「僕は中学の教諭をしているのですが、
生徒たちにすすめたい本があったら教えて頂けますか?」
初対面の人物から突然受けた質問に、いささか途惑ったが、
長野県の或る中学校の教諭であることを名乗り、
名刺まで渡されての質問なので、
「さあ…」で片付けるわけにも行かず、
三浦綾子さんの短かいエッセーを例に挙げた。
「役に立つということ」だった。
台所の一角で、
僕はなんの役に立っているのだろうと嘆いている。
お茶碗や箸は、毎日使われては綺麗に洗ってもらい、
バケツや冷蔵庫もしょっちゅう人間の役に立っている。
自分は、隅っこに置かれたまま見向きもされず、
埃をかぶったまま、はたきすらかけてもらっていない。
そのうちこの家も建て替えられると聞く。
そのときには、きっと何処かへ捨てられてしまうのだろう・・・
彼だか彼女だか分からないが、真剣に嘆いているのである。
最後に、誰かに尋ねられたのだろう。
「えっ、僕ですか?・・・僕は消火器です」
と答える童話である。
三浦綾子さんが以前に書いたと言う、この童話を取り上げて、
「役に立つ」とはどういうことかを問いかけるエッセーである。
存在しているだけで役に立っている在り方を考えさせる短編である。
これを聞いた先生は、しきりに感心して、
「なるほど」を繰り返していた。
子ども達は、これを聞いたら、自分達をどう思うだろうという話をした。
家庭からも、学校でも、自分への注意を向けてもらえないと思い、
孤立感を抱いている子ども達が増えているのだという。
生活の時間のずれから、家族間のコミュニケーションもままならないというのだ。
手の届く身近にある家族や仲間同士のつながりをそっちのけにして、
世界がつながることなどありえないと思う。
余りも身近で、あるのが当たり前、ありがたみも感じないが、
そこにあることに価値のあるものは沢山ある。
もっともっと丁寧に、
身近なもの、あって当たり前なものに目を向け、
その存在を確かめる機会があってもいいように思う。
そこではじめて、自らも、役に立つ在り方に気づくものがあるように思うのである。