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クチコミネタ:住みたい町

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住みたい町は変化する・・・・はてなマーク
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10歳のころ、僕は山形の天道と言う町に住んでいた。
その頃は、みな貧しかった。
何処に住みたいか・・・など考えることもなかった。
ただ、今いるところが住み家・・・それだけであった。

その頃の貧しさは酷いもので、学校に裸足で来る子どももいた。

雪が降ると4キロはある学校までの道のりが長かった。
ぼろになった長靴から、雪解け水が滲みてきて足を濡らした。
辺りに誰もいないのを確かめてから泣いた。
・・・が、誰かが助けてくれるわけでもない。
ひとしきり泣いてから、また歩き出しては学校へ行った。

中学校時代は埼玉に引っ越した。
山形から夜行列車に乗って大宮に降りた。
朝のラッシュ時だった。
数分の間に、ホームは人だかりでいっぱいになる。
電車が来ては、それをさらうように乗せて出発する。
これほど多い人間を見たことがなかったから、
ぞろぞろぞうぞろ・・・・絶え間なく集まる人間が、
何処から来て何処へ行くのかと不思議に思いながら見続けた。
山形とは違う・・・・これほど人はいなかった。

それに冬でも雪が降らない。
これは嬉しかった。
たまの雪には、スキー遊びだ。
山形では、雪での遊びなどなかった。
鬱陶しいだけだったからだ。

高校時代は神田に通った。
朝晩友人と一緒に通学した。
列車に乗り合わせる可愛い女の子がいた。
上中里で降りるので、滝野川女子高だと分かった。
・・・ただ、それだけだった。
ある日、チンピラ学生に、
「あの女に手を出すな」と言われてカツ上げをされた。
手を出すどころか声もかけていないのにだ。
以来、女には目も向けなかった。

電機大学の所属高校だが、
文化祭でやった演劇の魅力にとりつかれて、
大学は早稲田の演劇に決めた。
早稲田は魅力的な町だった。

この頃から、住みたい町は早稲田だった。
だったと言うのは、今は違うからだ。
その頃の早稲田は、全てが学生用オーダーメイド村だった。
安心して学生できた。
古本屋や雑貨屋、食堂も乾物屋も、全てつけがきいた。
貸しがかさんで夜逃げをした乾物屋もあったが、
消えてなくなるまで学生達に人気が高かった。
催促しないからである。

・・・が、ある日店は空になった。
借金していた連中が集まってきて、
「悪いことをした」「首など吊らないだろうな」「だったら夜逃げするか」
「おれ、払おうと思っていたんだ」「いい連中だったよな」
「神さま、仏様だ」…とか適当なことを言いながら、そっと手を合わせる奴もいた。

食堂の親父はサービスがよかった。
大隈講堂で芝居をすると、
サンマ定食を出演者分差し入れしてくれたり、
デモに行くと言えば、
大きなにぎりめしを持たせてくれたりもした。

・・・早稲田が、このままなら住みたい町としてもいいだろう。
だが、一変した。

以後・・・大宮、飯能、新宿区、中野区、文京区、川口、
浦和、大宮、港区と住んできた。

しばらくぶりで天童に帰ってみた。
雪は少なくなった。
友人も沢山いる。(まだ、生きて・・・)
駅を降りると直ぐに迎えに来てくれるし、
歓迎もしてくれる。

だが、寂しいところだ。
今は、土地も家もない。
親戚はあるが、気詰まりな面もある。

住むには…考えさせられる。
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いま住んでいる赤坂もいい。

暮らし易い。

だが、ずっと住めるかどうか・・・分からない。

いずれ出て行くことになるだろう。
いや、出なければならなくなるだろう。
賃貸マンションだから・・・・

行き着く先は・・・・!?

子どものころ一番安心だった・・・・
親父やお袋さんと一緒に住める町なのかも知れない。家

最後には、そこしかないのかもしれない・・・・

後で、妹も来るに違いない。晴れ

そこは・・・・!?

天国にある小さななのである。満月