ブログネタ:今どこ?
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昨日都内のホテルで婚礼の司会をした。
婚礼もいろいろで、
数年前までは、爆弾処理司会者などといわれ、
トラブルを抱えたお客様の司会というと、
何故か僕に回って来ることが多かった。
ざっと数えても、50組はあったはずだ。
内容は、それこそいろいろだが、
特に新郎の親が、二人の結婚に反対しているケースが多かった。
続いはホテルや会館にたいする不満である。
三つ目以降に挙げられるものは、
一度決めた司会者に対する不満や、
ホテルや会館側の担当者への不満…等々である。
それらの不満は、当事者間で解決されなければならないし、
仲立ちを介して解決を見ても、根底からの解決にはならないはずである。
ところが、そのようなトラブルを経て結婚した二人のほとんどから、
「とても仲良く生活を送っている」
「毎日の生活の中で、お互いの愛が深まっています」
「私たちが感じている幸せを、みなさんと分け合いたい思いです」
このようなクリスマスカードや年賀はがきをもらい続けている。
これには、困難はあったけれども、
多少でも力になれてよかったという思いと、
実は、二人が困難を体験することで、
結婚生活の中で、二人の在り方や、
それぞれの在り方、
相手に対する自らの在り方を、
しっかり見つめることが出来たからではないだろうか…と思える節がある。
結束が強まったということ以上に、
自分の足もとを確りと見つめるきっかけになっているのではなかろうかと思うのである。
昨日結婚した二人は、
一般的に言えば、婚期を逃したと言われそうな年齢だ。
40代になるまで仕事一筋に生きてきた二人である。
しかし、初々しさは20代の二人と比較しても負けなかった。
婚期の遅れを口にする友人の祝辞は、野次的な笑いが起きた。
しかし、披露宴もお開きに近づいてからの新婦友人の祝辞には、
野次も笑いもなく、全員が聞き入った。
それは事例を挙げて、新婦との心のつながりを語ったものだった
友人のスピーチとは、面白おかしい祝辞を用意することではない…そう思えた。
最後のプログラムは、新郎の挨拶と彼の弾くピアノの演奏、
新婦のメッセージ…と、かなり一般的な構成だが、
新婦のメッセージには、みなの心をつかむに充分だったと思う。
彼女の両親は、すでに他界していない。
その両親に向けたメッセージだった。
今はいないが、彼女がドレスを着て披露宴の場に立てたのは、
その父と母があってのことなのである。
こんな事は当たり前のことだが、
他界した両親に向けたメッセージ、3分を読み通した新婦は、
これまでの司会経験の中で初めてだった。
彼女は、自らが今あることを、その在り方として示したのではなかろうか。
咳払い一つない静寂の中で、
皆がそれぞれに感じたものがあるだろうが、
喜びを感じ、幸せを感じている自分が今あることは、
これまでの歴史と共にあることと、
これから創り上げようとする結婚生活への思いと共にあることを聴いたはずである。
この二人の婚礼にはトラブルはなかった。
しかし自らの足もとを確りとみつめることからスタートするということは、
身近な存在を確実にみつめ、それとのつながりの中で自らを知ることだと思う。
これこそが感謝のメッセージだ…
司会者として、いや、
二人の披露宴に関わった人間として、
しみじみと感じた瞬間だった。
披露宴は素晴らしいものになった。
いい披露宴は司会者が作るものではないにしても、
かかわり方が大きく作用する。
勿論サービスもそうだ。
しかし何より大切なのは、
本人達二人の姿勢そのものである。
僕は結婚に失敗し、
この年になっても、ひとりちっぽけなマンションに住んでいる。
そかし今一度、過去と未来を見つめるべく、
自らの足もとに意識を向ける必要性を、今回の婚礼を通して教えられた。
記念品にもらったものは、今話題になっている小浜の、若狭塗り箸だった。
