer (パンフレットの筆者)と称される所以である。
 

二十代が青春時代とすれば、三十代は勉強の時代である。なにも教師だけに限らない、会社員でも、公務員でも、建築士でも同じである。私について言えば、スイフトの書簡集は一通り読んだが、作品集は半分も読めていない。

 

四十代は仕事に追いまくられる多忙期と云ってよい。五十代になると段々読書欲が薄れて雑用ばかり頭を痛める結果になる。


こう振り返ってみると、諸君が中・高校時代に親しんだ読書体験が案外あとまで尾を引くことが分かって頂けたと思う。洛北に学ぶ好漢、自重して読書に励め。』
                                    (つづく)

旧制度の大学(昭和28年まで)は3年間である。留年して一年伸ばすのも自由である。友人の一人は一年遅れて卒業している。卒業論文を完成させるために留年する者も居る。

 

今までは、勉強のみに専心したように書いているが、決してそうではない。

小学校に職を置いて居る間も、よく遊び、よく飲んだ方であるが、費やす時間が他の人より少なかったに過ぎない。

 

大学に籍をおいてから、小遣い稼ぎにアルバイトに時間をさいた。

親戚に緑茶販売をしている人がおり、田辺から京都市内の阪急四条大宮駅まで、茶1 0 kg入りの袋2個を運搬するものである。当時は奈良電鉄(今の近鉄)が丹波橋経由京阪電鉄に乗り入れていて、三条ゆきの直行電車があった。戦時中、軍の要請で実現したものである。

 

講義には大体真面目に出席はした。母が苦心して出してくれた授業料を飲食に使ってしまって、大学から請求書が郵送されてきた記憶もある。また、有人有志と志賀高原から草津峠を越えて草津温泉に宿泊して、東京回りの旅行をしたこともあり女子学生が1名参加したことも異色であった。

 

ラテン語の単位の修得には悪い意味での一計を案じて、参考書の文章の始めの文字をアルファベット順に並べ、ある種の辞書を友人達と作成した。私の家の二階で、わいわい騒ぎながらである。成績は「優」であったが、全然読めない。教授は必ず同じ参考書から出題すると聞いていたから、「もっけの幸い」であった。だれが言いだしたのか、明らかでないが、私もその一人であることは間違いない。

 

 

(つづく)

 

五年の担任として、同校に一年間勤務。

 

街では大学教授などが、民主主義についての講義があり、米兵が至るところで見られ、私の家の近くでも俗に「パンパン」なる女性と米兵をよく見かけることがあった。
 

後の駐日大使であるライシャワー博士の講演があるので参加もした。京大西洋史の原随円さんが紹介者であった。英語と日本語とが混じった内容で、表現し難いところは英語を使うので、だれか通訳のできる人はいないか、と求められていた。

 

要するに、日本にも戦前「民主主義」の盛んなる時、明治の自由民権運動を引用されていた記憶がある。「学者街頭に立つて、democracyをとく」の一時期であった。

 

昭和24年4月(1  9 4 9年)京大文学部英文学科に入学,五年前、もし広島高等師範に合格していれば、その年の7月6日に原爆が広島上空で炸裂したので、どのような事態になったか想像がつかない。不合格が逆に幸いしたといえる。

 

 

 

     (つづく)


 

当初、大学に入れば、西洋史をやりたいと志していた。

 

是には、二、三の原因がある。斉藤吉史と言う講師が師範時代に在籍されていて西洋史に近い講義を受けた事がある。東京文理大学出身(現在の東京教育大学)で哲学を専攻された。新鮮な講義でなにか惹かれるものがあった。その影響があった様に思う。

 

「ブッチャー」の「ギリシャ精神の様相」、三木清の「哲学ノート」なども読み漁った。然し、世情の赴くところすべて、デモクラシーであり英語が一つの武器にもなると言う訳で専攻を英文学に変更した。厄介なことに、外国語の受験科目が二科目、独、仏のいずれかを選ばねばならなかった。
 

夜、勤務終了後東山の教会でドイツ語の指導を受けた。講師は京大文学部美学専攻の助手をされている北島常道さんで、私が進学して以後も十年ほど交わりがあった。北島さんは旧制高校卒ではなく、傍系の出身であることを語られ親しく指導して貰った。人情味のある人で、大学入学後も数名で寺巡りをたのしんだ。醍醐寺、一言寺、美しい尼さんがいるので合いに行こうと、奈良の法華寺まで足を伸ばしたこともあった。


