「え、これ全部食べられるんですか?」
と聞かれた或るタレントさん。
「食べれます」
聞き手がせっかく「食べられる」と言ってくれているのですから、「食べられます」とお返しすればいいのに・・・
「え、これ全部食べられるんですか?」
と聞かれた或るタレントさん。
「食べれます」
聞き手がせっかく「食べられる」と言ってくれているのですから、「食べられます」とお返しすればいいのに・・・
ことばには霊力があるとか霊力が宿るいう考えがある。
言霊というのもそこから来ているのかもしれない。
いいことを言えばよい方向に向かうが、
不吉なことを言えば悪いことが起きるといったたとえである。
婚礼では、流れる、戻る、帰る、割れる、終わる・・・等々、
告別式やお別れ会では、続いて、次になどは常識的に使わない。
銀行や証券会社の案内で、「椅子におかけの上お待ちください」
なども避けるべき言葉かもしれない。
そういえば結婚披露宴での「拍手」という言葉も使ってはいけない言葉だ。
わたしも4千組ほどの司会をしたが、
駆け出しの頃使っていた「拍手」という言葉だが、
婚礼の何たるかを知った時から使っていない。
両家にとってもそうだが、新郎新婦にとっても来賓はお客様である。
その人たちに対して、「拍手」を要請するのは主客転倒だからだ。
「きょう初めて気分のいい披露宴を味わった」
と、以前、沢山のホテルのオーナーだった小佐野氏から声をかけられたりした。
言葉って不思議なもので、
言葉にしない方が伝わる「ことば」がある。
婚礼も然りだがパーティなど大勢の集まる席上では考えることがある。
人それぞれの思いや考えだということを考えれば、
自ずと対応の仕方を考えるべきだということだ。
つまり、それぞれに任せる姿勢である。
先日、某大学の学長のお別れ会の司会をした。
勿論、続いてや次には使わなかったし、
「お願い」もしなかった。
「お願い」されなくとも既に用意しているし、
心の準備は出来ているからだ。
最近、敬語や謙譲語の混乱も然ることながら、
省略語や愛称が氾濫している。
近美で近代美術館、東博で東京国立博物館?
「えッ?」
東博なんて、キャラメルコーンと間違えそうな名前じゃないですか・・・
多少長くても、正式に読んだ方がいいのになァと思ってしまう。
先日、尊徳記念館に行ってきたが、
尊記とは言わなかったし、国会図書館をコットとは言わない。
名称にしても考えに考えた末につけられたものや、
長年の言い伝えもある。
言葉というものを考えると様々な課題が噴出してくる。
結論として・・・ことばは難しい。
前のブログで、自分に「ごめんなさい」を書いたが、
「俺なんて、それしょっちゅう使っている」
との電話があった。
「そうか?」
「そうさ、自分を許しっ放しの人生だからね」
というのである。
自分に謝るのと許すのとは違う。
「ごめんね」と謝るには、そこに新たな発見と自己否定がある。
これは自分を許すこととは無縁だ。
こんな話を、電話を通じて20分・・・
両方、平行線でした。
「20分無駄にしたな」
これも、「自分にごめんな」かな・・・?
「すみません」や「ごめんなさい」
は結構口から出てくる言葉です。
他人に申し訳ないことをした時に、
この謝りの言葉はすんなり出てくる。
「申し訳ない」という気持ちが「本当にあるの?」
と聞かれると、さほどでもないのに、
「すみません」と、口を突いて出たりもする。
そんな時は、たいてい後になって自己嫌悪を感じたりもする。
そこでもう一度、「ごめんなさい」と言う。
これは、気持ちも込めずに謝った自分から、
そのことに気付いた自分への「ごめんなさい」である。