演劇人生 -14ページ目

演劇人生

今日を生きる!

「え、これ全部食べられるんですか?」

と聞かれた或るタレントさん。

「食べれます」

聞き手がせっかく「食べられる」と言ってくれているのですから、「食べられます」とお返しすればいいのに・・・

ことばには霊力があるとか霊力が宿るいう考えがある。

言霊というのもそこから来ているのかもしれない。

いいことを言えばよい方向に向かうが、

不吉なことを言えば悪いことが起きるといったたとえである。


婚礼では、流れる、戻る、帰る、割れる、終わる・・・等々、

告別式やお別れ会では、続いて、次になどは常識的に使わない。

銀行や証券会社の案内で、「椅子におかけの上お待ちください」

なども避けるべき言葉かもしれない。



そういえば結婚披露宴での「拍手」という言葉も使ってはいけない言葉だ。

わたしも4千組ほどの司会をしたが、

駆け出しの頃使っていた「拍手」という言葉だが、

婚礼の何たるかを知った時から使っていない。



両家にとってもそうだが、新郎新婦にとっても来賓はお客様である。

その人たちに対して、「拍手」を要請するのは主客転倒だからだ。

「きょう初めて気分のいい披露宴を味わった」

と、以前、沢山のホテルのオーナーだった小佐野氏から声をかけられたりした。

言葉って不思議なもので、

言葉にしない方が伝わる「ことば」がある。

婚礼も然りだがパーティなど大勢の集まる席上では考えることがある。

人それぞれの思いや考えだということを考えれば、

自ずと対応の仕方を考えるべきだということだ。

つまり、それぞれに任せる姿勢である。

先日、某大学の学長のお別れ会の司会をした。

勿論、続いてや次には使わなかったし、

「お願い」もしなかった。

「お願い」されなくとも既に用意しているし、

心の準備は出来ているからだ。



最近、敬語や謙譲語の混乱も然ることながら、

省略語や愛称が氾濫している。

近美で近代美術館、東博で東京国立博物館?

「えッ?」

東博なんて、キャラメルコーンと間違えそうな名前じゃないですか・・・

多少長くても、正式に読んだ方がいいのになァと思ってしまう。

先日、尊徳記念館に行ってきたが、

尊記とは言わなかったし、国会図書館をコットとは言わない。



名称にしても考えに考えた末につけられたものや、

長年の言い伝えもある。



言葉というものを考えると様々な課題が噴出してくる。



結論として・・・ことばは難しい。


小田原の(二宮)尊徳記念館で、

三園ゆう子による三浦綾子作「母」の独り語りを上演してきた。

行きの小田急で電車の窓からは雄大な富士山の姿を見て・・・

「きょうの語りは大成功ッ!!」

な~んて言わなきゃよかった・・・

音響担当の私が大トチリをやらかしちゃいました。

フクロウの声のところで、

吹雪の音を出すわ、牛の鳴き声を出すわで大わらわ!

ところださすがの三園ゆう子さん・・・

一切動じることなく悠々たる語りを展開・・・

大きな拍手で幕を閉じました。

よかったぁ!

「終わりよければすべてよし」でしょうニコニコ!!



前のブログで、自分に「ごめんなさい」を書いたが、

「俺なんて、それしょっちゅう使っている」

との電話があった。

「そうか?」

「そうさ、自分を許しっ放しの人生だからね」

というのである。

自分に謝るのと許すのとは違う。

「ごめんね」と謝るには、そこに新たな発見と自己否定がある。

これは自分を許すこととは無縁だ。


こんな話を、電話を通じて20分・・・

両方、平行線でした。

「20分無駄にしたな」

これも、「自分にごめんな」かな・・・?

「すみません」や「ごめんなさい」

は結構口から出てくる言葉です。

他人に申し訳ないことをした時に、

この謝りの言葉はすんなり出てくる。

「申し訳ない」という気持ちが「本当にあるの?」

と聞かれると、さほどでもないのに、

「すみません」と、口を突いて出たりもする。

そんな時は、たいてい後になって自己嫌悪を感じたりもする。


そこでもう一度、「ごめんなさい」と言う。

これは、気持ちも込めずに謝った自分から、

そのことに気付いた自分への「ごめんなさい」である。