番外146.茨城県北部から福島県中通りの駅家を考える。 | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

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「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
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前稿では、常陸国成立以前の久慈地方について考えてみたが、久慈川流域は福島県南部だけではなく、今の栃木県那須地方に及んでいたことにも触れた。

それは大田原市(旧黒羽町)須賀川という地区である。

茨城県大子町の道の駅付近で久慈川から分岐した押川は、依上地区を通り、県境を越えて須賀川地区で那珂川との分水嶺に至るのだ。

文化圏の形成は、まず河川により始まるのでは、という提起であったのだが、その理由としては、繋がりをイメージできたということが大きいのではないか。

山は、平地から見た時に視界が遮断され、その向こう側をイメージしにくいが、川はその流れにより、上流、下流という連続性を想起しやすいと考えた。

山のあなたの空遠く、幸いすむと人の言う、と歌った詩人もいたが。

それに、水は生命の源泉でもある。

そこは、人類が誕生してから最も基本的な、食料の採取エリアであったはずだ。

植物を栽培するようになり、定住が進んだ後はなおさらだ。

それは稲作の普及によって、さらにあがめられ、神格化さえされたのだった。

魏志倭人伝にも、倭人は潜水して魚を獲るのが得意だと書いてある。

卑弥呼とは、柄杓(ひしゃく)を持ち、蓑を着て、北斗七星に向かって、雨乞いの祭祀をする髪の長い巫女という意味であった。(われわれしか言ってないが😂)

「卑」を白川静さんの字統という辞書で調べてみよう㊙️

柄杓を持つ巫女が、雨乞いのために向かう先は、当然ヒシャクボシだと推測できなければ、まず古代史の真実に近づけるはずなどないのだ。小学生でもイメージできるだろう。

現代で言えば、政治について発言しなかったり、ウクライナを応援する学者の言う説など信じるに値しないのである。的外れなのだ。

天皇を擁護する歴史家の説も同様だ。

古墳時代について考察するには、発掘物と蓋然性しかないだろうと思うのだが、弥生時代晩期から古墳時代の発掘物には、まず文字がない。誰を埋葬したのかはわからない。クフ王のピラミッド と言われているものは、後世考古学者が付け足したという話もある。日本では太安万侶の墓には墓碑があったので特定されたようだ。

漢倭奴国王の金印のようなものも出土しているが、果たしてそれは本当にAD57年に奴国王に贈られたものかははっきりしていないし、列島に漢字が伝えられたのは、それより時代が下がるのが通説となっている。

ちゃんちゃらおかしいではないか?

読めない物を受け取って喜ぶのか?

意味もわからない物を喜ぶのか?

あるいは、奴国王は渡来系だから字が読めたのか?

わたしは、その金印は江戸時代に高芙蓉が作ったという説を支持する。

理由は、芙蓉の祖父が水戸の光圀の家臣だったからである。

光圀は、那珂市の静大神宮の銅印や、那須国造碑の発見に深く関与していた。それを芙蓉の祖父が見ていたと「推測」したのである。

水戸領内のいくつかの神社の由緒書創作にも関与しているようだ。それ以前に由緒書があったのかも疑問なのだが、あったとして、彰考館が筆を入れたことは間違いない。光圀が指示したかどうかは、「記録」がないから、「関与したようだ」にとどめておくが、かくの如く推測することは蓋然性が高いとは言えないだろうか?


とまぁ、考え方を披露しつつ、茨城県北部の古代官道についてメモしておく。

日本後紀によれば、811年に海道が閉鎖され、田後、山田、雄薩の駅家が新設され、さらに北側の福島県でも、久慈川沿いに高野と長有の駅家が作られた。(順不同)

茨城県側の解釈だと、紆余曲折を辿ったが、今のところ田後を郡衙のあった常陸太田市(旧金砂郷町)の大里地区、山田がおそらく常陸太田市(旧水府村中染?)、雄薩がやはり常陸太田市(旧里美村)大中から徳田あたりと推定しており、高野、長有は、福島県側だから、県外につき考察の範囲から外しているようだ。

一方、福島県側から見た場合はどうなるのかというと、塙町史には、大日本地名辞書の編纂者吉田東伍の説を引用し、高野は塙町伊香の台宿付近、長有を茨城県大子町の下野宮、雄薩を大子町頃藤ではないかと推定してあった。

この根拠は、日本後紀の記述、常陸道の久慈川沿いに高野と長有の駅家を設置したとあるからだろう。



高野駅家については、久慈川に近い塙町伊香の台宿あたりという説がある。あるいは矢祭町高野という説もある。こちらは久慈川の支流、小田川沿いになるのだが、その上流の上関河内、下関河内あたりも推定地の候補になる。

長有の駅家の場所は推定もされていないのが現状のようだ。

駅家間はほぼ30里(16km)と決められていたのだから、推測のひとつや二つくらいしても良いだろうに。まぁ、埋蔵文化財の発掘は、予算がないという言い訳の下、道路工事にでも出くわさない限り行われないから致し方ない。

