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かっぺい自伝 ~思い出すままに~

父が生きていたら今年で101歳。父の自叙伝を生涯暮らした古民家からの便りとともにつづります

この年の9月に第一室戸台風が関西地方を直撃し傾いた校舎の机の下にうずくまっていたことを思いだす。

 

学校は今の近鉄伏見駅で下車して徒歩1 0分ぐらいである。インクラインが近くにあったが校舎は古く、辺り一帯も風光明媚とは言えなかった。インクラインは今は竹田街道のバイバスとなっている。翌年校舎のいたみが激しく、今の近鉄丹波橋の近くに移転した。

 

私は「田舎者」と呼ばれていたが、正直、あまりよい感じがしなかった。しかし、それが特に影響を与えたとは考えない。

 

 

そのうちに友人ができて、太郎君、琢伍君と仲良しになり、相互の家を行き来するような仲になった。太郎君のお父さんは父の友人で田辺の出身、文筆業に携わっておられた。太郎君は京都大学を出て弁護士として活動している。琢伍君は同じく京都大学を出て大阪証券代行の専務を務め、現在は野村佃煮店の家業をついでいる。


昭和1  1年にはニ・ニ六事件がおこり大きく新聞報道された記事と写真が記憶に残っている。岡田啓介首相は身代わりがいて助かったが重臣の高橋是清等が暗殺された。この事件が今後どの様な展開になるのか子供心には知るすべもなかった。

 


 

 

          

 

 

                       (つづく)
 

田辺尋常小学校に入学したのは昭和6年(1 9 3 1)である。

 

昭和6年と言えば満州事変の勃発した年でもある。1904年の日露戦争、1914年第一次世界大戦、1918年のシベリア出兵を経て日本が世界のー等国への道を駆け登っていった始まりでもあった。

 

小学3年の終わり、父から転校の話が切り出されたが私にはその理由が解らなかった。父の同級生がおり、伏見に居を構えて、その長男と私が同学年である為にどうか、との話であった。学校は「京都府女子師範付属小学校」である。

 

父については、家で絶対的な存在であり、母はその命令下で祖母や父側の親戚に気兼ねをして顔色をうかがうような生活状況であった。従って母にすれば一人息子の私の存在が唯一の心の拠り所ではないかと思われた。事実そうであった。

 

父はもともと家業を継ぐべき筈であったが、魚の行商に歩き回るのが嫌で嫌で仕方がなかったと、私に洩らしたことがある。家業を何時辞めたのか明確ではない。その後、昭和3年から8年まで、さらに、12年から16年まで田辺町長の職にあった。当時の町長は名誉職であり収入はなかった、というよりは名誉職につきまわる何かがあった。

 

父が転校を私に進めたのは、「おやじが町長だから」と特別な目で見られることに対する警戒心があったのか、あるいは、付属小学校に対する漠然とした期待があったのか父に直接たしかめたこともない。その両方であったかもしれない。

 

昭和9年(1 9 3 4)付属小学校に転校したが見知らぬ者ばかりである。田辺小学校とはちがってよく勉強出来る生徒が多く、私の成績はクラスで、中の上か中ぐらいであった。

小学校に入学するまでの記憶をたどれば、一番近い遊び場所は西念寺であり、住職夫妻が農繁期、即ち茶摘み、田植え期、稲刈り期に多忙な子供を預かるために1ヶ月ほど季節託児所を開設されていた。

                   <西念寺にて>

       

 

私の家は農家ではなかったが、この託児所の子供たちと遊ぶ楽しみがあった8月10日のお盆の精霊参りや17日の観音様の夜祭り、23日の地蔵盆には夜店も出て花火に興じることも多かった。それ以外にもお寺の周辺の路地が良き遊び場であった。

                

                <西念寺にて>

 

 

<幼友達 西念寺のテツさん>

 

小学校に入学してもこの傾向は変わらなかったし、年長のガキどもと馬の背(旧307号線の長尾谷あたりの山)にでかけて戦争ゴッコを楽しんだ。

 

                  <自宅で父と>

 

夏休みには木津川に近鉄電車(旧奈良電)の停留所が開設され急行停車駅でもあったので京都あたりからの水泳客もあり、湯茶接待所やテントが立てられ相当のにぎわいをみせていた。新田辺一木津川駅間の定期を買って電車に乗るのも楽しみの一つであった。

         

                 <木津川で>

                        (つづく)

私が出生したのは大正13年7月11日(1924)である。

 

この年は東洋一の甲子園球場が竣工し、第1 0回全国中等学校野球大会が開催されたし、その前年大正1 2年には関東大震災によって東京が大打撃を受け九万余の死者が出た年でもある。

 

家族は両親と祖母の三名であった。姉ふみ子は大正9年8月に他界しており、私は一人息子として育てられた。

 

         

                   <両親>

両親

祖母琴は昭和16年4月20日に8 7オで死亡、長寿の方である。祖父は木津町の橋本家から養子として迎えられ、家業の「魚類酒類小売り所」をついだ。祖母には孝治郎という長兄がいたが、身持ちが良<ないので、祖母に養子を迎えたときいている。

 

<祖母、両親、お手伝いのお竹さんと>

 


 

私が生まれた当時の田辺町は、田辺、薪、興戸、河原、の4部落からなり立っていたが、1951年(昭和26年)4月、草内、大住、三山木、普賢寺の各村を含めて田辺町に編入された。総人口15391名である。  

                  <父と>

 

 

                                                                         

 

<1歳の頃>

 

                                     (つづく)