「お邪魔します」
主人が遠慮気味に中に入った。
「こいつの足を拭かせて頂いてもよろしいでしょうか?」
あゝ、やはり遠慮していると思った。
言い方が丁寧すぎるし、
我輩が土足のまま家に入らないくらい知ってるはずなのに、
わざわざ断わりを述べている。
遠慮以上に、緊張していることを表しているのかもしれない。
「あら、気を使っていただいてご免なさい」
真新しいタオルを我輩の目の前に出してくれた。
「じゃ、失礼して・・・」
前足から二度、三度こすりつけ、後足は軽く二度こすりつけた。
「すごいわねェ。よく教育されてるのねェ!」
感嘆の声をあげてもらった。
だが、また子ども扱いだよ。
教育されたので足を拭いているわけではない。
足を舐めてもいいのだが、他人の家では行儀が悪く見える。
それに、折角出してくれたのだから、その好意に甘えただけのことなのだ。
犬の思いを理解しようというデリケートさがほとんど見えてこない。
犬を課題にしたインプロなんて段々考えられなくなってきた。
主人に導かれるまま5、6歩行くと広間があった。
「お~ッ、すてきな稽古場ですね」
今度は主人が感嘆の声をあげた。
「狭いのよ。どうぞお座りになって」
お茶を入れてくると言うなりご婦人は出て行った。
向こうのほうで、
「10分もすればみんな集まりますので」
という声が聞こえてきた。
お茶の支度をしているらしい茶碗の音などが聞こえてくる。
「そうそう、ワンちゃんの飲み物は何がいいかしら?」
「いや、こいつはいいです」
そして小声で、「ション便したくなると困るものな」
と、誰にともなくつぶやいた。
やはり主人は偉い。
ちゃんと我輩の生理状態まで慮(おもんぱか)ってくれている。
我輩は気が楽になり、改めて部屋を見回した。
昨日だったか、
「東京のど真ん中に稽古場を持っている劇団なんて贅沢」
と言っていた主人の言葉を耳にしている。
我が家はペット禁止のアパートだ。
小さな庭のある隣人の好意にすがって、
庭の一角を、それも鎖の長さで円を描けるだけのエリアを
無料でお借りしている身である。
部屋ひとつでその庭の数倍はある。
「狭い」なんてとんでもない話だ。
「おとなしいワンちゃんね」
ご婦人がお茶を出してくれたらしい。
我輩は顎を床につけて楽にしていた。
「これ、召し上がらないかしら?」
皿にのせた鶏のから揚げだ。
「どうする?」
主人が聞いてきた。
「いらない」
眼で応えた。
遠慮と緊張が主人を偉くしている.。
普段にないコミュニケーションを心がけている。
「お腹が一杯のようです」
「そう、じゃ、食べたくなったら召し上がれるように」
と言って、テーブルの下に移した。
違うんだよ。
鶏のから揚げは食わないんだよ。
鶏の骨は犬にとって危険なんだよ。
噛み砕けず突き刺さる恐れがあるからね。
肉だけ食べて骨を残してみろ・・・
あら、この犬可笑しいなんて言われかねない。
このご婦人の言っていることややっていることを考えると、
犬をインプロとかで、どんな風に取り上げるのかが結びつかない。
それが一層色濃くなった感じだ。
続く・・・