演劇人生 -64ページ目

演劇人生

今日を生きる!

12月は O・ヘンリー原作「最後のひと葉」

                   何故かにぎわう仏みち

身近なものに心を向けたい季節だ。


季節が風にのってやってくる。


金木犀の香りだ。


自転車で虎ノ門から溜池山王へ向かう。



信号で止まり、ついた元に

珍しく日本タンポポの小さな花があった。


踏まないよ・・・安心しろ。


上目づかいが気になるなァ。


貴公の名前を拝見したことがある。

蒲公英

爵位でも持っているのかと驚いたことがある。


土筆(つくし)、蓼(たで)、露草(つゆくさ)、薺(なずな)・・・

どれをとっても庶民的だ。

ギシギシなど漢字名が出てこない。


それに引きかえ、

雑草とは思えない立派なお名前をお持ちでいらっしゃる。


「元気でいらしてくださいたんぽぽ様」

12月は O・ヘンリー原作「最後のひと葉」

 最近少しずつ復帰してきた

   日本タンポポの可憐な姿


敬意をもって挨拶をした。

数人の方から長文のご感想をいただきました。

公表するしないの問題は劇団内にもあります。

しかし、「好評」という感想文だけを掲載するのは

片手落ちであると思います。


すでに何回か自分の考えを述べていますが、

「アンケート」は嫌いです。

よい感想をもらっては溜飲を下げ、

悪い感想をもらっては「何だこいつ分かっちゃいない」と否定扱いをする・・・


こんあアンケートなら、芝居を創る上で何ら参考になるわけはないし、

観劇した直後に「感想」を要求される客の気持ちを考えたら

失礼極まりない話でもあるのです。


「面白くない」という人にアンケートを書かせ、

次は面白い作品を創る約束もできません。

気休めとしてのアンケートであり、

「あゝ、こんなふうにみえたのか」という程度に受け留めるものがアンケート・・・

大変失礼な言い方になるかもしれませんが、

飾らずにいえばそのようなものなのです。


「じゃ、アドックは、もうアンケートは書かない」

というお客さんがいたら、それも「あり」かと思います。


不明様(FAX)


こんばんは。

芝居に感動できなくなって久しい私が本日、

「母」の最終日の公演を拝見しました。


芝居というのは作り事であり、いわば嘘の世界です。

客は嘘の世界と言うことを承知の上で芝居をみます。

その嘘の世界に客が望むものは何かというと、

面白いストーリーや舞台美術などいろいろな要素があると思います。

しかし、それだけを望むなら映画やテレビのほうがいくらでも誤魔化しが

ききますから、そっちのほうがいいでしょう。

それらと一番の違いは嘘の世界を演じる役者のパワー、

エネルギー、オーラを生で感じることではないかと思います。

しかしながら今回のお芝居では、そのパワーを感じることは出来ませんでした。

今回は特に、実話、実在の人物の、ある時代の歴史を演じるということなので、

こういう場合は、演じる役者全員、時代背景、著作を読むなどの勉強をし、

演出、スタッフ一同がディスカッションし、意見の統一を図らないことには、

薄っぺらな中身になってしまいます。 一般的な台本よりも倍以上の心の準備、覚悟が必要であろうと思います。

さもなければ実在の人に失礼な気がします。(注1)


若い劇団員は特にそういう訓練というか、勉強をして舞台に立たないと

「すき」がうまれ薄っぺらな印象しか与えることはできません。


年配の人たちが舞台に出ると、それだけで味わいが出るのは、

役や話に関係なく、その人の歩んできたであろう人生が、

味わいとなって現れてくるのだろうと思います。


中盤で、お年寄りたちが民謡の踊りをする場面や、

終盤で合唱をするシーンがありましたが、

それだけで微笑を誘うものがありました。

しかし、メインのキャストの人たちが別の世界をつくっているように見えました。

部屋と土間に分かれていたこともそれを強くしたのかもしれません。

みんな一緒にしたほうが良かったかもしれません。


また若い劇団員が、どのような意気込みで舞台にたっているのか。

いずれ誰かに目をかけてもらってテレビや映画に進出したい

というよな思いでやっているとしたら、本物のオーラを出すなんて

期待するのも無理でしょうし、下心が見え透いて、チームワークを

組むことも無理かもしれません。

他人が認めようがどうだろうか、自分はプロ意識を持ち、

ストイックな自己管理が出来なければ舞台はつとまりません。

(続く)


(注1)

今回の稽古で最も問題にしたい内容がここにあります。

大半は実在した人物ですが、

中でも、様々な書物を通して、

より一層人物像を明確にしているのが小林多喜二です。

内実一致している数少ない作者でもあります。


配された役者は台本を読んで、

「もっと重いと思ってましたが、結構軽いですね」

という。


3ヶ月前のことですから、徐々に重さが分かるだろうと思いましたが、

稽古は休む。その上、8月に別の芝居を組んだと聞いて愕然としました。


アンケートの指摘にある「覚悟」はもとより著作も読んでいなければ多喜二はむずかしい。

演じる役の人物の思想は著書なりを読めば分かる。

それを理解できなければ、理解するまで研究する。

その上で、批判的立場に立つかどうかである。

しかし、自分が批判的立場にあっても、役の人物のそれに従わなければならない。

だから、役者には重圧がかかるのだ。


自らの生き方や考えと、

演じる役の人物の生き方や考えを生きなければならないからだ。

殺人者を演じるときも、彼を否定して演じることは出来ない。

自らの到達できない役を演じるにも、

到達できない人物を演じるのではない。

背伸びをして演じれば、客席にすぐ見破られる。

役づくりとは軽いものではないのである。

「なぁ、尻尾ってしっぽか?」

何をいっているのか分からない。

「いま、家でテレビ見てるんだよ」

“NHKのダーウィンが来た”を観ているのだという。

ナレーターが「尻尾をしっぽって言ってるんだよ。NHKだよ、NHK」

という。

「いま外出先だから」

というと、

「携帯あるんだろう? ワンセグで見てよ」

「わかった、じゃ観た後でかける」

観てみると、

「尻尾」の「し」が有声音になっている。

Kの電話の「尻尾がしっぽ」の意味がやっと分かった。


しかしワンセグでは音声の正確さまでは確認できない。

急いで家に帰りテレビをつけてみた。

終わってしまっていた。


・・・と、Kから電話がかかってきた。

よほど気になっていたのだろう。


「尻尾の“し”が有声音になっていたってこと?」

「そうだよ。「っぽ」じゃなく「 っぽ」だろう?」


「これに限らずあるね最近」

「そりゃ一般人ならまだいいよ。でもNHKだよNHK」

と譲らない。


「しかし、尻尾に限らず読み違えもあればアクセントもいい加減・・・

こんなことは数え上げたらきりがないよ」

というと、

「しかし、何十遍“っぽ”って言ったか」

よほど気に入らなかったに違いない。



JR東日本の駅舎の男性アナウンスで、

「普通がつう」になっているから録り直した方がいいのでは?」

と7年ほど前に申し入れたが、

いまだに「つう」といっている。

有声音も無声音も、

アクセントやイントネーションも、

多少の言い違いも許される、

そう言える、ゆるやかな時代になったということなのかもしれない。

「よく言われます、おどおどしているように見えるって」


どこに原因があるのか、

2時間では探しきれなかった。