とにかく、昼は学校勤務、夜は教会での勉強など、無我夢中の一年間であった。

 

昭和2 3年3月の入試は不合格。もう一回トライしてみようと決心するのに時間はかからなかった。

 

 

卒業が近づくにつれて就職すべき学校を選定する必要があった。

 

「出来れば、勉学を継続できる京都市内で、電車の駅に近い所にある学校」を希望した。随分厚かましい要望とは思ったが、担任にも無理を言って実現してもらった。

 

学校は「京都市立、立誠小学校」で京都市中京区木屋町上ルが所在地である。

今でも京都の繁華街の中心地であり、京阪電鉄四条駅から徒歩5分位の所にある。

 

勤務する場所としては理想的であるが、大学に進学したい気持ちと教鞭をとる実務の毎日だから、二兎を追うことになる。

 

苦痛は覚悟していたが、それよりも半年も経たないうちに、どうも小学校教師には向いていないと思いはじめた。何の授業であれ、絵画工作でも、体育でも、音楽でも、うまくこなす技が無かった。それも一つの原因であるが、一点に集中する強さに欠けていた事が大きな要素であったと思う。

 

この時の教え子は還暦を既に過ぎているが、同窓会に出てもあまり大きな顔も出来ない。

あれで教師だったのかと悔恨が残る。

 

 

 

 

 

 

(つづく)

二十世紀の前半は1 9 4 5年8月1 5日をもって終了したのである。

 

戦後昭和22年3月まで同校に在学して可成り自由な生活を送ることが出来た。所謂敗戦後の虚脱状態にも陥ることもなかったし、食糧については、新田辺の近くにある一反歩、約1 0アールの土地で「こめ」を作り、薪等は現在京田辺市役所の西側にある通称「ごんべ谷」の山に大八車を引いて、父と二人で伐採した。農家の人にも随分助けて貰ったが、半ば自給自足の生活であったように思う。

 

 

 

 

学校は学制改革により高等専門学校に位置づけられていたし、直接、大学に進学出来るようになった。私より以前の人は夜間の専門学校を経て大学に進学する以外に方法はなかった。

 

私の関心はやはり進学にあった。一年半のブランクを取り戻  すべく勉強に集中した。英語などは全く触れる機会も無かったので中学校のリーダーの再読から始めることにした。

 

すでに、GHQ(我々は進駐軍と呼んでいた)が数々の改革を指令していた。婦人参政権、労働組合法、農地改革等、新しい指令が次々と出された。

 

この農地改革が小地主である私の家に大きな影響を及ぼすことになった。

 

                           (つづく)


昭和20年5月、千葉県松戸市にある陸軍工兵学校に入隊した。 身分は伍長相当で特別甲種幹部候補生である。戦況が厳しいことは分かっていたが、軍隊は始めてである。どちらかと言えば、不器用で要領の悪い方であるから、最初から右往左往したのが実際である。

 

敵襲に備えた作戦、演習などよりも芋造りや穴堀りに苦しめられた、下士官が監視しているので、手を抜くことが出来ない。一個中隊は四区隊に分かれ、区隊長は大学出身の見習士官であった。

 

この太平洋戦争末期の軍隊生活で忘れ得ないことがある。

 

一つは、米軍が新型爆弾(原子爆弾)を投下したとのことで全員集合の時である。「敵が君達の親、兄弟を楯として攻めて来た場合どうするか」との質問である。挙手して答えた者があった。「撃ちます」と。今にして思えば、相当な答えであるが、もし自分が名指しされた場合同じ答えが出たかどうか分からない。絶対服従の軍隊では「できません」とは言えなかったと思うし、挙手までして答えた者を云々する気はないが、「随分、勇敢だ」と思ったことを憶えている。
 

いま一つは、終戦の詔勅である。8月15日正午完全軍装で集合との命令である。全員着剣し講堂に集まった。始めて聞く天皇の声である。

詔勅を聞いているうちに正直「助かった。家に帰れる」と真っ先に思った。当時なら非国民か戦争反対者と思われるが、私と同じ考えを抱いた者が居ったに違いない。

 

 

                                                        (つづく)