みなさん、2011年はお世話になりました。
私も、9月に「母」を上演し、10月は麻布ふれあい祭りで
「河童が消えた」12月にはレストラン公演で、
「最後のひと葉」を上演し、
いずれも好評をいただきました。
ありがとうございました。
心から御礼を申し上げます。
来年も頑張ります。
どうぞよろしくお願いいたします。
みなさん、
よいお年をお迎えください!!
みなさん、2011年はお世話になりました。
私も、9月に「母」を上演し、10月は麻布ふれあい祭りで
「河童が消えた」12月にはレストラン公演で、
「最後のひと葉」を上演し、
いずれも好評をいただきました。
ありがとうございました。
心から御礼を申し上げます。
来年も頑張ります。
どうぞよろしくお願いいたします。
みなさん、
よいお年をお迎えください!!
ヨドは純血種の小型犬だ。
確か、イタリアングレーハウンドとか聞いたことがある。
イタリアン的な種類でありながら、
飼い主の奥様が、秀吉の側室淀殿好みからヨドと命名したらしい。
我輩なら、茶々にしたろうと思う。
「救急車、救急車!」
と叫ぶ奥様の声が聞こえる。
「ワンちゃんじゃ救急車は駄目だよ」
男性の声だ。
「この辺じゃ動物病院もないしなぁ」
別の男の声も聞こえた。
「奥さん、可哀想だが死んじゃってるよ」
また別の声だ。
「ヨド・・・ヨド!」
奥様の声は、次第に消え入りそうな声になった。
「可哀想にな・・・」
ヨドはせいぜい2歳になったかどうかという若い犬だった。
ヨドは死んだ。
誰から何処で仕入れたのか知らないが、
餌を持ってきた主人が話してくれた。
「ヨドは直ぐそこでひき殺されたそうだ」
そして我輩の目をじっと見て、
「何だ、知っていたのか」
そう言った。
「クン」
「奥様がつないでいたんだろう?それで轢かれちゃ、たまらんなぁ」
確かにそうだ。
伸縮リードを長くしていたに違いない。
飼い主の奥様の責任大かもしれない。
「明日火葬だそうだ」
「へえ、すると我輩もいずれ火葬されるんだ」
考えたこともなかった。
火葬にも何種類かあるらしい。
安価なのは合同葬というものらしい。
他の動物たちを一緒に焼かれ、霊園に納骨して、
年間の供養料を払うのだそうだ。
猫やモルモット、みどり亀などと一緒に焼かれるのか・・・
いろんな奴の死に顔は見たくないなぁ。
ま、そん時は我輩も死に顔なんだろうが、
気持ちのいいもんじゃないよ。
骨を持って帰る場合は個別火葬というもののようで、
これには飼い主が立ち会うこともできるらしい。
奥様は、立ち会ったらしい。
そして供養もしてもらったという話を後で聞いた。
名前のことでもう一つ。
すでにお知らせしたが、
我輩は野良・・・といっても神宮外苑の一角で拾われたのも、
まだ1歳にもなっていなかったので、
「野良」という仕分けられ方にはいささか抵抗がある。
しかし、主人も野良からイメージした「人形の家」のノラを基にして
作者のイプセンを我輩の名前にしたのには間違いのないところである。
主人が演劇人でなければ、
ポチとか太郎とかのありふれた名前になったかもしれない。
それを思えば、幸せだといえるような気がする。
ところで、もし我輩が猫だったらどうだろうと思うことがある。
アメリカの短編小説作家で有名なO・ヘンリーの名前が、
拾って来た野良猫の名前らしいから、
もしかすると「ヘンリー」になっていたのではあるまいかと思ったりする。
ヘンリーでは何処にでも転がっていそうな名前だし、
犬でよかったという気持ちは変わらない。
ギ~ッ!!!
車の急停車音と同時だった。
「キャ~ッ!」
女性の悲鳴が響いた。
「やったな?」
咄嗟に我輩の脳裏をかすめたのは、
「仲間がはねられた」
という思いだった。
悲鳴を上げたのは飼い主だと分かった。
「ヨドっ!」
飼い主の奥さまが涙声でヨドの名を呼び続けていた。
我輩の住まいからは、詳しくは見えないが、
その光景は想像できる。
「ヨドちゃんは大丈夫だろうか?」
続く・・・
我輩の名はイプセン、
秋田犬と雑種との間に生まれた祖母は芝犬と結婚し、
6頭の子の末っ子として生まれた母は秋田犬と結婚した。
しかし一、二度雑種と交わり、途中、芝犬と交わった血は、
純血種と再度交わったところであがなうことが出来ないのだ。
洋犬の血が入っていないのは確かなので、
イタリア種だのドイツ種の二世だ三世だというややこしさはない。
純日本犬なのである。
純血種としての面影はほとんどないのだが、
気位の高さは曽祖父ゆずりなのだと我輩は思っている。
いやいや、これは独り善がりとか自画自賛で言っているのではない。
名前がイプセンであることから、「シェパードの血が入っていますか?」
などと聞かれることがある。
「このシルエットを見てくれ。何処がシェパードかい?」
といいたい。
通りがかりの見知らぬお人に、
「品のいい犬ですなァ」とか、「格式を感じるねェ」、
あるいは、「高貴さが伝わる」などの褒めことばを聞くことがある。
「へェ・・・そうかなァ」
散歩の途中でクリーニング屋のガラスに映る我輩の姿を見てみる。
額面通りに受け取っていいのか疑問を感じるのだが、
人目にはそのように映っているのだろう。
これだけは反論する理由もないので気分良く聞き流している。
自分では、目は下がっていて些か助平っぽく見えるし、
ちょっと鼻っ面が長いように見えなくもない。
「名前は何?」
と聞く人には、
「はい、恥ずかしいのですがイプセンといいます」
主人はたいていこう答える。
「何故恥ずかしい?」と聞いてみたい。
アレクサンダーもいるしカラカラもいる。
ベートーベンだってモーツアルトだっている。
この前など我輩の友人が北海道に移転するというので、
目印を聞いたところ、
ニッセンクジョウアサヒヤマコウエンドオリというバス停だそうだ。
その友達の名前も、黒川太郎次郎左衛門忠綱だった。
いろんな名前があって然るべきだ。
いずれ、「何故、イプセンが恥ずかしい?」と聞きたいと思う。
イプセンの名はほとんどの人は知っている。
ノルウェーの劇作家で、「人形の家」「民衆の敵」「野鴨」などが代表作だ。
誰でも知っていると言ったが、知らない人がいたのにはびっくりした。
それも役者でありながら知らないのだから一層の驚きだった。
主人の演出した作品に出ていた役者の一人だが、
セリフに出てくる我輩の名前・・・いや、間違えた。
劇作家のイプセン氏をイブセン・・・「Pu」を「Bu」と言っている。
主人も、まさか知らないとは思わなかったのだと思います。
「・・・・??」
訝しげな顔で彼を見直していたが注意はしなかった。
だが、次の稽古でも「Pu」ではなく「Bu」としか聞こえなかったのだろう。
「イプセンの作品読んだことがある?」
と聞いた。
「・・・・いえ」
「そうか。君はイプセンをイブセンと言ってるが、イプセンにしてくれ」
この日から、彼はイプセンというようになったが、
ヘンリック・イプセンをアルファベットで書くと、
Henrik Johan Ibsen なのである。
我輩は、まったく常識的な観点からしか判断できないので多くをいえない。
しかし、若しかしたら「イブセン」でも間違いではないのかもしれない。
そう思うのである。
続く・・・