限られた命…
最近、このことばを使う機会が多くなった。
歳のせい…?
いや、そうではないと思う。
自宅玄関前で刺殺された女の子の事件がテレビで報道されたり、
親が子を殺したとか、子が親を殺したという事件も、
数年前と比較すると極度に多くなってきた。
それと併せて、全くの他人で、面識もない人を出会いがしらに切りつけた…
などの事件も多い。
報道は、残された者の悲惨さを訴える。
・・・が、僕は、殺害された被害者が、何を思い感じたかを考えてしまう。
何故殺されなければならないのかを考えてしまう。
それを思うと、行き詰ってしまうのは仕方がない。
自分は当事者には決してなれないのだから。
被害者家族には、
「おつらいでしょうね」
「お気持は分かります」
「犯人に言いたいことは?」
・・・・・などのことばが投げかけられる。
当事者でなければ感じ得ないことを聞き出そうとするリポーターの仕事かもしれない。
だが、それを聞いたところで、思いを共有できるわけもないのである。
誰でもが、自分の命が限られたものであることは分かっている…はずだ。
今日ある命が明日もある命とは断言できないはずだ。
それは自分の命だけではない。
父や母、子や孫、友人や…全ての人に言えることだ。
しかし、それを思い、
「だから・・・・」
を考えて今を生きる人は少ない。
僕は、いつ刺されて死ぬかもしれないから、
限られた命を思え…とは言っていない。
全てのもの、それが道端の雑草であっても、
空飛ぶ小鳥であっても、
同じく、手を握れば握り返してくれる恋人や妻、夫も、
子も親も友人も…同じなのだ。
それが、踏み敷かれる雑草であれ、
その限られた命を、
より良く生きようと、今を生きている。
寝たきりの命であっても、
「だから自分も頑張って生きよう」
と、励ましを受けている人もいる。
与えられた命は、
存在するだけで価値がある。
それを絶つことは、
自らも、他人もしてはならないはずだ。
その命は、自分との関係だけで存在しているのではないからだ。
僕も、未遂の経験を持っている。
それを以ってして言うものは何もない。
いまある命は、そのもののためにだけあるのではないし、
あらゆる存在との支えあいの中に存在しているのだ・・・・
僕は、そう思う。