ということなので、わたしは思う存分推定してみることにした。

彼らが遺物を唯一の証拠と考えている間に、わたしは先を行くことにしよう。

新しい駅家は、常陸国那珂郡衙から陸奥国の玄関口白河郡衙を結ぶ山道の官道、いわゆる常陸道に設けられたと考えるのが一般的だろう。


那珂川沿いの水戸市渡里町の台渡里廃寺、那珂官衙遺跡と河内駅家を起点にして、三十里=16km毎に駅家を置くならば、陸奥国白河官衙跡(白河市仮宿株木)まで直線距離で80kmなので、80/16=5ないし、迂回を考慮して6分割になるだろう。

つまり河内駅家≒那珂郡衙と白河郡衙を除けば3〜4箇所の駅家を新設したと推測できる。


記録にあるのは、常陸国に3つ、陸奥国に2つ。併せて5箇所。どうもひとつ多いようだ。

811年に新設された雄薩の駅家は、おそらく陸奥の国では長有と書かれたとまでは推測した。

雄薩の読み方は、おさっ。

長有の読み方を、おさう、としたら、ほぼ同じではないかと閃いたわけだ。☝️


常陸国には、田後、山田、雄薩の三駅が新設され、これまでの解釈では、田後が久慈郡衙のあった、旧金砂郷町大里付近、山田が山田川沿いの旧水府村中染付近、雄薩が旧里美村徳田付近ではないかと推定されている。


日本後紀では、二つの駅家、高野と長有は陸奥国の久慈川沿いの常陸道に「急を要して」新設されたとしている。

前述した長有を茨城県大子町下野宮付近とする説は、大子町が律令制時代のいつかから太閤検地までは陸奥国依上堡だったから、成立しそうだ。


里美村徳田あたりは以前小里村と言ったが、それを持って雄薩の根拠にしているようだ。

関東と陸奥国の境に作られた境明神が、そこより北の今の県境にあるので、中世においては常陸国だっただろう。

しかし、小里より南にもじつは堺神社(旧水府村東染)があるのだ。


中世から近世にかけては、佐竹VS結城などのバトルがあり、その都度領地が変化しているようなので、古代からあるわけではない境明神、堺神社の位置については、いかようにも説明できるだろうが、わたしの範疇ではないので、深入りはしない。


まとめると、常陸国から陸奥国への海道を廃止し、山道を設置したのだが、その山道の候補は2ルートあり、ひとつは茨城県の研究者が提唱する、久慈郡衙ー水府村ー里美村ー矢祭町大垬ー塙町伊香。

二つ目は、R118久慈川沿いの常陸大宮市ー大子町ー矢祭町ー塙町ルートだ。


久慈川ルートの場合、最初の駅家である田後は、常陸大宮市田子内ではないのか?

田子内は、のちの河内駅家から直線距離で、ちょうど16km。




以降の駅家を推定してプロットすると以下のようになる。

下から、河内ー田後ー山田ー雄薩(長有)ー高野ー白河官衙遺跡。

山田は塙町史の推定を踏襲し、大子町頃藤辺り。雄薩(長有)は大子町下野宮辺りになる。

田後→田子内のように地名が残っていれば、ほぼ確定だろうが、今のところ見つからない。


地図の感じから、ほぼ同距離なことは読み取れるだろう。

ただし、久慈川は道の駅「川プラザ」や袋田付近で蛇行もあり、すんなりとはいかない。

矢祭山あたりは現在のようにトンネルを掘らないと川沿いに道はできまい。

橋も必要最低限にしないとならないだろうが、那珂川を見てみれば渡しでも可能か?


金砂郷の久慈郡衙を田後とする説は、のちの河内駅家から直線距離で12kmと近すぎるし、日本後紀で郡衙と附記してもよかったのではないか。

のちの河内駅家は、常陸国風土記からは、いちど移動したことがうかがわれ、海進を避けるため高台に移ったと考えるのだが、大里付近の標高は20m程度で低すぎる。だから、藤原通延や佐竹義昌は太田を本貫にしたとも考えられる。


海道を廃止した理由を、坂上田村麻呂による奥州平定とする説があるが、新たに山道に駅家を設置した理由は、陸路の安全が確保されたからだろうか。

だとしたら海道の駅家とは文字通り、港だったのだろうか?

石橋、助川、藻島、棚島は港だった可能性は低くはない。地図をみればわかるが、日立南部の久慈浜からいわき市勿来町のあいだのどこを直線的なスーパーハイウェイを作れるというのだ。

それに石橋駅家は間違いなく、久慈川南岸の港だったろう。だとしたら北岸の日立市久慈町や南高野町

にも港があったに違いないし、それなりの規模の施設とする必要がある。双方向の移動が前提だから、北岸も駅家と呼ばれても良いのではないか。

そういう痕跡が発見されていない現時点の最善案は、石橋駅家から助川駅家までの海路になるだろう。つまり、大甕町、大沼町、金沢町、多賀町、成沢町に陸路の官道はなかったのかもしれない。


藻島も棚島も「島」だから、海に面していただろうし、助川は会瀬あたりでも良いから、港になり得る。

中世の応永(1400年ごろ)の頃の水位だと、藻島は海の藻屑と成り果てるのだ。


とりあえずここまで。

次は山田と雄薩≒長有)の場所を推定してみたいが、見通しは立っていない。