『親心・・・思いやりよ』
ほう・・・親心って?
思いやりって?
さっき街を歩いていて耳にしたことばだ。
3~4歳の子どもを連れ歩いていた母親(だろう)が、
涙をためて声をころして泣いている子どもの手の甲を二度三度叩いていた。
そこに通りかかった年配のご婦人が顔をしかめ、
「まァ、どうなさったの」
声をかける。
「さっき欲しいお菓子を買ってあげなかったから、すねてるのよね?」
年配のご婦人に答えているのか、
叩いた理由を子どもに対して念押ししているのか、
どちらともつかない言い回しだ。
「まァ可哀想に、手が赤くなっているじゃないの…ねェ」
ご婦人は、お菓子をねだった程度でこんな仕打ちをしている母親を、
確実に非難しているのだが、そのことばを子どもにかけている。
「えゝ、そうです」
子どもに同意を求めるように・・・
不思議なやりとりだ。
「親としての、この子への思いやりです!」
・・・と言うなり、グイと子どもの手を引いてその場を後にした。
ご婦人は、ひと言…
「可哀想に・・・」
さっきより強いことばで言い放つと、反対方向に去っていった。
はて・・・親としてはいいだろう。
「思いやり」とは何だろう。
優しさでないことは確かだ。
子どもにとって本当に必要なのは、優しさ・・・ではないのだろうか。
思いやりは意識的、意志を内包したことばで、
~のために・・・という「~してあげる」ことではないだろうか・・・
叩いてはいけないとは、言い切れないかもしれないが、
子どもに本当に必要なのは、
「親としての優しさ」ではないのだろうか。
その優しさをもって、すねている子どもを叱るとすれば、
傍で見ている者に対して、
「可哀想」に映るだろうか・・・
よしんば、叩いていても、
それが優しさからであったならば、
傍で見ていたご婦人の心をも、一緒に包み込んだのではなかったろうか・・・
そんな思いを持ちながら、
家に帰って来て書いている。
何か、あの子の涙が目の前にちらついて離れない。